1.左江子の回想
その日、遠山左江子は六十三年の生涯を病院のベッドでひっそりと閉じた。
左江子はそれを短いとは思わないが「まだ早い」「惜しい」と言ってもらえるくらいの年齢ではあろう。どれほどの人が左江子の死を惜しんでくれたかは分からないけれど。
人の真価はその葬式に現れるという。いつも穏やかに微笑んでいた祖父が九十六歳で大往生をしたときを思い出してみると、親族だけで執り行ったその葬式には出席できなかった人たちから段ボールに二つ分以上の電報と香典が届いたらしい。
どうしても、と通夜から本葬までの間に駆けつけてくれた人も両手足では足りず、せめて仏前に…とひっきりなしに家に人が訪れていた。墓の問い合わせもかなりあったと母が後日漏らしていた。愛された人だったのだ。
祖父は警察官だったそうだ。警視庁やら警察庁やらで派手に捜査をして手に汗握る現場を駆け抜けるドラマに出てきそうな人たちではなく、町の小さな派出所の、いわゆるおまわりさん。
いつもにこにこ笑っていて、誰にでも真摯で親切で。愚直に定年まで勤めあげた人だった。
何をした、というのは聞いていないのだが、祖父に助けられたという方から毎年お中元が届いていた。産毛もみずみずしいふっくらとした良い香りのする桃で、左江子が知る限り一番おいしい桃であり、左江子の夏の密かな楽しみであった。
祖父が直接助けた方が亡くなった後も、そのご子息が変わらず贈り続けてくれていた。祖父の死を知ったそのご子息からは丁寧なお手紙と一緒に『ご霊前に』、と見事な大きさの艶やかな柿が届いた。祖父が亡くなったのは冬だったのだ。
祖母はそのお手紙にこれまた丁寧なお手紙を書き、ひとりになりますのでどうぞこれ以上のお気遣いは不要です、とお返事したそうだ。
それからは桃も柿も届くことは無かったが、祖父とは十歳年の離れていた祖母が十二年後に九十八歳でこれまた大往生して祖父の後を追うまで、ご子息からは季節のお葉書が届いていた。何と清らかで尊い繋がりだろう、と左江子は羨ましく思ったものだ。
左江子は、そんな祖父には似なかったのか人づきあいがとても苦手だった。職場の上司からは「人見知りじゃなくて人嫌いでしょ」と笑われたものだった。なるほどそうかもしれないと、妙に納得したのを覚えている。
左江子はそれなりに見目が良かったこともあり寄ってくる人は多かったのだが、左江子と話をすると大抵の人が「思っていたのと違った」と左江子から離れていった。
何人かとはお付き合いしたが、たいてい左江子が振られて終わった。いわく「君といると自信がなくなる」「何でもできる君には俺の気持ちは分からない」とのことだった。
何でもできるんじゃなくて何でもやるだけなんだけどなぁ…と思ったが、そこまでして引き止めたい相手もいなかったのでそれっきりだ。
左江子は要領が悪い。そのため何をするにも実は人より時間がかかる、と少なくとも左江子は思っていた。だからこそ、左江子はできるまで努力したし、自分が知らないと気付いたなら知る努力をした。その努力の積み重ねをそのように言われてしまうと、左江子そのものを否定されたようで、腹は立たないがとても悲しかった。
むしろ左江子と仲良くしてくれた人たちは、初対面では左江子を避ける人たちが多かった。少し目尻の上がった大きな目と通った鼻筋、少し厚めの小さな唇に整えずともそれなりに形のいい眉。それが思いの外うまく組み合わされて怜悧な美女風の顔立ちをしているのに、わざとではないが普段はほぼ無表情で暮らしていたため、かなり怖く見えたようだった。
何かの機会で長く話すことがあると、「こんな人だと思わなかった、良い意味で!」と笑ってくれた。左江子も普通に笑い返した。そういう人たちは左江子から離れていくことはほとんどなかった。人生の中で人数はとても少なかったけれど。
そして、圧倒的に女性が多かった―――いや、嘘だ。全員女性だった。
そんな左江子もご縁があり結婚をしたが、やはりそこは左江子なので、最終的には夫にも「違った」と言われてしまった。何を今更…とも思ったが、その時にはすでに左江子も夫との結婚生活に疲れ切っていたため、もうすぐ三歳になる息子を連れて家を出た。
離婚は特に揉めることも無くあっさりと進んだ。息子の親権は問題なく左江子が得ることができた。何のことは無い。「違った」左江子とは違う「違わない」女性ができただけだった。左江子もそれを知っていたが、特に争うこともしなかった。
左江子ひとりでも十分に育てていけるだけの収入はあったし、何より機嫌が悪くなるとすぐに物や壁に当たる夫との生活は静かに暮らしたい左江子には苦痛でしかなかったのだ。
何より、いつか当たる対象が自分ならまだしも息子になってしまったらと思うと怖かった。生涯関わりたくないので、面会を拒否する代わりに養育費も断った。あちらとしては願ったり叶ったりだろう。
養育費も面会権も本来であれば息子の権利なので勝手にその機会を奪うのは少し心が咎めたが、息子が希望しても決して歓迎されないと分かっていたためあえてそのままにした。
幸い、息子は元夫との面会など考えもしなかったようだ。むしろ毛嫌いしている感があった。十代も半ばになった頃に聞いてみたところ、うっすらと記憶にある元夫は恐ろしく、理不尽で、実に嫌な人だったらしい。子供って実は良く見ているのね…と感心したと同時に、自分の言動がどう見えていたのかを今更ながらに考えた。
息子からは「一般的な良い母親かどうかは正直分からないけど、人としては尊敬できるし今でもすごい人だと思ってる」と思春期の少年から貰えるであろう中では最大限の賛辞を貰った。泣かずに「ありがとう」と言えたことが奇跡だったと思う。
あの日から、左江子は変わったと思う。性格が変わったり行動が変わったわけではなと思うが、ずっと自分自身に自信が持てず人としての在り様に疑問を感じていた左江子は、これで良いのだと思うことができたのだ。四十歳になったばかりのことだったと思う。
それでも自分の性質が人と、特に男性と共に生きることに向いていないと感じた左江子は、特に恋人や親しい異性の友人を作ることも無く生涯を過ごした。
そういえば、と左江子は思った。今日の面会時間の終わり、帰り際に息子家族が「また明日来るね」と言っていた。五歳の女の子が手を握ってくれ、一歳になったばかりの男の子が一生懸命、義理の娘に抱かれて手を振ってくれた。
義理の娘が、少し季節には早いが早生の桃を持ってきてくれると言ってくれたのだが…申し訳ないことをしてしまったなと左江子は思う。夜のとばりの中をひとり永の眠りについてしまう左江子をどうか許して欲しい。そんなところも、きっと左江子なのだ。
総じて、左江子は幸せだったと思う。
長くも短くもない、幸せな人生だった。山も谷も…いや、谷の方が多かったかもしれない。けれども、終わりに『幸せだった』と思えることが実は一番幸せなのだ。間違いなく良い人生だった。
左江子はそう思いながら静かに、けれど笑顔で眠りについた。
――――はずだった。
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