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5.二人目 ~虹の橋 1/11

『5.二人目』はペットの死を扱います。

苦手な方、心に大きな傷のある方はご注意くださいませ。


 その日、左江子は長官のお使いへ行くという静に連れられて『いなりや』へ来ていた。いなりやはその名の通りいなり寿司の専門店で、趣のあるすりガラスのはまった木の引き戸を開けて薄暗い店内へ入ると、目の前にショーケースになったカウンターがあった。


「すごい…」


 左江子は目を瞠り感嘆の声を上げた。ショーケースに並ぶのはたくさんのいなり、いなり、いなり寿司ばかり。それぞれが並んだお盆には手書きの札が付いている。ぱっと見ただけでも軽く十種類は超えそうだ。


 左江子は、実はいなり寿司に目が無い。昔住んでいた借家の近くにいなり寿司専門店がありそこも常時五種類くらいを置いていたのだが、ある日店主のおじさんが高齢を理由に辞めてしまった。当時の左江子はすでに成人済みだったが、おじさんに「ごめんなー」と言われてちょっと泣いた。

 それ以来、左江子は自分でおあげを炊いて冷凍しておくようになった。食べたいときに食べたい分量だけ常温解凍して、自分好みの酢飯を作って詰めていた。一番のお気に入りはゆず果汁を使った胡麻いなりだ。


 そんなわけで、左江子はショーケースに釘付けになった。特にあの、『田舎』と書いてあるいなり寿司と『出汁』と書いてあるいなり寿司がたまらなく気になった。恐らく昔ながらの甘く炊いたおあげと、出汁を多めに炊いたジューシーなおあげのものだろう。おじさんのいなり寿司屋にもあったのだ。もちろん、左江子のお勧め三指に入っていたことは言うまでもない。


「お姉さん、よかったら試食するー?」


 あまりにも左江子の視線が熱かったのだろう。奥から出てきた店主と思しきお兄さんが笑いながら言った。さすがいなりや、お兄さんにはきつね色の耳と尻尾が…と思ったが、何も無かった。

 左江子の視線が頭と背後にちらりと向けられたのに気付いたのだろう。お兄さんが「毛皮は食品を扱うには不向きだからね」とまた笑った。きっと左江子以外にも同じことを思った人はいたのだろう。実にお恥ずかしい。


「で、お姉さん、どれがいい?」


 遠慮するべきかと思ったが、重ねて聞いてくれたこともあり左江子はちらりと静を伺った。静は手を口に当てて楽しそうにふふふと笑い、ゆっくりと瞬きをしながら頷いてくれた。


「田舎か…出汁か…それが問題だ…」


 まるで海外の古い戯曲のようなことを言いつつ左江子は真剣に悩んだ。つやつやと輝くきつね色の宝石は、どちらも左江子の心をがっちりと掴んで放さない。


 どちらかをいただいてどちらかを買って帰ろうと決心したところでお兄さんが「はいよー」と笑いながらカウンターの裏、のれんの奥へと消えて行った。

 そうして次に現れた時にはお盆の上に大きめの急須と、お湯のみと小皿が二つずつ乗っていた。


「あっちに座って待っててねー」


 お兄さんが指さした方を見ると、窓から差し込む淡い光に明るく照らされた一角に横長の竹製と思しき腰掛と小さな卓があった。

 静に促されて腰掛に並んで座り店内を眺めていると、お兄さんがいなり寿司とお茶を卓にのせてくれた。そうして「ゆっくり食べてねー」とまたも笑いながらのれんの奥へと戻っていった。


 左江子側に置かれた皿。そこには大きめの卵くらいの大きさのいなり寿司がつやつやとふたつ鎮座している。なんとお兄さんは悩みに悩んだ田舎と出汁を両方出してきてくれたのだ。

 優しい。こちら側の人たちは本当に優しい。思わず拝むようにお皿に手を合わせ、左江子は「いただきます」と言って箸を手に取った。


 まずは色のほんの少し薄いいなり寿司を掴み持ち上げる。しっかりと詰められ形を整えられたいなり寿司はその程度では決して崩れない。ひと口で食べてしまいたいところだがさすがに口に入らないので半分をがぶりと食べた。

