奈々美に負けない!
ひとつのボールをみんなが真剣な眼差しで追っている。ボールを呼ぶ声とバスケット・シューズのキュッという音が体育館に響き渡る。美由紀はボールに背を向けて逆サイドのローポストへと流れた。入れ替わるように咲が左ローポストに入り、ボールを受けた。既に二人がマークしていてシュートは難しい。美由紀はディフェンダーにワン・フェイク入れてゴール下へ走り込み、咲からパスをもらい、そのままシュートした。
「ナイシュー」
コートサイドで見守る部員達から声がかかる。同時に部長の吹くホイッスルが響いた。
「よーし、交代。Bチーム、コートに入れ」
長身の咲とハイタッチをして美由紀は他のメンバーと共に部長の周りに集まった。
「今のコンビネーションは良かったぞ。チビはマークがきつくなって簡単にはシュートさせてもらえない場面が増えてくるから、周りの人間がフォローするんだ。休憩したら、新しいフォーメーション・プレーの練習をするぞ」
「はい」全員が声を揃えて返事をした。最後の大会が近づいて部員達の士気は高まっている。
美由紀はバッグからタオルを取り出し、汗を拭いながら咲に近づいた。咲は部の中で最も長身で、182センチある。今では美由紀と同じ最高学年だからそれなりの貫禄があるが、一年で入部した頃は身長こそ全部員中二番目だったが、バスケット初心者ということもあって不安げに毎日を過ごしていた。そこで先輩につけられたニックネームが『チビ』だった。「咲は一番大きいけど、ハートは一番チビだから」と先輩はいった。先輩がいなくなった今、咲のことをチビと呼ぶのは部長だけになった。
美由紀は入部してしばらくしてから咲から聞いたことがあった。中学入学当時から身長では目立っていた咲だから、小学校の時からからかわれたり嫌な思いを繰り返していたという。でも、自分の身長を生かせる場所を見つけて、先輩にも可愛がってもらえて嬉しいと話した。
この中学は地域の二つの小学校の生徒が進学してくる。美由紀と咲は別の小学校だったので、部活で初めて出会った。美由紀は小学校五年の時からミニバスケットをやっていたので、咲よりは経験があった。女子部のキャプテンをしている紺野美緒も美由紀と一緒に小学校時代からやっている仲である。
「ミキ、英語の課題でた?」
美由紀のことを同級生はミキと呼ぶ。美由紀は咲の顔を見たが、なんの話かわからなかった。
「うちのクラス、今日は英語なかったから」
「そうか、今度ね、英語の時間に毎回男女一人ずつ英語でスピーチするんだって」
「えー、初めて聞いた」
「私やだなあ、そういうの苦手なんだな」
咲が大きな体を縮めながらいった。美由紀はその仕草が可笑しかったが、笑いはしなかった。
「大丈夫だよ、ちょっとだけでしょ」
「一分以上だって、私、そんなに話すことないよ」
「一分なんて直ぐよ」美由紀はそういって咲の肩をポンとたたいた。
同時に部長の吹くホイッスルが鳴った。
「ようし、Aチーム入って。ラスト十分」
「行こう」と美由紀は咲の背中を押してコートに戻った。
部活の締めくくりはほろ苦いものになった。最後の十分間のミニゲームで、スタメンチームは勝つことができなかった。引き分けだったが、実力的に勝るスタメンチームなら当然勝たなければならないところだった。敗因は誰の目にも明らかだった。咲のゴール下のシュートが二本続けて外れてしまったのだった。終了のホイッスルが鳴ると案の定、キャプテンの美緒が厳しい言葉をかけた。
「咲、ダメじゃない。あんなシュートを続けて外しちゃ。ゴール下じゃあ、七割は決めてくれないと勝てる試合も勝てないわ」
「ごめん」
咲は大きな体を縮めながら、繰り返し謝った。汗を拭うようにしているが、涙を拭いているのは誰の目にも明らかだった。
「美緒、そんな言い方はないでしょ。誰だってミスすることはあるわ。今日はたまたまよ。あなただってシュートが決まらない日はあるでしょ」
「スリーポイントの距離とゴール下のシュートが同じ成功率じゃ困るわ」
美緒はそれだけいうと振り返って、下級生に片付けの指示を始めた。
「まったくー」美由紀はまだおかんむりだった。
「いいのよ。悪いのは私なんだから」
それでも咲は引きずっている様子だった。
「ゴール下は相手のファールすれすれのプレッシャーを受けながらシュートするんだから、距離が遠いとか近いの問題じゃないわ」
