第3-28話 馬鹿と馬鹿
アビスとイグニが立っているのはアビスが持つ固有の世界。
だが、それはイグニと同じように0から生み出されたものではない。
1μm^3という矮小な空間の奥行ベクトルを0にすることによって、強制的に2次元平面と化した無限上に広がる広大な平面空間である。
つまり、彼らは無限の地平線上に立っている。
それは、アビスの魔法。3つ存在している軸の内の1つを0にする奇跡。
この世に存在しているあらゆる魔法と作用するものが違うため、それは新しい属性として生を受けた。
「サラ」
イグニが短くサラの名前を呼ぶ。
彼女は溢れる涙をいっぱいにため込んだ瞳でイグニを見た。
「帰ろう」
次の瞬間、アビスの手元にいたサラがイグニの腕の中に移っていた。
「ぇ……?」
何が起きたのか理解できていないサラは首を傾げる。
全方向からの攻撃を警戒していたアビスも、イグニに対して反応すらできなかったことに冷や汗を流した。
「イグニ、お前の魔法は……時間……か?」
「どうだろうな」
イグニは適当に返す。
ここで魔法の正体を告げたところで、アビスはイグニに対応できない。
それはイグニの『小宇宙』がこの世界に存在できる430億年もの間、イグニの知覚できる全てが彼の世界の支配下に置かれるためだ。
「いや、面白れェ! 初めて見るタイプの魔法だ! その魔法をもっと俺に見せてくれッ! イグニ!!」
アビスが叫んだ瞬間、漆黒の大地から無数の人型が湧き出してきた。
「……これは」
「俺の可愛ィ眷属だよ」
無数にあふれ出す眷属たち。
その全てがイグニたちを目指す中で、イグニは時間を止めた。
正確には、イグニとサラの体内時間だけを無限遠点まで加速させることにより通常時間との差異によって時間が止まって見えるだけだが。
「……ひどいことしちゃった」
「…………」
イグニはサラを抱きかかえて距離を取る。
魔法を使っている間は魔術が使えないからだ。
「帰れないよぉ……。お魚、死んじゃってた。海も汚くしちゃった……」
泣きじゃくるサラの頭をなでる。
「ミコちゃんも、ミルちゃんも、私のせいで倒れちゃった……っ! 私が、こんな身体じゃなかったら……」
「大丈夫だ。サラ」
「パパが『魔王』なんて……知らなかった……! 魔王は悪い奴だって……人間をたくさん殺した悪い奴だって思ってた……! 私が悪いの! 私なんて生まれてこなかったら良かったの!」
「でも、俺はサラのおかげでここにいる」
「……ふぇ?」
泣きじゃくるサラに、イグニが静かに真実を告げる。
「なぁ、サラ。俺も同じことを思ってたことがあるよ」
イグニは無数に地面から沸いた眷属と、顔に笑顔を張り付けたまま固まってしまったアビスから距離を取る。
「サラ。俺は『ファイアボール』しか使えない。知ってるだろ?」
「……うん」
サラがその涙をぬぐってこくりと頷く。
「俺の父親は厳しくてな。『ファイアボール』しか使えないやつは要らないって言われて、一生外に出ずに死ぬか。家から出て行くかを選ばされたんだ」
「…………え?」
「嫌だったよ。悲しかった。どうして生まれて来たんだろうなって思った。こんなはずじゃないって、何度も何度も……何度も考えたよ」
「う、そ……」
いつも明るいイグニから語られる言葉に、サラは言葉を失った。
「でもな、俺はサラのおかげで俺になれた。サラのおかげで、俺は魔法使いになれたんだ」
「……私の、おかげ?」
「ああ、そうだ」
イグニの言葉に力がこもる。
「あんな奴の言うことなんて聞かなくてもいい。信じる必要なんてない。学校でも言われただろ? 知らない人についていっちゃいけませんって」
「…………うん」
こくり、とサラが首を縦に振った。
「サラはサラだ。ちょっと魔力が多いだけの女の子で、それ以外は何にも変わらない可愛い女の子なんだ。そして、俺の恩人なんだ」
「……ほんと?」
