上陽人
「後宮に得体の知れない生き物がいるらしい」
宮殿内でそんな噂が囁かれるようになったのは、後宮の権力者皇太后が身罷り七七日の法要が過ぎた頃だった。
世界の東方のその国では七年前に先帝が崩御し、成人したばかりの皇太子が皇位についた。それが現在の帝である。
若い今上帝は母親である皇太后に助けられながら政を行い、四年前には宰相の娘を皇后とし、皇子も生まれ、一人前の帝となっていった。
皇太后が先帝の后となったのは今から三十年ほど前のことである。
高い見識を有し、先帝が政はもちろんのこと、何から何まで相談するような、誰もが認める賢后であった。
皇太后は、先帝が存命中は後宮の皇后宮に住んでいた。
後宮とは、塀に囲まれた内裏の中、帝が住む宮殿の北側にあり、今上帝の妻妾と内親王たち、先帝の妻妾が住んでいる場所のことである。
宮殿から渡り廊下を行くとその先が後宮で、帝の御在所のすぐ北側、後宮の中で最も広い殿舎が皇后宮である。その脇の椽を行くと他の妃の殿舎があり、それぞれの殿舎は全て椽で繋がっていたが、皇后宮の前の椽を通らねば他の妃らの殿舎へは行けないようになっている。皇后宮へ通じる椽は広く、一番低い位の妾の殿舎へは人ひとりがやっと通れるほどの狭いものだった。
後宮へは帝以外の男性が足を踏み入れることは許されない。帝が出入りする渡り廊下の他には女官たちが使う通路以外に出入り口はなく、常に警備の官人が守っていた。後宮の中には女性だけが存在していた。
皇太后だが、先帝の一周忌が過ぎると、長いこと住んでいた皇后宮を今上帝の皇后に譲り、後宮の西庭の池のほとりに皇太后宮を作り、移った。
しかし皇太后は、皇后に宮を譲り隠居したと言っても、実質的には隠居後も後宮を支配し続けていた。皇太后は先帝に最も愛され、皇継を産み、先帝が薨じた後もずっと、皇太后の一言で世の中が動くと言われるほどの力を持っていたのだ。
後宮を管理する内侍司の人事権も皇太后が持っていた。
皇太后の独裁のようでもあったが、皇太后がいるおかげで後宮内は諍いもなく、かといってだらけることもなく、良い緊張感を持って帝に奉仕することができていたのである。
そんなふうに、今上帝も頼りにしていた皇太后だったが、帝の成長に安心したのか、二ヶ月ほど前、急の病で身罷った。
帝は大層嘆き、後宮の皆も悲しんだのだった。
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「後宮に得体の知れない生き物がいるようなのです」
皇太后の七七日の法要から間もない春の日、今上帝の皇后に侍女が言った。
「先ほど、北の椽に膳を運んでおる女嬬がおりましたので、はて、その椽の先にはどなたもいらっしゃらないはず、それをどこに持ってゆくのか、と問いました」
後宮の女たちの頂点にいるのは皇后だが、女たちを管理していたのは内侍司の女官である。内侍司の女官たちが後宮内の諸事の仕事をし、皇后や他の皇女、妃たちの世話をしていた。
「その若い女嬬は、中庭の向こうの離れに持ってゆくのです、と申しました。離れにはどなたがおられるのか、と問うと、わかりませぬ、と答えました。上役の指示に従って毎日膳を運んでいるだけにございます、と」
「その離れにはどなたがおられるのです」
「ええ、それで典侍に聞きましたところ、その者も、わかりませぬ、前任者から、そのようにせよと言われ続けているだけにございます、と答えるのです。明かり取りの出窓に膳を差し入れ置くだけで言葉を交わすこともないけれど、ただ、匙を使って食べている様子なので、犬猫の類ではなく人間なのでありましょう、という話でした。一体いつからのこと、と問いますと、私がお仕えする前からです、前任者からも、詮索はするなと言われております、と。その典侍は宮殿に仕えて今年で十一年目になるそうですが」
「それは奇妙なこと。十一年前というとまだ皇太后も先帝もご健在だった頃。私が後宮へ入ったのは四年前でしたが、皇太后からは何も伺いませんでしたわ」
「ええ、私もでございます。帝はご存知なのでしょうか」
「そうね、今度いらした時に聞いてみましょう」
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その離れにいる何者かのことなど、帝は全く知らなかった。それ以前に離れがあることに気づいていなかった。