小学生の時から美緒は勝負に真剣で、当時からエースだったから自分には厳しかった。しかしキャプテンになってからはそれが全ての部員に向けられるようになって、美由紀はチームの結束に影響しなければ良いと心配していた。
体育館の外の水飲み場に向かいながら、咲は美由紀にいった。
「美緒はあんなふうに厳しいこというけど、私は美緒のことわかっているから」
意外な言葉に美由紀は、えっと訊き返した。
「去年の秋、三年生がやめて美緒がキャプテンになった後、私美緒に呼ばれて二人だけで話をしたの」
咲は歩きながら何度も顔を拭った。
「このチームは自分だけのチームみたいにいわれているけど、それじゃあダメだって。美緒が外からシュートを決めて、私が同じくらいゴール下で点を取らないと、相手のプレッシャーがひとりにだけ集中したらとても勝負にならないって。だから私にも美緒と同じだけの活躍を期待してるっていわれたの」
「へえ、美緒がそんなことをいうなんて意外だなあ」
美由紀の知っている美緒は我が道を行くタイプで、人に期待をかけたりお願いすることなど考えられなかった。彼女もキャプテンになって、それだけじゃやっていけないと自覚したのかもしれないと美由紀は思った。
「ただいまー」
玄関を開けて家に入ると、先に帰っていた妹の奈々美がボリュームいっぱいにテレビでバラエティ番組を見ていた。居間に顔を出すと、電話のベルが微かに聞こえた。
「電話鳴っているよ」
美由紀がいうと、台所の母はコンロの前で振り返って「ちょっと出てくれる」といった。
「奈々美、ちょっと音下げてよ、聞こえないよ」
奈々美は画面から目を離すことなく、リモコンを探って音を若干下げた。美由紀はカバンをその場に置いて受話器を取った。
「はい、岡本です」
「あら、奈々美ちゃん?元気? 私、わかる?」
電話は母の姉、茂子からだった。茂子はいつも美由紀と奈々美の声を間違える。
「茂子おばちゃんでしょ。私、美由紀よ」
「あら、美由紀ちゃん。ごめんごめん。あなた達姉妹は本当によく声が似ているから。そういえばね、この前なんか、お母さんが電話に出たのに、私ったらあなただと思ってしばらく話したこともあったわ。ホホホ、やあねえ」
やあねえはこっちよ、と美由紀は思ったが「ちょっと待ってね」といって電話を保留にした。
「お母さん、茂子おばちゃんから」
美由紀はカバンを再び持ち上げ、自室へと向かった。
「美由紀、ご飯もう少しかかるから、先にお風呂に入ったら」
台所から母が叫んだ。
「わかった」
風呂から上がってもまだ夕飯の用意はできていなかったので、美由紀は先に明日のテストに出る漢字のドリルをやってしまうことにした。国語の授業の最初に行われるミニテストで、一週間の平均点が下位二十%に入ってしまうと、居残りの罰が与えられる。当然部活に遅れることになってしまうので、勉強嫌いの美由紀でもやらないわけにはいかなかった。
漢字の予習が済んで居間に行くと、奈々美は既に食事を始めていた。
「奈々美、ご飯できたなら教えてよ。ひとりだけ先に食べることないでしょ」
「あ、お風呂に入っていると思ってたから」
言い訳なのはわかっていた。
「あんたみたいに、そんなに何時間も入ってないわよ」
奈々美は風呂に入ると、短くて三十分以上、長ければ一時間以上入っていることもある。
「お母さん、私にもご飯よそって」
テーブルに着くと、奈々美はいつものようにテレビに目が釘付けで食事をしていた。箸の間からキャベツの千切りがこぼれているのにも気づいていない様子だった。
「はい、美由紀のご飯とお味噌汁ね」
母が美由紀と自分の分の食器を運んできて、食事が始まった。
「この姿、うちの学校の男子共に見せてやりたいわ」
妹の奈々美は、ちょっとエキゾチックな風貌をしているためか男の子達の人気が高い。同じクラスの男子にも奈々美のファンが何人かいるのを知っている。一番ショックだったのは、美由紀が密かに憧れていた男子バスケ部キャプテンの早川にまで「奈々美ちゃんって、美由紀の妹なんだってね。姉妹なのに、全然タイプが違うね。今度紹介してよ」といわれた時だった。
「お母さんは、美由紀も十分可愛いと思うけどね」
母がいうのは親の欲目なのか、慰めなのかわからないが、どちらにしてももう手遅れだと美由紀は思った。
「いただきまーす」
