5.二人目 ~虹の橋 5/11
『5.二人目』はペットの死を扱います。
苦手な方、心に大きな傷のある方はご注意くださいませ。
左江子の声が聞こえているのかいないのか、女性は全く振り向く気配も無い。完全に窓を向いているので左江子からは表情を確認することもできない。これも頑なさの表れだったりするのだろうか。
少し考え、左江子が後ろ姿に「こんにちは」と少し大きめに声をかけると女性は嫌そうな顔で体ごと振り返った。
「私はまだ逝きたくないの。それだけ、終わりね」
開口一番そう言ってそっぽを向いたその人は十代後半くらいの少女に見えた。瞳の色はこげ茶色。左江子と同じで生前の色そのものかもしれない。
左江子に投げかけられた言葉は冷たく取り付く島もないが、挨拶をした左江子を無視することなく振り返って応えてくれた。しかもまた完全に窓の方を向いてしまうのではなく顔だけを背けて体はこちらを向いたまま。なるほど確かに悪い人ではなさそうだ。
話してくれる気も無さそうだが「はいそうですか」と帰るわけにもいかない。左江子はちらりと手元を見ると少しだけ口角を上げた。
「橋本奈々さんですね、遠山左江子です。とりあえずお茶にしませんか?今日のお茶請けはチーズケーキを用意したので、せめてそれだけでもせひご一緒に」
「…チーズケーキ?」
興味を引くことには成功したようで、奈々の視線がほんの少し左江子の方へと戻って来た。
実は左江子はカフェテリアの紳士からワゴンを借りてきていた。大きめの紅茶のポットと別添えで温めたミルクを用意してもらい、紳士特製のベイクドチーズケーキと一緒に応接室へ運んできたのだ。
最初の日にカフェテリアへ行った時に静が食べていたのが気になって後日注文してみたのだが、これがまた美味しかった。まったりと実に濃厚で、それでいて後味がくどくないのだ。左江子はすっかりファンになった。
カフェテリアのメニューは全てあの虹色尻尾の紳士の手作りであることが判明したのもその時だ。
せっかくなので部屋でも食べたくてどこかで手に入るのかと紳士に聞いたところ、紳士が作っているから言ってくれればテイクアウトとして用意するとありがたいお返事をいただいた。
ダンディなだけではなく料理までできるとは…とうに胃袋を掴まれている左江子は、更に惚れ直してしまった。
左江子は意外と重いワゴンをぶつけないようにそうっと応接室に入れ扉を閉めた。扉の廊下側は深い緑色だったが室内側はナチュラルな木材の色だ。何のための緑だろう?と左江子は思ったが、きっと受付のお嬢さん方が説明しやすいようにだろうとひとり納得した。
「座ってください、今ご用意しますね」
左江子が応接セットの奥のソファを勧めると奈々は少しためらうように視線を泳がせ、そわそわと居心地悪そうにしながらも素直に席についた。
左江子と視線を合わせないようにしているのが、まるで生前よく見かけた近所の猫が警戒しつつもそろそろと寄ってくる様子に似ていて何だか可愛い。
左江子はワゴンで紅茶をカップに注ぎ、奈々を脅かさないよう少しだけ奥にそっと置いた。温めたミルクを横に添え、そうして奈々の目の前にチーズケーキのお皿を置いた。
チーズケーキを見た奈々の目が大きく見開かれた。そうだろう、紳士がケーキをワゴンに乗せてくれた時、左江子も同じような顔をした。奈々がちらりと左江子を見たため、左江子はにっこりと笑って頷いた。
「どうぞ召し上がってください。とっても美味しいんですよ」
今日のチーズケーキにはいつものスグリのソースだけでなくゆるく泡立てた生クリームと苺やラズベリーなどのフレッシュクベリーが添えられている。紳士にちょっと戦ってくると漏らしたところ、援護射撃にと綺麗に盛り付けてくれたのだ。
今日もまた左江子は紳士に惚れ直した。紳士はどこまで左江子を惚れさせてくれるのだろう。
「ぜひ」と駄目押しすると、奈々がしぶしぶといった体でフォークを取った。
ひと口大に切り分け、奈々がチーズケーキを口に運ぶ。ほんの少しの咀嚼の後にまた奈々の目が大きく見開かれるのを見て、左江子は内心でにやりと笑った。紳士の圧倒的な勝利だ。左江子が勝ち誇ることでは無いのだが。
左江子も自分の分の紅茶とケーキの皿を用意して奈々の向かいに座ると、いそいそとチーズケーキにフォークを入れた。ねっとりとした重さのある抵抗の後、最後にさくりと土台が割れてひと口大になる。
いつものスグリのソースだけでも十分に美味しいのだが、生クリームの濃厚さが合わさるとそれはそれでまた格別だった。合間に食べるフレッシュベリーの酸味が口内をリセットしてくれて何度でも美味しい。
ひと口、ふた口と食べ進めればこんな時でも幸せな気持ちになれるのだから紳士は本当に凄い。ちらりと奈々を見ればすでに半分を食べ終わっている。
「美味しいですよねぇ…」
独り言のように呟き、ほぅとため息を吐いて左江子が紅茶を口に含む。今日の紅茶はコクと甘みはあるが苦みは控えめだ。
じっと左江子を見ていた奈々が少し考えるように首を傾げると、ミルクを入れて紅茶をひと口飲んだ。
「美味しいわ…」
少し悔しそうに言った奈々に、左江子は声を出さずに笑った。
うっかり目を合わせて声を掛けたり手を出したりしようものなら走って逃げてしまうのだ。気にしていませんよという顔をしていると様子を伺いながらもてこてこと歩み寄って来る。本当に、近所の猫にそっくりだ。あの子は元気にしているだろうか。
「ねぇ」
左江子が全く奈々を気にせず紅茶とケーキを堪能していると、奈々がケーキの最後のひと口を名残惜しそうに飲み込み左江子を見て言った。
「相談員って、成仏しろって説得するのが仕事じゃないの?」
奈々はいぶかしげな顔でじーっと、まるで睨みつけるように左江子を見つめた。
あちらから視線を合わせてくれたらもう大丈夫。左江子はその視線を一度だけ正面から受け止めて、喧嘩にならないよう少し逸らして淡く笑った。
「私は心残りを抱える方のお力になるお仕事だと聞いていますよ」
左江子はゆっくりとカップを回して紅茶の水色を楽しんだ。今日の左江子はミルクを入れずストレートでいただいている。ミルクを入れることを想定しているため少し濃い目だが、渋くはないのは紳士の茶葉選びの確かさだろう。
「まだ命の流れには乗りたくないんですよね?大丈夫ですよ」
左江子が何でもないことのように頷くと奈々が「はぁ?」と呆れた声を出した。疑うような半目にはなっているが最初よりも奈々の声に棘が無い。失礼な言い方だが、やはり餌付けは効果があると思うのだ。美味しければ美味しいほど。
今日の所は少し話ができれば上々だと左江子は思っていた。誰もが頑なだと微妙な顔をする奈々から二言、三言よりも言葉を引き出せたなら大成功だと思っていた。紳士の力を借りはしたが今のところは大成功と言えるのではないだろうか。
「そういうものなの…?」
奈々が何とも言えない顔をしている。手元を見ると紅茶を飲み切っていたのでおかわりを勧めると「うん、お願い」と言われたので、左江子は奈々のカップに気持ち少なめに注いだ。奈々がいそいそとミルクを入れてスプーンで軽くかきまぜる。
「ところで。奈々さんは猫はお好きですか?」
紅茶をひと口飲んだ奈々の口元が緩んだのを見て、左江子は唐突に聞いてみた。