妖隠録 弐 ~ 猫又
みめが帰ってきたのは、夜風が夏の終わりを知らせる大きな満月の晩のことだった。
彼女が姿を消してから、ちょうど一週間たっていた。それはつまり、この町の上空に例の光る円盤が目撃されてから七日後のことである。
光る円盤の話題は、翌日の新聞やテレビニュースを存分ににぎわしたが、ぼくのみめがいなくなったことを気にかけるひとは、ひとりもいなかった。
みめはぼくが幼稚園のときにやってきた三毛猫で、「ミケだね」と言おうとして噛んだのが名前の由来である。
体と脚がすらりと長く、まっすぐ伸びたしっぽは、日本猫特有の先の折れたカギしっぽだ。あまり鳴かなくて、ご飯時にだけ聞く声は小さく高い。耳の後ろをなでられるのが好きで、ぼくがそうするとよろこんで頭をこすりつけ、のどを鳴らすのである。
ぼくはみめと八年間一緒にいた。どんなときでもずっと一緒だった。あの光る円盤が目撃された夜も、同じ布団でまるまっていた。
そもそもその話題も、翌日になってからテレビで知ったぐらいで、ただなんとなく外がまぶしいような、そんな夢を見た気がした朝に、ぽっかりと空いた布団のくぼみに気づいたのだ。
みめはもう今年で八歳で、人間の歳に換算すると六十歳ぐらいになるんだそうだ。だからこそ、よけいに心配だった。なにしろこのごろ抱っこすると、軽くなったような気がする。体格は変わらないのに重さだけ変わってしまうので、なんと言うか、骨がすかすかしてしまったようなそんな気がするのだ。
お父さんにもお母さんにも聞いたけど、みめのことなんてどうでもいいみたいに取り合ってはくれなかった。
それよりも、町中のみんなが気にしてる、昨夜の強い光はなんだったのか、UFOなのかそれともめずらしい火球現象だったのか、はたまた某国のミサイルではないかとか、本当にいろいろな憶測と誤報が入り乱れて、とにかくそれどころではなかったのだ。
結局、自衛隊の照明弾の誤射だったと発表されたのだけど、この町にも隣の町にだって演習場がないことは、ぼくだって知っていた。
だいいち、そのときの写真や動画がいくつも出まわっていて、ワイドショーでは専門家だというひとも口をそろえて照明弾説を否定していたから、よけいに盛りあがったのだ。でも何日かして、ぷつりとその話題が出なくなり、ネットの掲示板だけがひっそりと、あやしげな脚色ではやしたてるだけになってしまった。
けれども、そんなことはどうでもいいことだった。
みめがいなくなった。
いつも彼女がまるまっていた場所は少しだけくぼみ、そこにはただ夏の朝の気だるさがあるだけであった。
そのみめが、一週間ぶりに帰ってきた。
何事もなく、まるでなにもなかったかのように、ふらりと。普通にご飯を食べて、普通に水を飲んで、普通にぼくの隣で眠った。
それがあまりにもあたりまえで、拍子抜けするぐらいだったから、ぼくはちょっとだけさみしいような複雑な気持ちで小さな頭をなでた。
まだ浅い眠りで彼女は、ごろごろとのどを鳴らした。大好きな耳の後ろをくすぐってやると、うれしそうに頭を押しつけてくる。ぼくもうれしかった。抱きしめてやりたかったけど、起こしてしまうと悪いのでそのままでいた。
――慣れた指先が違和感に触れた。
自分の爪を見る。それから、みめの毛をかきわける。びっくりさせないように慎重に。耳の裏。
短い毛に隠れるように、赤い突起。小さな、小さなかさぶた。
前脚に顔をうずめたまま、アーモンド型の目がちらりとぼくを見あげた。声をかけるが、もう目を伏せている。なにもなかったかのように。
念のため、お母さんにもみめのケガのことは伝えたけど、「去勢してあるから大丈夫でしょう?」と言われた。
そういう心配ではないのだけど、大丈夫だと言われれば大丈夫な気がする。かさぶたも小さくて、本人も特に痛がっているようでもなかったので、ぼくも気にはなるけれども、それ以上はなるべく気にしないようにした。
そんなことよりも翌日に、もっと大変なことが起こったのだ。
みめが立ったのだ。
たとえ話とかじゃない。長い後ろの二本の脚で、すらりと立ち上がったのである。その立ち姿は、ミーアキャットみたいだ。それどころか、なんの危なげもなく歩きだしたりするものだから、ぼくは目を白黒させるだけだった。
前に視聴者からの投稿がある動物番組で、ネコが立つ映像を見たことがある。あれも自然にすっくと立ち上がって、十秒近く静止していた。
ただ、歩いたりはしなかったはずだ。それに、十秒は軽く超えている。スタジオですごいという声があがったそのネコより、みめのほうがすごい。それよりも、もうおばあちゃん猫なわけだから、足腰が心配である。