母が作った手作りのコロッケが美味しそうだった。美由紀はいつものように一個目はソースをかけずにかぶりついた。
「熱っーい。でも美味しい」
口蓋を火傷してしまったが、母の味は美味しかった。
「そういえば、今日奈々美が美由紀のクラスの人に助けてもらってみたいよ」
母の話に美由紀は妹の顔を覗き込んだが、当の本人は話が聞こえていない様子でテレビに見入っていた。
「奈々美、奈々美ったら」
やっと顔を向けた奈々美の口には素揚げにしたアスパラが銜えられていた。
「なんて顔してるの、それよりあんた、今日なにかあったの?」
美由紀の問いかけに、しばらく考えているような顔をした奈々美は、やっと自分が呼ばれた意味がわかったようだった。
「ああ、あの話ね。お姉ちゃんのクラスに山根さんっている?」
「山根?あ、そういえばいたわね」
「今日、学校の帰りに他の中学の生徒に絡まれているところを助けてもらったんだ。お姉ちゃんからもお礼をいっておいてね」
「絡まれてって、どういうこと」
奈々美は半分目をテレビに向けながら続けた。
「今、面白いところなのに・・」
「それどころじゃないでしょ、ちゃんと話してよ」
美由紀の見幕に、さすがの奈々美も正対して座り直した。
「友達とふたりで帰って来る途中、知らない男の子がふたりやって来て、お茶しようってしつこくて・・。困っていたら、うちの制服着たひとが来て追い払ってくれたの。お礼をいったら、私を見て『岡本の妹だろう』って。それで、名前を訊いたらお姉ちゃんと同じクラスの山根だって名乗ったの」
「同じクラスなら、知ってるんでしょ」
母にいわれたが、美由紀は一度も口をきいたことがなかった。
「そりゃあ、知っていることは知っているけど。あまり話したことないから」
「でも、妹がお世話になったんだから、明日会ったらお礼をいっておいてね」
うん、と答えたが、気が進まなかった。
山根慎吾は中学になってから同じ学校になったが、同じクラスになったのは二年になる時のクラス替えからだった。しかし、それから耳にした山根の噂は決して良いものではなかった。他の中学の生徒とケンカしたとか、CDを万引きして補導されたとか。見た目はそれほど不良っぽくはなかったが、付き合いのある仲間はあまり上品な連中ではなかった。そんな山根が奈々美と関わったという話は、美由紀の心に影を差した。
「うん、わかった」
口の中のコロッケが急に味を失ってしまった。
翌朝の最初の授業は国語だった。美由紀は親友の明美と一緒に漢字テストの最終確認をしていた。明美とは家が近いこともあって、小学校に入った時からの付き合いで、一番親しい友人といえた。明美には奈々美の件を学校に来る道すがら話しておいた。その明美が美由紀の肩を突っついた。
「ん?」
美由紀が頭を上げると、明美は顔を動かさず、シャーペンの頭をちょっと動かして合図した。美由紀が視線を向けると、教室に入ってきた山根と目があった。慌てて目を逸らしたが、ニヤリとする山根の表情を見てしまった。嫌な気分だった。ここで山根がやって来たらどうしようかと心配したが、山根は自分の席に着いて動かなかった。
授業が始まってミニテストをしている時は集中していたが、先生の退屈な話になると山根の様子が気になった。チラチラと山根の方を見てみたが、寝ているように動かなかった。美由紀は少しホッとした。
二時限目が終わった長目の休み時間に明美とトイレに行き教室に戻る途中、廊下に山根の姿を見つけた。いつも一緒にいる林とふたりだったが、美由紀の姿を見つけるとにやけた表情で美由紀の反応を伺っているようだった。ずっと知らない振りもできないと思い、美由紀は声をかけた。
「昨日は妹がお世話になったようで、ありがとう」
林はそれを待っていたかのように、更ににんまりした。
「別に、当たり前のことをしただけだよ。でも、岡本の妹って噂どおり可愛いな」
やっぱりそう来たか、と思ったが、これ以上関わらない方が良いと思って美由紀は「じゃあね」といって教室へ向かった。
「おい、冷てえなあ」
背中で山根の声がしたが、美由紀は無視した。隣で一部始終を見ていた明美が小声でいった。
「山根君って、ちょっと格好良くない」
「どこが? ワルだよ」
「そこがまた良いんじゃない」
美由紀は呆れた。あんなことしたくらいで、妹に取り入ろうとするなんて、最低な奴だと思った。奈々美にも良くいっておかなければと思った。
