5.二人目 ~虹の橋 4/11
『5.二人目』はペットの死を扱います。
苦手な方、心に大きな傷のある方はご注意くださいませ。
今日の左江子はいつもより早めに執務棟へやって来た。腕で光る時計の針は現在、朝の八時を回ったところだ。
ふたり目の迷い人との面談は十時からではあるのだが、何の準備も無く会うには静の昨日の様子は不安すぎた。左江子も時間までに一度は調書に目を通して話題や対応を少しくらいは考えておきたい。そうなると、調書は朝に受付で…とのことだったのでそれなりに早く来るしかなかったのだ。
今日は静に用事があるので別行動だが、今も朝は職員棟のロビーで待ち合わせて静と共に執務棟へ来ていた。その日の左江子の仕事についてや予定について話を聞きながら庭園を抜けて来るのだが、だいたい執務棟に着くのは九時を少し過ぎたあたりだ。
実のところ朝はそれくらいにならないと受付に人がいないのでは…と心配していたのだが、昨日の夕食時に紫に聞いたところ、何と受付のお嬢さん方は交代制で二十四時間誰かが控えているらしい。人が亡くなる時間は選べないからね、と言われて納得した。そういえば左江子も夜にひとりで永眠りについた。
余談だが、左江子が真弓以外の受付のお嬢さんを見たことが無いと言うとそれは見たことが無いのではなく左江子が見ていないのだと紫に笑われた。ちなみに二十二時以降の受付には男性が立っているらしい。どんな人が立っているのだろう、少し興味がある。
思い返してみれば左江子が十王庁に来た時に番号札を渡してくれたのは受付にいた真弓だった。それに長官と話してから静に案内されてカフェテリアに行った時の空はクリーム色で、プリン・ア・ラ・モードを堪能してすぐに夜の色になった。
十王町の時計はあちらと同じ二十四時間で六時半になると空は昼の色になり、十八時半になると空は夜の色になる。きっかり十二時間で変わるのだ。
左江子が永眠ったのが夜中とすると、十王庁へたどりつくまでの左江子はどこにいたのだろう。実はあちらからこちらへの道のりはそれなりに遠いのだろうか。三途の川は通った覚えが無いのだが、やはり七日はかかるのだろうか。
「おはようございます、真弓さん」
「おはようございます、左江子ちゃん。調書預かってますよ!」
左江子が軽く頭を下げると朝からとても明るい笑顔で真弓が調書のクリップボードを渡してくれた。今日も口元に見える八重歯が可愛い。それだけでも良い一日になりそうだと左江子の口元もほころんだ。
「ありがとうございます。真弓さんはこの…調書の方をご存じですか?」
昨日の馬車で見た静の微妙な様子を思い出し、左江子は調書を開いて聞いてみた。「うーん?誰でしょう?」と言いながら調書を見た真弓が笑顔のままでぴたりと固まった。
「あー…奈々ちゃん」
やはり真弓も知っているらしくなんとも微妙な顔になっている。静だけでなく真弓までもがこんな顔になるとは。何かとんでもない問題があるのだろうか。
「何かその…難しい方ですか?」
左江子が小さく首を傾げると真弓が困ったように笑った。三毛の耳もしゅんと少しだけ角度が下がった。
「あー、ううん、悪い子じゃないと思うの。ただね、ちょっと頑なと言うか何と言うか………」
またも頑なだ。静も昨日言っていた。ふたり目はちょっと頑なだ、と。
「私もね、臨時の相談員として奈々ちゃんに会ったことがあるの。でもね、こう…会話が成り立たないと言うか………」
うーん、と真弓が腕組みをして斜め上を見た。可愛らしい三毛の猫耳がついにパタりとイカ耳になり、尻尾もせわしなくぱったぱったと動いている。
これは…嫌だとか、困るとか、不愉快を表す意思表示だ。困っているのはこれ以上ないほど分かるのだが左江子はついつい可愛いなと思ってしまった。
「紫もね、この子は時間がかかりそうだな…って言ってたわ」
うまく言葉が見つからなかったらしく真弓は紫の感想を教えてくれた。恐らく紫も相談員として相対してそういう感想を持ったのだろう。
昨日、紫との夕飯が楽しすぎて静の反応について聞いてみるのを忘れていた。あの場で聞いて微妙な空気になるのも嫌なので忘れていて正解だったのかもしれないが。
「ともかく、ちょっと難しいかもしれないけど悪い子じゃないの。それだけは確かよ!」
そう言って真弓は「頑張れ!」とばかりに両手をぎゅっと胸の前でこぶしを握る。そんな真弓は可愛いが不安しかないなと左江子は思った。
「あ、場所は第三応接室だよ!」
「第三応接室ですか?」
指定された場所は初めて聞く場所だった。てっきり香子の時のようにカフェテリアでまずはお茶を飲みながら話すのかと思ったのだが。
「そこの階段を上がってカフェテリアとは逆の左に進んで突き当りを右。そのまま奥へ向かって三つ目の応接室だよ。扉が緑色だから分かりやすいと思うわ」
腕時計を見ると時刻は八時半。約束の十時まではかなり時間がある。
「分かりました、ありがとうございます。時間があるのでカフェテリアで珈琲を飲んでいますね」
「りょーかいです!上手くいくように応援してるね!」
「はい、まずは頑張ってみますね」
にっこりと笑い右のこぶしを軽く上げ、まるで招き猫のように応援してくれた真弓に笑顔で手を振り、左江子はカフェテリアで紳士の珈琲をいただきつつ作戦を練ることにした。
ほぼ白紙だった香子のときよりも調書の内容は随分と充実しているようだ。準備も含めて一時間半もあるのだからひとつくらいの対策は立てられるだろうと、この時の左江子は非常に甘く見積もっていた。
そうして一時間後の九時半。左江子は何も思いつかないままに第三応接室の扉の前へやって来た。
何と九時過ぎにはふたり目の迷い人がすでに来てしまったらしく、初めてお会いする白いうさ耳の垂れ目のお嬢さんがカフェテリアまで慌てた様子で知らせに来てくれた。
しっかりと準備をした状態で十五分くらい前から応接室の中で落ち着いてふたり目を待ち受けよう!…などと意気込んでいたのにとんだ大誤算だ。
お相手が早く来すぎているとはいえ聞いている限り少々難しい人のようだ。時間通りに応接室に行って遅いと怒って帰られてしまっても困るので、左江子は覚悟を決めると第三応接室とプレートの貼られた緑の扉をノックした。
「失礼します。相談員の遠山左江子と申します」
少しばかりびくびくしながら第三応接室に入ると茶色い髪をボブに整えた女性が奥の窓からクリーム色の空を眺めていた。