神様が見つけた男の子
新連載です。
よろしくお願いいたします!
第1話も同時更新しています。
※子どもと犬がネグレクト、暴力、暴言などを受ける表現があります
苦手な方はご注意ください。
雪がしんしんと降っていた。
真っ白なそれが音を食らいつくし、時折、目の前の道を走り抜ける車の音もあっという間に聞こえなくなる。
そんな、静かで、寒い夜だった。
瑠偉は、小さな犬のポンタと一緒にベランダにいた。
薄汚れた大人物の薄手のシャツだけを着て、ふわふわのポンタのぬくもりに縋るように腕の中に抱きしめて、膝を抱えてうずくまっていた。
ポンタが時折、心配そうに瑠偉の頬を冷たい鼻でつつき、その度に手放しそうになっていた意識をなんとか繋いでいた。
部屋の中からは、男と女の笑い声が聞こえてくる。今は彼らの好きなテレビ番組の時間だ。
いつもこの時間は、邪魔だからと外に出される。冬も夏もベランダで、その番組が終わるのを待つ。でも、時折、番組が終わってもこの窓が開かないことがあった。
部屋の中にいるのは、瑠偉の父と母だ。
でも、瑠偉は二人にとって邪魔者で、面倒な存在で、怒鳴られたり、殴られたりするのがいつものことだった。
「お、なか、すいた、ね」
寒さで喉が締め付けられて、ガタガタと震える顎のせいで言葉はとぎれとぎれになる。
最後に食べ物を口にしたのはいつだっただろう。大分前のような気がする。
「くぅーん……」
長い毛の下で同じようにあばらの浮いたポンタが小さな頭を瑠偉にぐりぐりと押し付けてくる。
ポンタは、ある日、おかあさんがどこからか連れてきた犬だ。ポメラニアンという種類らしい。
「……てれび、の、なか、でね」
ポンタが真っ黒な目で瑠偉を見上げる。
「どらま、で、おとうさん、とおかあ、さんが……こども、だきしめて、た。……ぼくは、なんで、だきしめ、て、もらえないん、だ、ろ」
「くぅーん、きゅんきゅん」
鼻を鳴らしながら、ポンタが瑠偉の頬をなめる。まるで自分がいるよと伝えてくれているかのようだった。かじかむ手は、氷のように冷え切ってうまく動かない。撫でたいのに、抱きしめる腕がほどけないのだ。
「ぼく、も……おとうさん、と、おかあさん、に、だきしめて、もらい、たい、なぁ」
雪がだんだんと瑠偉の上に降り積もっていく。
先ほどまでどうしようもなく寒かったのに、今はポンタのぬくもりだけが腕の中に残っている。
体が傾いていき、視界は真っ白な雪雲とアパートのわずかな庇だけが映り込む。
目から何か温かいものが出ている気がしたけれど、それが何かもよくわからなくなっていった。だんだんと体から何かが抜けて行く。
「……可哀そうに」
男とも女ともつかない声が悼むように告げる。
「生まれる世界を間違えてしまったんだね。そうだ……私が戻してあげよう」
ふわりと体が浮いた気がして、ポンタをぎゅっと抱きしめる。
「優しいお前にはこの子を護る力をあげようね」
ポンタが「わん!」と返事をした声にわずかに意識が戻る。
「……幸せにおなり、――――」
そんな声が最期に聞こえたような気がした。
「なんだ、この薄汚い生き物は……!」
頭の中がぐらぐらしている。
瑠偉が座り込んでいる床には、不可思議な模様が描かれていて青白い光を放っている。腕の中にいるポンタが小さく唸り声をあげていた。
「これが聖者様と聖獣様とでもいうのか!」
男の苛立った声に体が勝手に強張った。
たくさんの大人がいる。見たこともないような服を着ていて、近くにはテレビの中にいた魔法使いみたいな恰好をしている人がいた。