その日の最後、ホームルームの時間に事件は起きた。みんなが帰り支度をしていた時、突然悲鳴が上がった。
「お金がない、ピアノの月謝袋が無くなっちゃった」
声を上げたのは美由紀のふたつ前の席にいた中沢亜紀だった。周りの席の女子生徒も一緒に机の中や周囲を探したが見つからなかった。担任の田沢先生もカバンを一緒に見たが結局発見できなかった。
「持ってきたのは間違いないのか」
田沢先生が念を押すと、亜紀は涙を浮かべたまま頷いた。
「仕方がないな、今日のところは家に帰って、もう一度探してみなさい」
亜紀は渋々納得した様子だった。挨拶をして大半の生徒が帰っても、亜紀の周囲には何人か残ったままだった。美由紀も直ぐに部活に行く気にはなれずに、その様子をうかがっていた。すると誰かが小声でいった。
「昼休み、誰もいない教室に山根君達がいたよ」
えー、という声が上がったが、そういえば・・といいだす者もいた。美由紀は明美に声をかけて一緒に教室を出た。
部活が終わると部長の三浦先生に、後で準備室に来るようにいわれた。部長のことをバスケット部のメンバーは誰も三浦先生とはいわない。さすがに本人に向かっては使わないが、部内では『ガクブチ』で通っている。刈り上げ気味に短くした頭を支える顔の輪郭は、ほぼ長方形で、しかもそれを横にしたような四角い黒縁メガネをかけている。
着替えを終えて、数学準備室のドアをノックした。この学校では先生方が全員一緒にいる職員室は存在しない。先生は各教科の準備室と呼ばれる部屋にいる。校長室や教頭室はあるが、あとは会議用の部屋がいくつかあるだけだ。
「失礼します」
ドアを開けると、ガクブチがひとりだけいて、片付けをしているようだった。
「おお、来たか。まあそこに座れ」
ガクブチは自分の隣の椅子を指差した。
「なんの用ですか」
「実はな・・」ガクブチも自分の席に着いて、椅子を美由紀の方向へ回した。「同じ数学の加藤先生が岡本の妹の担任なんだよ」
それは美由紀も知っていたので、話に頷いた。
「昨日の件、聞いただろう?」
「山根君のことですか」
ガクブチはメガネを大きく揺すって頭を上下した。
「加藤先生が、岡本の妹を助けてくれた山根のことを知っているかと尋ねてきたんだ。私は一年の時、山根の担任だったから、その頃のことならよく知っている。岡本も噂は聞いているだろう」
「はあ、なんとなくは」
はっきり答えて良いものかわからなかったので、美由紀は言葉を濁した。
「どんな話だ。差し詰め他校の生徒とケンカしたとか、万引きしたっていう話だろう」
「ええ、まあ」
「それは誤解なんだよ」
美由紀はえっ、という声が出そうになるのを飲み込んだ。
「あいつはそんな奴じゃない。少なくとも一年の時にあったといわれている今のような話は誤解だ」
「じゃあ、ケンカも万引きもしていないんですか」
「いやあ、していないというわけではないんだけどな」ガクブチはメガネを刷り上げてこめかみを掻いた。「その件は、林が絡んでいるんだよ。知っているだろう、林。同じクラスだろう」
山根といつも一緒にいる林のことなら知っていた。
「林は気が弱いから良くない連中に付きまとわれて、でも自分では突っぱねることができないから、いつもいいなりなんだ。ケンカに引っ張り出されたのは林だったんだけど、山根がやられっ放しの林を見ていられずに助けようとしたんだ。だけどな、ケンカの最中に飛び込んで、なにもされずに済むわけがないだろう。結局山根も相手に手を出して・・・、ところが運悪くというか山根が殴った相手が骨折してしまって騒ぎになってしまったんだ」
先生に話を聞かされても、美由紀には山根がやったことが正当なものには思えなかった。どんな事情があったにせよ、ケンカして相手を怪我させてしまったら褒められたことではない。
「万引きの件も、林が仲間から借りたCDを傷つけてしまって、弁償することになったが金が無くて連中に唆されて万引をさせられてしまったんだ。だけど山根がそれを聞いて、返すようにいったらしい。でも林はできないといったので、山根は自分が万引きしたといって店に返しに行ったんだ。後で私は林からその話を聞いてCDショップに説明に行った。だが山根は最後まで自分がやったといい張ったよ」
「なんで、そこまで」
ガクブチは腿の上に肘をついて、体を前に傾けた。美由紀の目の前に四角い顔があった。
