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大変お久しぶりです。
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良く晴れた晩夏の昼下がり、私は伯爵家の領地屋敷、いわゆるカントリーハウスのそこそこ広めな庭を散歩していた。
カントリーハウスとは言うが、中堅ながら初代王が王位に付く前から従っていたとか言う古参伯爵家である我が家の領地は王都から馬車で一日程度、前世で言えば東京駅から鎌倉くらいなので、そう田舎でもない。
領地の大半は農地だが最も王都に近い地域に建てられた館を囲んで形成された街は、交易のメインたる大街道こそ通ってないものの郊外に風光明媚な湖を有して観光需要があり、加えて通行料が他所より若干安く設定されているおかげでそれなりに通る人や商隊がいて割と栄えていた。
観光地とはいっても誰もが生涯に一度は訪れる、と言う程名高くも無く、しかし行けば茶会の時に一回位は話題に出来る程度の知名度だから王都や高名な観光地ほど騒がしくも無い。
程々に落ち着き、程々に賑わい、それなりに外の人が通り過ぎたり住みついたりして閉塞感も少ない良い環境だ。
そんな領地と王都をシーズンごとや用事があるごとに反復横跳びして暮らす私は今日課せられた課題……貴族令嬢としての勉強もちょっとした責務も全てこなしたし、この後は特に予定も無く、午前中は前述のそれにかかりきりで唸っていたから今の心情はまさに自由だー!と叫んで飛び回る火の玉精霊のような物。
とはいえ少し離れてついてくる侍女の目もある中で奇行には走れないので、前世ではまった動画の、あなたには関係無いけれど自分の健康を喜ぶ歌を小声で口ずさみながら歩いていると、不意に陰気な気配が背筋を撫でた。
「……お前……その歌やめろよ……妙に回るんだよ……」
鬱々とした声の抗議に目を向ければ、母屋の装飾の隙間に埋もれる様に座り込んだ大柄な男の姿が目に入り、目をしばたたく。
「ロルフお兄様? どうしたの、ゼニゴケみたいになってるわよ? 落ち込んでるならピクルスプレスストーン代わりになる?」
「お前、なんで昔から落ち込んでる人間はプレスストーンにしたり湯船に付けようとするんだよ……あとゼニゴケってなんだ?」
「そういうセオリーなのよ。ゼニゴケは日陰に生えててペシャっとした……ああ、ほら、あそこに生えてる苔。私はスギゴケの方が好きだし苔界でも主流はスギゴケだけど、でもゼニゴケもよく見たらフリルみたいな葉っぱが割と可愛くて結構好きなのよね。どうしたの、またミラ様に何かやらかして叱られたの?」
我が一族には珍しい脳筋寄りで、多少の事にはへこたれない次兄がこんな風になる原因は一つくらいしかないので問いただしてみれば、体育会系の逞しい成人男性が、うっ、と唸って両手で顔を覆った。
残念ながら客観的に可愛くはないその姿に身内ボーナスで多少の可愛げを感じながら、兄の前にしゃがんでツンツンした明るい金髪の頭を撫でてやる。
「……スギゴケが何か知らんが可愛い妹にまでちょっとけなされた気がする……うぅ……今回は喜んでもらえると思ったんだ……」
見た目だけなら体育会系のイケメン、ダンジョンでモンスターを食べたがる某冒険者の髪型をほんの少し変えて少し洗練させてシュッとさせてイケメン貴族度四割アップといった外見の兄が膝を抱えてがっくりと項垂れるさまは妹の塩辛目の視点を抜いてもいささか情けない。
「ロルフお兄様のサプライズは五年に一回くらいしか成功しないんだからやっちゃ駄目ってあれだけ言ってるのに……今回は何やらかしたのよ?」
「……お前にレクチャーされた刺繍の見方を参考に、凄く良さそうなハンカチを見付けたから贈ったら……投げ捨てられて帰られた……」