皇后は、先帝の妃で唯一後宮に残っている第三妃の殿舎を訪問した。
地方豪族の娘で、十五年ほど前に後宮に入った。皇子と皇女をひとりずつ産んでいるが、今上帝の異母弟となる皇子は生まれて間もなく夭逝したため、帝位争いにも巻き込まれずに穏やかに暮らしていた。
「後宮の離れに誰が住んでいるのかですって? さあ、私は何も」
皇太后よりだいぶ若そうな第三妃は、興味のなさそうな顔で言った。
「離れがあるのは知っていたけれど、中庭の向こうには行ったことがなくて。後宮に住む女たちは皆そうではないかしら。藪が茂っていて虫が多いもの。皇太后だったらご存じだったと思うけれど」
その後も皇后の侍女は後宮中の女を集め、離れの部屋について訊いたが、誰も何も知らなかった。前任の尚侍と典侍に訊ねようとしたが、あいにく行方がわからなかった。
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菖蒲の香り漂う夏の朝、後宮の門前には屈強な男たちが集まった。
後宮内の離れの扉を開こうというのだ。男たちは後宮内に入れない決まりなので、女たちが離れの中にいる何者かを後宮の外に追いやり、男たちが捕まえるのである。
帝と皇后が離宮へ行幸している間にことを済ませようとした。離れの部屋から出てきた者が、帝に危害を咥えないとも限らないからだ。
離れの部屋の明かり取りの窓から覗くも、中は薄暗くて何も見えない。他の窓は、まるで罪人を閉じ込める牢屋のように、漆喰で塗り固められ塞がれている。部屋の中にあるであろう厠から流れる汚物を流す水路が、部屋の脇を通っていた。
「厠があるということは、人なのでしょうが」
「食事の量からすると、体の大きな者ではありますまい」
離れの前に集まった女官や下女たちが囁き合う前で、指揮を取る年配の尚侍が言った。
「しかし、万が一、妖の物でも現れたら一大事、内道場の僧侶に待機していただきました」
「何が出てきても、我らはなんとかして後宮の門の外に追いやり、男どもが退治をしましょうぞ」
槍を構える女官が、勇ましく言った。
「そなたはほんに、女にしておくのが惜しい」
「はっ、ありがたきお言葉」
他の女官たちは形だけ槍を立てて遠巻きにしている。
年配の尚侍は、このような役目は嫌で嫌で仕方がなかったのだが、後宮のことは全部任せると皇后から言われている手前、先頭に立って指揮を取らなければならなかった。
入って間もない女嬬が二人がかりで離れの扉の閂を外した。
「扉が、開きましたわ」
ギィと嫌な音を立てて重い木の扉が開いた。
「誰か、灯りを持て」
中は薄暗く、奥まで見通せない。
「うっ」
恐る恐る中を見定めようと覗き込んだ女官が、衣の袖で鼻を押さえた。
「何かこれは、糞尿の臭い」
ようやく灯りが届くと、部屋の隅に壁に寄りかかって座る人らしき塊が見えた。
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「ひょっとすると……、前の少納言の養女かもしれませぬな」
後宮の離れから連れ出されたのが年配の女だと知れると、内匠の翁が言った。
「前の少納言の養女? 」
「どれくらい前のことじゃろう、二十年は経っておろうか。とある海沿いの田舎の村に大層美しい娘がおったそうな。透けるような白い肌、ふっくらとした頬、流れる緑の黒髪、千年に一度舞い降りる天女と謳われたその評判は、潮風に乗って京まで届いておった」
「村の名主はその娘を妻にと望んだそうじゃが、それよりも先に娘の噂が少納言の耳に入ってしまってな、少納言は娘を養女にして、当時の帝、今上帝のお父上の後宮に入れたのじゃ」
「ところがそのことを知った皇后、心穏やかにあらず」
「先帝の皇后、先だって身罷られた皇太后のことじゃが、その当時、皇后は長らく子ができなかったのが漸く男子が生まれ、その子が次の帝になると言われておった。帝には皇后を含め三人の妃がおられたが、他の妃たちは男子に恵まれなかった。いや、正確に言うと、男子が生まれても長く生きられなかったのじゃ」
後宮の女たちが無言で顔を見合わせた。
「後宮内の出来事はワシらの預かり知るところではありませんでの。とにかく帝は皇后にぞっこん惚れ込んでおられたし、帝だけではない、宰相を父親に持つ皇后に物申す人間はいなかろうて」