「そう思うだろう。私もそれがわからなかった。山根に訊いてもあいつはなにもいわなかった。でもな、林とは何度か話すうちにちょっとだけそれらしきことを聞き出すことができた。小学校五年の時、山根はクラスでひどいイジメにあったそうだ。なにが原因か林もわからないそうだが、クラス中が口をきかなくなってしまった。半年近く続いたそうだが、その時唯一クラスで山根と話をしたのが林だったそうだ。それから山根は林が窮地に陥ると必ず救いの手を差し伸べてくれたそうだ」
意外な話だった。美由紀が持っていた山根のイメージとは丸っきり反対の話だった。
「今日も岡本のクラスで騒ぎがあったそうだな」
「あ、亜紀ちゃんの件ですね。ピアノ教室の月謝が無くなったみたいなんです」
「山根が疑われたのか?」
ガクブチは悲しそうな目で訊いた。
「そういう訳じゃありませんけど、疑っている人もいることは事実です」
「私はそれはないと思うよ」
先生は体を起こして背中を伸ばした。
「山根はそんなことをする奴じゃない。それだけは自信を持っていえる」
美由紀もガクブチの話を聞くまでは、山根が関係していた可能性もありうると思っていたが、今は揺らいでいた。先生の話が事実なら、いや事実なのだろうが、それなら山根がそんなことをするとは思えない。
「先生、なんで私にそんな話を」
ガクブチはまたメガネの下からこめかみを掻いた。
「どうしてって訳じゃないけど、加藤先生には話したんだけど、生徒の誰かにも知っておいてほしくてな。お前なら、妹の件もあったから、聞いてもらえるかと思って・・・」
美由紀は言葉に詰まった。ガクブチもそれを察したようだった。
「ま、今日はもう遅いから帰りなさい。ただ知っておいて欲しかっただけだから、気にするな。お前も妹が不良に助けられたよりは、この方がスッキリするだろうと思って」
数学準備室を後にしても、美由紀はスッキリするどころか、前より一層困惑していた。
もし山根がガクブチのいったような人間だったとして、なにか変わるだろうか。もし妹を紹介しろといってきたら・・・、そんなことは美由紀には関係ないことかもしれないが、ちょっと複雑な思いだった。
翌日、朝のホームルームの時間、出席を取り終えた田沢先生が亜紀に尋ねた。
「中沢、月謝は見つかったか?」
亜紀は「いいえ」と消え入りそうな声で答えた。
「そうか・・・」
すると、亜紀の隣の斉藤忍が立ち上がった。
「先生、昨日の昼休みに、誰もいない教室にいた人がいるんです。先生から調べてもらえませんか」
「誰だ、それは」田沢先生が訊き返した。
「待ってください」美由紀が立ち上がって叫んだ。
「疑わしい人がいるからといって、ここで名前を挙げて調べるというのはおかしいです。調べるなら、全員を調べるべきです」
立ち上がるまで、美由紀自身もそんなことをいうつもりはなかった。しかし、山根の名前が当然のことのように出てくるのが我慢できなかった。
教室内は騒然となった。山根のことは既にみんなの耳に届いているのだろう。みんなの好奇の目は美由紀に向けられた。見るともなしに、美由紀は山根の方を見たが、山根は下を向いたままだった。
「わかった、静かにしろ」田沢先生がみんなを窘めた。
「誰か中沢のカバンから、月謝を取っているのを見た者がいるのか? そうでなければ、個人的に誰かに嫌疑を掛けるのはよせ。じゃあ、ホームルームはおしまい」
「起立!」という当番の声がかかり、その場は収まった。
先ほど山根を糾弾しようとした忍が美由紀の方を向いて何か話していた。美由紀はその場にいるのが耐え難く、トイレに行く振りをして教室を出た。明美が直ぐに後を追って付いてきた。
「美由紀、どうしたの。あんなこといって」
訊かれても美由紀にも答えようがなかった。強いてあげれば、昨日のガクブチの話がもたらした展開かもしれない。教室から少し離れた廊下にふたりが立っていると、林が近づいてきた。ふたりとも林とは口をきいたことがなかった。
「岡本さん、ありがとう」
突然の言葉にふたりとも驚いた。
「なんであなたがお礼をいうの」
「僕のいいたかったことを、代わりにいってくれたから。きっと僕にはいえなかった」
林はそのまま教室へ戻って行った。美由紀と明美は顔を見合わせた。
ところが、翌朝事態は一変した。ホームルームの冒頭、田沢先生がいった。
「中沢からみんなに話があるそうだ。中沢!」