「お、お待ちください、陛下。まだカードは二枚、残っております!」
「ならばさっさとこの薄汚い生き物をどこかへ飛ばし、次を喚ぶのだ!」
びりびりと空気が震えるような怒鳴り声にポンタを抱きしめる腕に力がこもる。
「くそっ、お前のせいだぞ……『転移!』」
頭上から聞こえたささやきに顔を上げる間もなく、目の前がぐにゃりと歪んで内臓がよじれるような気持ち悪さに襲われる。
「ポ、ポンタ……!」
ポンタをぎゅっと抱きしめると、瑠偉の腕に掛けられたポンタの前脚にも力がこもった。
ぐるんぐるんと回転して上も下も分からなくなったころ、急に自分が地面に座っていることを自覚した。
ゆっくりと目を開ける。
青白い月の光が照らす世界は、たくさんの木が生えていて、冷たい夜の風が瑠偉の頬を撫でた。
先ほどまでいた変な部屋でも、瑠偉が暮らしていたアパートでもないことは、分かった。
木と木の間は月の光が届かず、何があるのかも分からないほどに濃い黒があって、その怖さにポンタを抱き寄せる。
だが、ポンタは瑠偉の腕を体をひねって抜け出すと、その黒い森の中に向かって、唸り声をあげながら小さな牙をむき出しにする。
これはいつもおとうさんが、瑠偉を殴ろうとするときにポンタが見せる姿だった。
その時、がさりと草の揺れる音がして顔を上げる。
「ヴヴーー」
ぞっとするような唸り声が聞こえて、瑠偉は増える足を叱咤して立ち上がる。
木々の間から、灰色の大きな犬が――のちに狼というものだと知ったーーがぞろぞろと出てきた。
ポンタと同じようにむき出しになっている牙は、ポンタのそれとは比べ物にならないくらいに大きかった。
「ひっ……!」
きょろきょろと辺りを見回す。
背後は上が見えないほどの石の壁があった。だが、すぐ近くにぽっかりと空いた穴があった。洞窟、という言葉が頭をよぎる。
「ぽ、ポンタ!」
ポンタがこちらを振り返り、駆け出した。瑠偉は慌てて転びそうになりながらもその小さな愛犬を追いかけ、洞窟へと入る。
不思議と洞窟の中は真っ暗闇ではなかったが、それがどうしてかを考える暇もなく、瑠偉は走った。
だが、洞窟は狼が入れるほどに広い幅を保ったまま、唐突に行き止まりに突き当たった。
その行き止まりはぽっかり空いた空間になっていて、大きな岩がごろんと転がっていた。
瑠偉はその岩陰に身を隠す。
「ポンタ、おいで……!」
ポンタに手を伸ばしたが、ポンタは瑠偉が隠れたのを見届けるとまたもや洞窟の外に向かって走り出していってしまった。
追いかけようと立ち上がろうとしたとことで足の裏に激痛が走った。
右足の裏に深々とした切り傷ができた。ごつごつした岩の洞窟だからいつの間にか切ったのかもしれない。
「ポンタ!」
呼びかけるが返事はなく、心細さに荒くなる呼吸をどうにか抑えながら瑠偉は細い体をできる限り小さくする。
洞窟の外からは何も聞こえない。ポンタの声も、あの大きな犬たちの唸り声も風の音さえも聞こえなかった。
おかあさんが手当たり次第に物を投げ始めた時も、おとうさんが怒鳴り散らしていた時も、瑠偉はこうやって耐えていた。そうすれば、いつの間にか怖いことは瑠偉の上を通り過ぎて行くのだ。
どれくらいそうしていたのかは分からない。
ふいに男の声とポンタの鳴く声が聞こえてきた。
近づいてくるそれに必死に身を小さくしていたけれど、ポンタによってその男は、瑠偉を見つけてしまった。
でも、差し出された手は大きくて、分厚いのに、とても温かかった。