そういえば昔、亡くなったおじいちゃんから聞いたことがある。動物というのは年を経ると妖怪に変化するらしい。おじいちゃんが子供の頃は、タヌキやキツネによく化かさらたそうだ。
ネコも、猫又という妖怪になると言っていた。しっぽの先がふたつに分かれて、後ろ足で立って歩くことができるし、人間の言葉だって話すらしい。開けた襖を自分で閉めたりするそうだ。とても行儀正しい。
人間だって年をとれば、妖怪みたいなじいさんばあさんを見かける。たまに人外の言葉でしゃべるから、ネコばかりが特別じゃないのだ。
ただ、あいにく家には襖はないから、みめが本当に猫又になったのか知るすべはなかった。それに、しっぽだって分かれていない。
きっとぼくの知らない一週間のあいだに、二足歩行をおぼえたんだろう。ネコにはなんだか、そういうところがある。
だからぼくは、みめが立っても歩いても、決して驚かず、むしろ見ないふりすることを心がけた。調子に乗って踊りはじめたりしたら大変だからだ。
もしかして、という可能性もあったのだ。
たとえば。
ある家でのこと。酒の減りが早いことに気づいたおじいさんが、ある晩台所をのぞいてみると、なんと飼っているネコが酔っぱらいながら、二本足で踊っているのを見てしまう。それに気づいたネコは、「見たニャー」と恐ろしい顔になって、おじいさんののどを噛み切ってしまう。だから猫は踊らせちゃダメなんだそうだ。
行燈の油をなめる巨大な化け猫の話。人間に化けてお侍さんを襲った猫の話。葬式の時、魂を食べるから家に入れちゃいけないって言い伝え。または、猫には七つの魂があるから死なないんだってこと。西洋の魔女は、猫に化けることができるんだそうだ。黒猫が目の前を横切るのは縁起が悪いので、通る道を変えなければならないジンクス。
ネコには怖い昔話や言い伝えがたくさんある。古来より人間のそばにいながら、時に神聖であり、時に不吉な扱いを受けたりする彼らには、やはりなにかしら霊力みたいなものが備わっているのかもしれない。
だからきっと、ぼくのみめも……、と思うのはさすがにどうかとも思うけど。
さっきの「見たニャー」ではないけれど、ネコは一生のうちで一度だけ人間の言葉を話すともいう。
ひとの片手にすっぽりおさまるくらいの小さな頭で、流暢に日本語を駆使するほどの知恵があるとは到底思えないし、生物学的にもあの口や舌の形状から、人間と同じ言葉を発することには懐疑的にならざるを得ない。
そういえば、「ごはーん」と鳴くネコもテレビで見たことがあるけど、いくらなんでもさすがにそれは「ごにゃーん」の空耳だろう。
飼い主のひいき目というのは、時と場合に関わらず、頻繁に認識と判断を鈍らせる。ネコと魔性は、切っても切れない要素なのかもしれない。
なにしろ、世の中のネコ愛好家のみなさま――お上品なおばさまから、いかつい強面のおっさんにいたるまで、可愛い可愛い我が家のネコちゃんを前にすると、反射的に目尻も鼻の下も急降下し、それに比例して言語中枢は退行して、赤ちゃん言葉を駆使するまでになってしまう。それこそ目に入れても痛くないし、眼球にパンチなんてされた日には泣いて喜ぶ奇特な人までいる。
食べちゃいたいぐらいカワイイというのも、比喩でなくとも納得である。その手はマドレーヌみたいだし、お腹は大福を思わせる。
そこにきて、天使のような我が子がしゃべったとあらば、すわ念願のコミュニケーションとばかりに、心底堪らん興奮に打ち震えちゃうのだろう。
まあ総じて猫バカたちにとって、ネコというものは、たとえ寝ていようが飯食っていようが、爪をたてようが愛すべき幸せの象徴なんだろうなということだ。
たぶんそれは、きっとぼくも同じだろうな、とも思う。
ずっと窓の外を見ていたみめが、くるりとふり返った。ターンも器用にやるんだな、とどうでもいいことに気づいた。
「に・げ・ろ」
たしかにそう聞こえたけど、「にゃにゃにゃ」ぐらいはどこのネコだって言うだろう。ウチのみめは美人だなぁと思う。
「え、なんだって?」
ぼくは意地悪く、にやにやしながらみめの頭をなでてやる。
「もう一回言ってみてよ」
「にゃにゃにゃ」
ほらね。ぼくは途端にうれしくなって、みめを抱きかかえた。
あわてたように彼女があばれている。それでもぼくは、なんだかとてもいとしい気持ちになって手を離さなかった。
窓の外があの夜と同じ、強いオレンジ色に染まるのを見てもなお。