先生に合図をされ、亜紀が立ち上がった。
「皆さん、すみません」亜紀は頭を下げ、更に振り返って自分の後ろの席に向かってもう一度頭を下げた。
「私のピアノの月謝のことですが、ごめんなさい。私の勘違いでした。皆さんにご迷惑をお掛けしてすみませんでした」
亜紀は再度頭を下げて席に着いた。
「みんなに心配掛けたが、月謝は無事に見つかったそうだ。良かった、良かった」
田沢先生が無理矢理話をまとめようとしているのが見え見えだった。
後で聞いた話によると、亜紀の弟が見慣れないゲームで遊んでいるのを見つけて母親が追求したところ、そのゲームが欲しかったので姉の月謝を盗んだのを認めたそうだ。一件落着のように思えたが、みんなの心の中には目に見えないしこりが残ってしまった。
昼休みに昼食を終え、天気が良かったので明美と校庭の花壇に腰掛けて話していると、突然後ろから声を掛けられた。
「岡本、ちょっといいか」
振り返ると、山根と林が立っていた。
「なに?」美由紀は嫌な予感がした。
「お願いがあるんだけど、聞いてくれるかな」
美由紀は立ち上がって、スカートの後ろを叩いた。
「だから、なによ」
「実はさあ、一回で良いから、妹さんと話をさせてくれないかな」
やっぱりそうきたか、と美由紀は思ったが、顔には出さないようにした。
「どうして、妹があなたと話をしなくちゃいけないわけ。それにどうして私にそれを頼むの」
この手の頼みはこれまで何度も経験したが、美由紀は今回が一番むかついた。ガクブチの話を聞いて、少しは見直すところがあるかなと思っていた矢先だけに、押さえているつもりでも態度にそれが出てしまった。
「そんな堅いこというなよ。ちょっと話してみたいだけだよ。それだけ。一回で良いから」
「私に訊かれても困るわ」
助けてもらった弱みがあったのかもしれないが、美由紀の返答もはっきり断るものにはならなかった。
「じゃあ、訊いてみてくれよ。妹さんがOKなら、一回だけ。なっ!」
山根は両手を合わせて美由紀を拝む格好をした。
「じゃあ、妹がもし良いっていったらね」
「ありがとう。恩に着るよ」
横にいる林も嬉しそうにして二人は急ぎ足で去って行った。
「なんなの」明美が呆然とした表情で質問した。
「わかんない」
山根のことが後を引いていたせいか、集中を欠いた美由紀は部活でもミスを連発した。
「岡本、少し外れて見てろ」
ガクブチに怒鳴られて、美由紀はコートサイドに下がり、タオルで顔を覆った。
「ミキ、大丈夫?」
同学年の尚子が声を掛けてくれた。
「うん、平気。大丈夫」
美由紀はタオルから顔を出して無理に笑顔を作った。
「どうしたんだ、岡本。今日は変だぞ。体の調子でも悪いのか」
続いてガクブチが寄ってきた。
「平気です。昨夜良く眠れなかったので、少し疲れているだけです」
「なら良いが・・・。月謝の件は解決したそうだな」
美由紀の担任とガクブチはそれほど親しいわけではなかったが、教師同士のネットワークでもあるのだろうか、既にその話は広まっているようだった。
「おまえのことも聞いたぞ」
「えっ」
「山根を守ったそうだな」
美由紀が驚いているのを楽しんでいるようにガクブチは種明かしをした。
「林から聞いたよ」
「林君が・・・」
「すごく喜んでたよ。私も岡本が山根のためにそこまでやるとは思わなかった」
「別に山根君のためにしたわけではありません」
美由紀は否定したが、ガクブチには通じなかったようだ。
「まあ良い。なんにしても、山根が疑われなくて良かった」
ガクブチはそれだけいうと踵を返した。
ドアを開けると、いつものようにテレビの音が玄関まで響いた。
「ただいまー」
美由紀が声を掛けても誰にも聞こえないようだった。居間に顔を出してもう一度「ただいま」というと、テレビに目が釘付けの奈々美がポテトチップスを噛みながら返事をした。母も台所から声だけ返してくれた。
美由紀は一度部屋に行き、着替えを済ませて奈々美の前に座った。
「奈々美、あんたに訊きたいことがあるんだけど」
奈々美はいつもの調子で、テレビを見たまま「なあに」といった。
「山根君がね、あんたと話をしたいんだって」
「いいよ」
話を聞いているのかいないのか、わからない状態の返答に美由紀は訊き返した。
「今なんていった?」
「だから、いいよって」
「山根君だよ」美由紀は思わず語気を高めた。
奈々美は視線を美由紀に向けて答えた。