既に涙は消え去って、純粋な疑問としてサラはイグニに尋ねる。
「サラのおかげで、俺は最強になれたんだ。だから、見せてあげるよ。一瞬で、こいつらを全部倒すところを」
「ぜんぶ」
有象無象の眷属たちは数千を超えている。
それを一瞬で倒すと言ったイグニを、サラは疑っているのだ。
「見逃すなよ。サラ」
イグニはサラを抱きしめて、2人の時間の流れを元に戻す。
と、同時にイグニはアビスと眷属の上半身だけを巻き込むような形で『小宇宙』の影響半径を展開。
「凄い速度だな! やっぱり、お前は時間を……!」
次の瞬間、イグニは影響半径内部の時間を0にした。
刹那、その境目が断ち切れた。
「……へ?」
遅れて、サラが声を漏らした。
そこに居た数千の眷属たち、中心にいたアビス。
その全てが、上半身と下半身を断ち切られたのだ。
そして、静止した時が動き出した瞬間、
「……ッ! これは、時間の差異か!!」
「…………」
地面に落ちていくアビスを、イグニは冷たい目で見降ろした。
「運動し続ける原子は時間の静止した原子と切り離される! 時間の静止面は万物を断ち切る刃ってことかよ……! ヒヒッ! イグニ! お前、最高だッ!!」
「お前は、最低だよ」
「ヒャハハッ! そいつァどうも」
慇懃無礼に礼をして、アビスの身体はヘドロとなって溶けた。
だが、無限に展開された2次元上の平面空間は閉じない。
「……まだ、いるんだろ? アビス」
「おう。ここは、俺の『世界』。俺である限り、どっからでも入れるからな」
「まだ、やるのか?」
力の差は歴然である。
そもそも、アビスは死なないということに関しては特化しているのかも知れないが、こと戦闘に関しては弱い。また、サラを手に入れるという目論見もイグニがこの場所にいる以上、成しえない。
「当たり前じゃねェか。だって、まだ俺の1つ目の魔法を見てないだろ?」
アビスが短く吐き捨てた瞬間、イグニの『小宇宙』が消えた。
「……ッ!?」
イグニが消したわけでは無い。
勝手に消えたのだ!
「『装焔』ッ!」
咄嗟にイグニは魔術を使う。
だが、何も使えない。
魔力が熾って、消費されて、それで終わりだ。
何の結果も起きはしない。
「『秩序の奇跡』。これが俺の1つ目の魔法だよ」
「……魔術を使えなくしてるのか」
「今はそういう風に定義してるからな」
イグニはサラを抱きしめて、アビスを睨みつけた。
「やってることはエントロピーの操作なんだが、学生ごときに説明したって理解できねェから説明はしねェ。ただ、これだけ覚えておけばいい。この場では魔術は使えない。いや、正確には魔術は使った直後の状態に移動する。剣しか使えねェ能無しのクララの魔法とも似てるが……まァ、俺の方が使い勝手は良いな」
「……あぁ。なるほど、ようやく本体の登場か」
「おう」
イグニの言葉にアビスは首肯した。
どうして分かったなどと愚かなことをアビスは聞かない。
アビスの使う1つ目の魔法は、隠しておけば必殺になるようなものではない。
状況を有利に運びたいなら、最初から使っておけば良いだけの話。
彼はそれをしなかった。ならば、理由はただ1つ。
分身体では1つ目の魔法が使えないと見るべきだ。
「2度目だぜ? こうして、俺自身が誰かの前で戦うってのは」
1度目はルクス。2度目はイグニ。
イグニもアビスも、お互いの過去を知らないが故にそれには何も触れない。
「『蠢く者は這い寄りて、捉えたまえ』」
どろりとした生暖かい影がイグニの脚をとらえた。
「ま、俺ァ魔術が使えるけどな」
「1つ、聞いても良いか」
「あ?」
「使えないのは魔術だけなんだな?」
「今はな」
「ああ、そうか。アビス、お前……馬鹿だろ」
「は?」
イグニが優しくサラを地面に下ろす。
「『熾転』」
暴れ狂うように回転するイグニの魔力によって、彼は魔術を力業で切り離して。
「おォッ!!」
アビスの顔に右ストレートを叩きこんだ。