「…………あの許容量の広いミラ様が投げ捨てるって相当だと思うんだけど、一体どんなハンカチ渡し……ヒィッ」
無言で差し出されたハンカチを目にした私が思わず一メートルばかり後退ると、兄はこの上なく情けない顔をする。
「ミラも同じような反応だったな……。でもこの刺繍、お前が言った通り凄く細かいし目も揃ってるし、良い品じゃないか? ミラは刺繍するのも集めるのも好きだから、喜んでくれると思ったのに……」
前世風に言えば百九十センチばかりある二十一歳の男が刺繍のハンカチを手にしゅんとしょげる姿だけなら、なかなか良い性格をしていらっしゃる未来の義姉、ミラ様が愛でそうなものだが、残念ながら彼には壊滅的にセンスがない。
社交界で令嬢がたにそれなりに人気のある姿は、母と姉、そして婚約者たるミラ様のプロデュースで保たれているので本人に好きな服を選ばせたら多分モテないと思うレベル。
そしてそんな兄が自ら選んだと言うそのハンカチは……
「いや、蛾じゃん。どうしてそれが良いと思ったの。ねえ。それは無理」
思わず令嬢らしい言葉使いを投げ捨てる程、背筋にぞわぞわするものを感じながら横目で確認したそれは、純白のシルクに無数の……多分蝶を刺繍したものだと思うが、色合いが妙に茶色系で地味なせいでどう見ても蛾にしか見えない。
心拍数の上がった心臓が落ち着いてから、覚悟してよく見れば確かに超絶技巧と言っていい繊細で見事な刺繍だし、これが黄色やピンクなら可愛い蝶々、黒と紫ならオタクが大好きな某蝶々モチーフが有名なブランドのお高いハンカチに見えるだろうが、白地に茶色の濃淡で大量の蝶は……どう見ても蛾の大群にしか見えない。
せめて黒地に炎が添えてあれば近代日本の画伯が描いた教科書にも良く載っているあの名画……に見えたとしてももともと蛾が苦手な私はちょっとさわれないかな、と言った感じだ。
この超絶技巧の職人、何故この色を選んだ。もったいない。
私が一般的な転生キャラなら自分の工房にスカウトしたい腕前だ。自分の工房なんて持ってないけど。
「蛾と蝶々って分類的には違いが無いんだぞ……」
「脳筋のくせに変な知識だけはあるとか手に負えないじゃない……あのね、蝶々はまあ離れた所で飛んでるだけなら可愛いと思えるの。でも蛾は無理なの。分類とかどうでもいいのよ。あと私は綺麗な蛾でも止まる時に翅拡げてぺたっとする奴は無理。きれいなのは認めるけど無理。カイコとかちょっと可愛いとは思うけど触れないし蝶は辛うじて触れるけど出来れば遠くで見てたいだけなの。全部じゃないけど一般的にそう思う女の子が多いのよ。ちなみにミラ様はモチーフとしての蝶々は好きだけど本物はあまり得意じゃないのよ?」
「……そういえば庇った事あるな……」
「何故その記憶をもってしてこれを贈ろうと思った。ミラ様はモフモフが好きだから猫とか仔犬とか栗鼠なら滅多に無いサプライズ成功になったのに」
「同じ職人の猫の奴は目の前で売れて行ったんだよ……。店員が、この職人は人気でこれしか残ってないって言うし……」
「そういう時のために、お兄様にとって一番大事な言葉を贈るわね。『白猫モチーフのものを特注したい』。はい、繰り返して。りぴーとあふたーみー」
「りぴ……?? シロネコモチーフノモノヲトクチュウシタイ」
この世界には無い言語に首を傾げながらも素直に繰り返す兄に頷き返す。
「忘れないようにね? とりあえず、今日はミラ様の事はそっとしといて……明日辺りにお菓子と花でも持って謝りにいけばいいんじゃないかしら。花は庭師の中でもジャックに頼むようにね。お菓子は今夜中に私が用意しとくわ。くれぐれも自分で買わないように。花束は作るならジャックの指導を受けないと駄目よ?」