「聞いてるよ。だからいいってば。山根さんって、ちょっと格好いいじゃん」
ちょっとにやついたかと思ったら、奈々美はテレビに視線を戻してしまった。
「この前お世話になった山根さん?」
台所の母も話を聞いていたようで、割り込んできた。
「奈々美、ちゃんとお礼いってないんでしょ。一度お礼をいわないとね」
なんという親娘だろうと思ったが、もうこれ以上いう気になれなかった。
「でも、今週は忙しいから、電話でね」
忙しいって、あんたは毎日テレビを見ているだけじゃないといいたかったが、美由紀は何もいわず風呂場へ向かった。美由紀の入浴時間はいつも以上に短かった。
翌日、疲れた体を引きずるように美由紀は家に帰った。彼女の体を重く感じさせていたのは、運動による疲れだけではなかった。山根の電話のことも多分に影響していた。
昼休みに山根に奈々美の返事を聞かせると、これまで見たこともない喜び様を見せた。それが美由紀の憤りに油を注いでいることが山根は分かっていないに違いない。どうしてみんな、奈々美、奈々美なのだろう。同じ姉妹でも、これだけ対応が異なると怒りを通り越して悲しくなってしまう。一生自分は奈々美の陰の存在になってしまうのだろうかと美由紀は思った。
「奈々美、山根君に伝えておいたからね。八時頃電話するって」
「わかった」
当然のことのように返事をする奈々美の態度がむかついた。右手でげんこつを作って振り上げたが、奈々美はそれにも気づかないでテレビを見て大笑いした。美由紀は体の力が抜けて、そのまま手を下ろした。
「なんでこう、奈々美ばっかりが・・・」
「大丈夫よ、美由紀だってそのうち恋人くらいできるわよ」
夕飯をテーブルに運んできた母がいつもの台詞を申し訳程度にいってくれた。
「お母さんにいわれたって、嬉しくないわ」
「あら、そう。誰もいってくれないよりましじゃない」
その一言が余計だと美由紀は思った。
時計が八時に近づくと、美由紀は自分の部屋にこもった。とても奈々美の電話を傍で聞く気にはなれなかった。自分の気持ちが自分でも良く分からなかった。
何も頭に入らないまま英語の参考書を捲っていると、奈々美がノックもせずにドアを開けた。
「お姉ちゃん、電話来たよ」
「あっそう、良かったわね」
「うん、ちゃんとお礼いっておいたから」
「じゃあ、これで終わりね」
美由紀は机に向かったまま、奈々美に背を向けて答えた。
「ううん、明日もう一度だけ電話来るから」
美由紀は反射的に振り返った。
「なんで?」
「私からお願いしたの」
「あんた、どういうつもり」
「まあ、いいから。明日になればわかるわ」
奈々美はなにやら自信ありげな態度だった。
「山根君になにをするつもり」
「心配?」奈々美の表情は美由紀を挑発した。
「お姉ちゃん、山根さんのこと好きなんじゃない」
「奈々美!」美由紀は思わず叫んだが、それがどうしてか自分でもわからなかった。「私をおちょくるつもり」
「まあ、怒らないで。明日になればわかるわ。じゃあね」
美由紀はもう一度奈々美の名を呼んだが、奈々美はドアを閉めて行ってしまった。
その夜はなかなか寝付けなかった。翌日学校へ行っても、美由紀の心は平静を取り戻せなかった。奈々美の発した一言が後を引いていた。『お姉ちゃん、山根さんのこと好きなんじゃない』
これまで何度か男子から奈々美との橋渡しを頼まれたことはあった。でも、自分でも不思議なくらい気持ちの切り替えは早かった。相手が奈々美じゃしょうがないな、と思った途端、自分でも不思議なくらい気持ちが冷めていった。でも、今回は違った。なぜだろう、と昨夜布団の中で美由紀は自問し続けた。でも答えは見つからなかった。いつものようには気持ちの切り替えができない自分がいた。
「ミキ、どうしたの」
頭の奥の方で声が聞こえた気がした。気がつくと明美が目の前に顔を突き合わせていた。
「あ、どうしたの明美」
「どうしたのじゃないわよ、あなたこそどうしたのよ。呼んでも聞こえていないみたい」
「そうだった? ゴメン。考え事してたから」
「ほほう、ミキも一人前に悩む年になったか」
明美は人差し指で美由紀のおでこを突いた。
「なによそれ」
美由紀は何気なく山根の席の方を見たが、山根もいつも一緒にいる林も見あたらなかった。
「山根君?」
すかさず明美がいった。
「そんなんじゃないって。なによ山根君って・・・」
