9 クラナド・ミュゼル伯爵の事情(※ミュゼル伯爵視点)
あぁ、私の愛しい人は旅立ってしまった。それも、彼女そっくりの娘シェリルを残して。
愛しいシェリル。しかし、私の愛情は深すぎた。妻にも、娘にも。
シェリルまで失ったら私はどう生きていけばいい? 手元に残して婿を取らせる事も考えたが、私が逝く前にシェリルまで間近で亡くしたら……、その考えが頭から離れない。
顔を見るのが辛い。あの幼くも美しい娘が、どうしても妻との幸せな記憶と、無残な死にざまを同時に呼び起こさせる。歳を経ればますますその思いは強くなるだろう。
そして成人して最初の夜会にでかける今、成長した娘は妻以上に美しくなっていた。あまりに眩しくて、声の一つもかけられない。私は娘を避け続けた結果、娘にかける言葉はおろか、声を失ってしまった。彼女はひとつお辞儀をして去っていく。もう、手元には戻らない。そんな確信があった。
——私は、前妻が亡くなってすぐにシェリルを避けるようになった。シェリルなど居なかったかのように振る舞い、喪が明けてすぐに若い男爵家の娘を嫁として望んだ。
評判の悪い、若い娘だ。他に嫁ぎ先など無いだろう彼女ならば、他に恋人を作ってもいいから、後継の男児を産んでくれると思ってのことだ。
我ながら酷い話だ。まだ10代の娘を嫁に迎え、結婚式さえ挙げてやれない。その上きっと愛することはないだろう。私の愛情は、全て前妻とシェリルに向かっていて、そして亡くなった妻を思い起こさせるシェリルのことを愛するあまりに、愛情を捧げられない。
自分が弱い男だと自覚している。せめて、金銭面では、身分では苦労させない、その一心で仕事に打ち込み、シェリルのことは考えないようにした。
まだ幼いシェリルを完全に避けること……そこまでの非道はできない。だから、なるべく……接してきたつもりだ。大人と子供では感じる時間の早さが違うということも忘れて。
新しい嫁……リナリアを迎え入れるとき、彼女は言った。私の気持ちがわかると。愛を向けても返ってこない、突然失うことがある、それは何度も経験してきたからと。
婚約してからの会食の中で、我々は互いに愛し合うことは無いことは理解した。しかし、彼女ならばシェリルを任せることができる、そう思えた。
まだ年若い婚約者は、愛し愛される幸せは知らずとも、愛によって疲れることも、愛によって人生が狂うことも知っていた。
噂や人の評判などあてにならない。19歳とは思えないほど、彼女はただ、たくさんの男に裏切られただけだ。
そしてシェリルとやがて産まれる子供に愛を注ぐと言い切った。
何度でも言おう。私は前妻とシェリルを愛しすぎている。歪にしかシェリルに接することができないほどに。産まれてくる子供に対しても、きっとこれ程の愛情は抱けない。最初に男児が産まれて欲しいと切に願った。不平等な愛を、これ以上増やしたくないから。
どんなに歪で、外から、シェリルから見れば無関心な父親であろうとも、私はシェリルを愛しすぎている。せめて前妻の最期の姿を思い出さなくなるまで、シェリルが金銭的にも社交的にも苦労しないよう、私は堅実に仕事をしよう。ずっとそう言い聞かせ、呪文のように心の中で唱え、実行してきた。
そしていずれ産まれてくる我が子よ、許して欲しい。男児であれば、お前には最初から、私の跡継ぎとして恥ずかしくないような教育をほどこすことになるだろう。娘であれば……リナリアに全てを任せる事になるだろう。
幸いにも、第一子が男児のジュールだった。あの子は賢く聡明な子だ。
ジュールは物心がつく頃に私の手に渡った。そして私はジュールに一番最初に一つの約束をさせた。
その約束の理由は何かと聞かれた。それがシェリルを守ることになると答えると、ジュールはよくわからないまま、それで姉が守られるならと、守り続けている。
今日だけは違った。今日だけは、シェリルを褒めていい。なのに私は声を失っていた。なんとも、情けない男だ。
ジュールやリナリアに愛情がないわけではない。ただ、きっと前妻ほども、シェリルほども、彼らを愛することはできない。
ジュールが産まれたとき、リナリアの強い勧めで、5歳まではリナリアが育てると言った。
必ず子供は愛されて守られなければいけない、そういう時期があるのだと。たとえ大人になって忘れたとしても、愛情を受けて育ったことだけは一生自分を支えてくれるからと。
私は本当に弱く、酷い男だ。リナリアの言葉は真実だ。そんな親が必要なときに、母親を失った1年の間シェリルを放っておいた。
リナリアはそれを埋めるようにシェリルもジュールも愛をもって育ててくれた。
いまさら、シェリルに父親面をすることなどできない。私はシェリルを愛するあまりに、シェリルとの距離を開けすぎた。
リナリアはシェリルに『間違った価値観』を植え付けてきた。それは使用人にも私にもジュールにも徹底させ、時には自分を悪役にしてもシェリルの美しさを本人にも隠した。
シェリルは可愛い、美しい子だ。外見を、あえて酷薄に否定し続けている。ただ、その分他の部分にはたくさんの愛を注いで。
ジュールに可愛い子と言って育てたのは、私の跡継ぎとしての教育が始まれば、そんな言葉をかける者が誰もいないと理解しているからだろう。
思い出が力になる。辛いことに耐えるための、大きな力に。リナリアはそう信じてシェリルとジュールを育ててきた。
ジュールは男だ。今後、男として、紳士としての振る舞いは私が教えればいい。
しかし、シェリルは女だ。淑女として、ただ蝶よ花よと育てられれば、リナリアはシェリルも辛い思いをすると思い込んでいた。
だから彼女は、初対面のときから欠かさず、シェリルの容姿だけは貶した。
私がもっと強く、優しい男であれば。過去の思い出と折り合いをつけ、日々美しく妻に似ていくシェリルと向き合う強さがあれば。
リナリア、ジュール、そして最愛のシェリルよ。
若いお前たちに全てを任せてしまってすまない。歪んでいることに気づきながら、それを止められるだけの強さのない、本当に情けない自分が腹立たしくて仕方がない。
生活も身分も何もかも保証しよう。その点で苦労だけは絶対にさせない。3人の我が家族に対して、私ができることなどこんなことくらいだ。
大事に思っている。伝わらなくてもいい。無関心な父親であり夫でいよう。
この脆弱で情けない男ではあるが、家族に何かが起こった時……私が必ず助ける。
今夜も私は一人、執務室で晩餐をとるだろう。あの美しく育ったシェリルを守ってくれる誰かがその瞬間にも現れるかもしれないと思うと、涙が溢れた。
私はリナリアを家族として愛している。リナリアとの間に産まれたジュールも、そして何よりもシェリルを。
そう、私は愛している。ただ、もうそれを表明するには、彼らとの間に大きな時間という距離を開けすぎてしまった。ジュールは……まだ、間に合うかもしれないが。
一人で食べる晩餐の味がしなくなったのはいつからだったろうか。これはきっと罰だろう。私がもっと、ちゃんとした父であり夫であったのなら……。
もし夢を見ることが許されるのならば。
いつか、我が家族に伝えたい。
愛している、と。