 じゅわり、と口の中に出汁の良い香りとほんのりとした甘さが広がる。中のご飯は何の混ぜ物もない酢も控えめにした淡い酢飯で、出汁の香りと質の良さを実によく引き立てている。美味しい。他の言葉が見つからない。


 ちらりと静を見ると、小皿を手に持ちその上でいなり寿司をお箸で器用にひと口サイズに切り分けて口に運んでいる。その上品な所作に左江子はもぐもぐと忙しく咀嚼していた口をむぐっと止めた。これはもう、女子力の差を通り越して人間性の差だろう。

 左江子は諦めて美味しくいただくことに集中することにした。食べ物は美味しくいただいてこそ、だ。


 静の皿に乗っていたのはショーケースに並んでいない試作品だそうだ。長官のお使いで頻繁に訪れる静は、こうしてたまに新作の感想を求められることがあるらしい。なんて羨ましいのだろう。できれば次のお使いにも誘っていただけるとありがたいと心の中で左江子は切に願った。


 お茶で一度口の中を洗い流し、少し色の濃い田舎と対峙する。左江子も箸で切り分けようかと思ったが、そこは素直に左江子流にかじりつくことにした。

 がぶりと半分にかじりつくと、口の中におあげの甘さと、そしてほんのりと懐かしい風味がした。ゆずだ。おじさんの『田舎いなり』と同じ、あのゆず風味の胡麻いなりだった。


 きゅーっと、左江子の胸が締め付けられた。懐かしいおじさんの顔が思い浮かぶ。おじさんは四国の出身だと言っていた。もしかしたらこのいなりやのお兄さんも生まれは四国なのかもしれない。

 左江子の目に熱いものがせり上がってくる。どうもここのところ涙腺がゆるくていけない。左江子はもぐもぐと咀嚼を繰り返し瞬きを繰り返して目に滲んでしまった水分を誤魔化した。


 あまりの満足感にお茶を飲みながら呆けていると、静が湯呑を卓に置いて「気に入りましたか?」と言った。左江子はゆっくりと静を振り向き、深く頷いて「はい」とため息を吐いた。


「良かったです。もし左江子さんが好むようなら左江子さんにも色々買ってあげなさいと長官のお財布からいくらか預かっているのです。ぜひ買って帰りましょう」


 そう言って嬉しそうに微笑む静に、左江子も「ありがとうございます!」と笑い、食器類をお盆に乗せて持ちショーケースの前へ戻った。


 若いころの左江子はこういう心遣いをいただいた時は申し訳ないからと断っていた。自分がそれだけのものを返せるか分からないのに人の厚意を受け取ることがとても難しく感じていた。

 けれど、いつの頃からだったか左江子は素直に厚意を受け取るようになった。厚意も好意も遠慮されると相手は寂しい気持ちになるものだと知ったからだ。

 心遣いをいただいたなら、素直に受け取り「ありがとう!!」と満面の笑みで感謝すればいい。そして、機会があったならその時は迷わず気持ちを返せばいいのだ。その方が無碍にされるよりもずっと嬉しい。少なくとも、左江子はそうだったから。


「お姉さん、気に入ったー?」


 ショーケースの前に戻ると見計らったようにお兄さんが出てきた。食器の乗ったお盆をひょいと受け取ってくれる。


「はい、御馳走様でした。とても美味しかったです。特にあの…田舎が…本当に懐かしくて…」


 言うだけでまた少し目の奥が熱くなり、左江子は笑顔が引きつってしまった気がした。それでも万感の思いを込めて「ありがとうございます」と微笑むと、お兄さんも笑ってくれた。


「そっかー、田舎、懐かしいって思ってくれたか―」


 お兄さんが優しく笑って「ありがとうー」と言ってくれた。何に対するお礼かは分からなかったが、左江子も「はい」と笑った。


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