「まあ、そんなに照れなくて良いから。私、お似合いだと思うけどな」
「明美、やめてよ。あんな奴」
美由紀は頬を膨らませてみせた。
結局その一日は、授業の内容が全く頭に残らないまま終わってしまった。部活でもこの調子では、またガクブチに怒鳴られそうだと思い、美由紀は両手で頬を叩いて気合いを入れ直した。
美由紀は昨日と同じように机に向かっていた。時計の針はあと五分で八時になろうとしていた。もうすぐ山根から電話が来る時間だ。部活では目立った失敗はしないで済んだが、夕飯を食べて部屋に戻ってからはなにも手に付かなかった。
誰かが廊下を歩いてくる音がした。奈々美のようだが、もう電話は終わったのだろうか。
「お姉ちゃん、ちょっと来て」
「なによ、勉強中!」
「いいから、来て」
奈々美は部屋に入ってきて美由紀の腕を引っ張った。
「どうしたのよ、もう電話は済んだの」
「まだ。だから早く来てってば」
奈々美の力に抵抗する気にもなれず、美由紀は腕を引かれるままに居間へやって来た。
「さ、座って」
奈々美は美由紀を電話の傍の椅子に座らせた。
「なんで、あんたに掛かってくる電話でしょ」
「そうよ、だけど今日はお姉ちゃんが出るの」
「なにいってるのよ」
美由紀は思わず立ち上がろうとしたが、奈々美に肩を押さえつけられた。
「いいから、私のいうとおりにして」
奈々美も椅子を持ってきて、美由紀の前に座った。
「電話が掛かってきたら、お姉ちゃんが出て」
「どうして・・」といいかけたが、奈々美は美由紀の口を手でふさいだ。
「お願いだから、最後まで聞いて」
美由紀の呼吸が落ち着くのを待つように、奈々美はしばらくなにもいわずに姉の目を見た。
「いい? 山根さんは私がでると思って電話を掛けてくるから、お姉ちゃんが出て。・・・大丈夫、おばちゃん達だって間違うくらいだから、絶対わからないから。でもなるべく高い声で話すようにして。お姉ちゃん、機嫌が悪い時、声が低くなるから」
奈々美はちょっと微笑んだ。
「あとは、山根さんの話に合わせて話せばいいから」
「それにどんな意味があるの?」
「電話に出ればわかるから」奈々美は左目をつむった。
その時、電話のベルが鳴った。母は風呂に入っているようだ。奈々美が電話に出るように合図した。
「もしもし・・」
「あっ、奈々美ちゃん?こんばんは」
学校にいる時には想像もできないような山根の柔らかい声が聞こえた。
「こ、こんばんは」
奈々美にいわれたとおり、声のトーンをいつもより上げるようにして話した。山根は気づいていないようだった。
「昨日はありがとう、いろいろ聞かせてもらって助かったよ」
奈々美はなにを山根に話したのだろうと思ったが、さすがに訊くわけにはいかない。
「い、いいえ」
「ところで、お願いしたことだけど、どうかな?わかった?」
「お願いって・・・」
奈々美はそんなことは、なにもいっていなかった。美由紀は言葉に詰まった。
「ほら、お姉さんに好きな人がいるかってこと」
「ああ、そのこと」
美由紀は冷や汗が出た。
「昨日、奈々美ちゃんに頼んでおいて申し訳ないんだけど、やっぱりおかしいよね」
「おかしいって?」
「もう付き合っている人がいるのならともかく、好きな人がいたとしても、それであきらめるのって変だよね。あれから考えてみたんだけど、男らしく当たって砕けろで行こうかと思うんだけど・・・」
思ってもいなかった展開に、美由紀の頭の中は混乱した。傍で紙になにか書いていた奈々美が、笑いながらその紙を広げて見せた。その紙には『山根さんのターゲットは最初からお姉ちゃんだよ』と書かれていた。
美由紀は耳から火が付いたように顔全体が熱くなっていくのを感じた。
「もし、俺がコクったら、お姉さんOKしてくれるかな」
山根の言葉に美由紀の熱は沸点を超えた。
「え、あの、その・・・」
「奈々美ちゃん、やっぱりダメだと思う?」
「そ、そんなこと無いんじゃない・・かな・・・」
美由紀はそれだけいうのが精一杯だった。奈々美は声が出るのをこらえるように、口元を塞いで笑っていた。
「そうか、奈々美ちゃんにそういってもらえて勇気が出たよ。俺、やってみるよ。ありがとうな」
「う、うん」
「じゃあ、電話切るから」
受話器からは、ツーツーという音が流れていた。でも美由紀の耳にはその音は届かず、山根の言葉が繰り返し聞こえていた。