「……わかった……」
脳筋ではあるが素直でもある兄が項垂れたまま頷くので、手の中のハンカチを自分のハンカチ……は嫌だったので侍女に頼んで要らない布を持って来てもらい、それに挟んで引き取った。
「これは勿体ないから私がどうにかするわ。お礼は今度王都に行った時にメルローズの青いクッキー缶買ってきてね。ミラ様の分も同じのがいいと思うわ。くれぐれも道中で見付けて気になった店の物は自分用だけにするようにね」
「……妹からの信用の無さが辛い……」
「信用は無いけど親愛はあるから気にしない気にしない。ロルフお兄様はセンスは-五億点だけど人格は良いし可愛げがあるからそれでいいのよ。あと剣は結構強くて人当たりがいいし」
項垂れる兄の頭をぽんぽん撫でてから、私は立ち上がる。
あのおぞましいハンカチは、多分濃いめの紫で染めればいい感じに茶色が黒っぽくなり、某ブランドテイストに変化するだろうから侍女にそう頼んでおこうと思う。
職人の選んだ色を勝手に変えるのは申し訳ない気もするが、あれだけの技術のある物が売れ残っていたと言うのはやはりそういう事だろうし、使っていて落ちない汚れが付いた淡い色のハンカチを染め直すのはよくある事だから多分大丈夫だ。
前世では某ブランドの小物を結構愛用していたので染めた後の完成図を思い浮かべ、小遣いで買うにはきっとお高いだろうハンカチをタダでせしめた事に少し浮かれて鼻歌を再開した私の背後で、兄がふと顔を上げる気配がする。
「あ、そうだ。エルザ姉上がアイシアの事探してたぞ。ちょっと怒ってたけどお前またなんかやったのか?」
「………………は? ロルフお兄様? なんでそれを一番に言わないの?」
何気ない風に告げられた言葉に背筋が凍り、昔の漫画ならギギギ、と効果音が付きそうな気分で振り返る。
今の私の顔にはきっと縦の線が髪の生え際から花辺りまで何本も引かれている筈だ。コミカライズなら。
「いや、だってミラに怒られた方がショックだし忘れてた」
「つまりミラ様が怒ってお帰りになるより前の話……なのよね? それを先に言ってくれたらアドバイスなんてせずに逃げたのに! 馬鹿! ゼニゴケ!」
思わず悲鳴を上げたものの、ゼニゴケごときにこれ以上費やす時間は無いと長いスカートを両手で摘まんで身を翻す。
「あ、お嬢様! 走ってはなりません……! 転んでしまいます……!」
慌てる侍女の声が背後から響くがそれに構っている暇はない。私は普通の令嬢とは違って走れる令嬢なのでそうそう転んだりはしない。
我が家で最も頼もしく恐ろしい姉の怒りを前に、逃げ場が無いと解っていたとしても逃げるしかないのだ。源氏から逃げた平家の落人同様、深い山奥を切り開いてでも……逃げられる気はしないが、落人たちが山奥に隠れ住む間に時代が変わった様に姉の前に別の問題が現れてそちらに気を取られて忘れてくれる可能性が無いわけでもない。
昔の賢い人だって三十六計逃げるに如かずと言っていたのだ。これは逃亡では無く戦略的撤退というやつだ。
必死に脳内に言い訳を並べ立てる私の視界の端に、見たくない何かが映った気がした。
入院中で夜は割と暇なので続きを書いてみました。
既に一ヶ月いるけどあと最短一ヶ月は出られないっぽいので書けそうなら他作品もチビチビ書いてみようかなあと。
この作品は後先も出て来ないキャラの名前もなんも考えずに書いているので姉が怒っている理由は私も知りません。割と気楽で楽しいです。
ちなみに二十一歳で騎士学校は前世の感覚だと留年か?という風ですが、この国の騎士学校は初年度から数年は学生扱い、上級生は試験に合格次第学びながらも年の半分は騎士見習いとして騎士団で学ぶので、兄も今は騎士見習い、来年には正式に団員になる予定。