「そんな折、天女のような娘が後宮に現れたのじゃ。帝が娘に心奪われないとも限らぬ。皇后がいったい何をしたのか存じぬが、後宮に入った少納言の養女はなかなか後宮に馴染めぬらしいと、しばらくの間は人々の口に上ったが、やがて噂は聞かなくなった」
「少納言は養女を案じながらも病で亡くなり、後を継いだ少納言の息子は政争に巻き込まれた末に地方暮らしとなり、今はどうしていることやら。娘のことを顧みる余裕などないじゃろう。都の皆と同様に、帝も娘のことを忘れた。ワシが知るのはそれだけじゃ」
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「何だって私たちがこんなこと」
裏庭の池で、後宮の女嬬二人が、垢で真っ黒の女の体に水をかけている。
「ああ、臭いわ。どれほど体を拭いていなかったの」
「帝がお戻りになったらお会いするかもしれません。御前に出るのだから、失礼のないようにきちんとさせてちょうだい」
監督の女官が言う。
「はあい」
「着替えはそこに用意してあるから、化粧は……必要ないかしら。ベニくらい差したほうがいいかしらね、あなたたちのベニを貸しておあげ」
「ええ? 」
女の垢だらけの体が一皮剥けたように白い素肌を現した。
「まあ、白い」
「そりゃそうよ、ずっと日の光に当たっていなかったんだもの」
「そうね、これならベニを差せばお婆さんもちょっとは見られる姿になるわ」
「お婆さん? 」
それまでされるがままだった女がピクリと眉を動かした。
実際にはお婆さんというほどの年齢ではなかったのだが、十三、四歳の女嬬たちには、白髪混じりのやせ細った女がまるで物乞いの婆のように見えていたのだろう。
「ああ、動かないでちょうだい。今、顔を拭くから」
後宮の隅の空室が女にあてがわれた。
女嬬二人が手伝って衣服を整え髪を梳かし、女の支度を整えた。
「ほら、顔を貸して」
女嬬が自分の薬指の先にもったいなさそうにほんの少しのベニをつけて、女の唇をなぞった。
「まあ、これでいいかしらね、はい」
女嬬が手渡した手鏡を、女は覗きこみ、呟いた。
「これは、私? 」
無表情に鏡を見つめたままの女に、女嬬が言った。
「まあ、元は悪くなさそうだから、もっとちゃんと化粧したらそれなりにはなるのだろうけど」
「必要ないわよ。お婆さんには」
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外遊から戻り、ことの次第を聞いた帝は、女に拝謁を許した。
女は、自分の顔を衣の袖で隠すように俯いていた。
「そなたのこのようなことは全く知らなかったとはいえ、母皇太后の関わっていたこと、気づかなかった自分にも非がないとも言えない」
「そなたには特別に多くの退職金を出そう。退職金を持って、故郷へ帰りのんびり暮らすがよい」
「故郷に知らせたら、そなたの幼馴染という男が迎えに来ると言っておった。一緒に故郷に帰れ」
初めて女は顔を上げた。
「幼馴染……。なぜ親族ではないのですか」
「残念なことだが、そなたが京に上ってまもない頃、そなたの村に盗賊が押し入って、そなたの親兄弟、親族も皆、命を奪われたという話だ」
「そんな」
「幼馴染の男は、妻に先立たれ今は独り身だそうだ。なんだったらそなたを妻に迎えてもいいと言っておった。その男と一緒に残りの人生を過ごすもよかろう」
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その翌朝、後宮の西の池に女の死体が浮かんだ。
「せっかく外に出られたのに、なぜ」
下女たちが囁く中で、先帝の第三妃は呟いた。
「あな、恐ろしや」
「ええ、恐ろしいこと。後宮で死人が出るなんて」
侍女が相槌を打った。
「いいえ、恐ろしいのは」
恐ろしいのは皇太后。
女の若く美しい時間を奪うだけに飽き足らず、いつか老い衰えた姿で皆の前に引き摺り出される屈辱を与える。
当初からそのつもりでなかったとしても、この結末は意想外ではないでしょう。ただ、自分に好意を持ってくれていた男に老いた姿を晒される苦痛が追加されるとは、彼女も思わなかったかもしれないけれど。
帝の寵愛を手放さないために、息子を帝位につかせるために、どんなことでもしていた皇太后。死してなお、その力を及ぼすとは。
第三妃はそのまま口を閉じた。(了)