『不幸4.黒木ゆず』2
「千円の不幸なんですか、これが?」
その日の放課後、拓人は再び不幸取扱店を訪れていた。
「ええ。お試し版の不幸を気に入ってくれたご様子で、私は大変嬉しく思います。こちら千円分の対価といたしまして、不幸を溜め込む砂時計に注ぎ入れるカートリッジとなります」
拓人はまたしても自身を不幸にする砂入り小袋を差し出されて、内心緊張していた。
もう二度とあんな恥ずかしい思いはしたくない。
そう思ってネックレス型砂時計を返却しようとこの店にやってきたのだったが、美柚の巧みな言葉に踊らされ、拓人は気づけば次の不幸を手にしていた。
「昨日、オレは散々な目に遭ったんです! もう不幸なんて要りません! この砂時計はお返しいたします!」
定価千円とされる不幸砂を手渡されても受け取ることなく、拓人は突っぱねるように美柚へと砂時計を返却した。
「でも、良いこともあったのでしょう?」
砂時計を押し付けた手を女性に握られて、拓人はやはりどうしても緊張してしまっていた。
女の人の手に触れるというのは拓人にとっては滅多にないことで、ゆずと話すことの他には女性と喋ることすらままならなかったのである。
そんな折、教室でおもらししてしまうハプニングがあった次の日には念願であったみどりさんとの会話が実現し、手を触れることまでできた。
初恋の人と同じクラスになってから初めて話すことができたその理由は、あの事件があったからこそだ。
確かに、おもらし事件という不幸に釣り合っていない幸せであるとは思う。
けれど砂時計に入れたはずの紫色――次第に赤色へと変色した不幸砂がどこかへ蒸発したかのように消えて無くなっていることを思えば、あれは拓人にとっての幸せであったと言えるのだろう。
「ま、まあ……それなりに。でも、もうあんな恥ずかしい思いをするのはご免です! 二度とこんな物使ったりしません!」
そう言って、拓人はもう一度強く砂時計を押しやると、今度は美柚の両手で激しく掴まれてしまった。
「良いの!? そんなことで! 青春は一度しかないのよ!?」
「はい!?」
リラではないが、ここでも突拍子のない発言を耳にして拓人は激しく困惑した。
まずは相手の発言の意図を確認してみる。
「青春に痛みは付きもの。一度しかない青春にチャレンジしなくてどうするの! やるならとことんやりなさい!」
「あの……言っている意味が……」
魔女は拓人に構わず続ける。
「困難! 障害! アクシデント! ハプニング! ラッキースケベ! 大いに結構!」
「何を言っているんですか貴女は!?」
「青春を謳歌しないで何が高校生か! 失敗上等! 敗北結構! 不幸どんと来いでしょう少年!」
「落ち着いてー頼むからー」
「そんなあなたに! 不幸いまなら千円でのご奉仕となります!」
「またそれかよ!」
拓人は美柚の語り口に辟易しては、額に手を当てた。
「やれやれ……いきなり何を言い出すかと思えばただの宣伝ですか。もういいですよ、そういうのは。オレは今後一切この店には立ち寄りませんし、砂時計を使ったりもしません!」
「だめだよー! 男の子は勇気でしょ!?」
「勇気なんて無くて良いです」
「じゃあ根気! 続ける勇気!」
「不幸を続ける勇気なんて満更でもない!」
「それなら幸福! 女の子とイチャイチャする勇気!」
「良いですねえ、それは! そんな勇気なら、オレも欲しいですよ! ……でももう騙されません!」
「女の子とイチャイチャできる不幸、今ならなんと千円!」
「欲しい! でも恐いよ!」
「また不幸なことが起きるから?」
「そうですよ! 学校でおもらしする高校生以上に不幸なことってありますか!?」
「へー、そんなことがあったんだー。大変だったねー」
「げ」
拓人はつい口を衝いて出てしまった告白に、内心「しまった……」と後悔した。
「お姉さんならその不幸の記憶、買い取ることが出来るんだけどなぁー?」
「う……っ」
拓人にとってはなるほど確かに忘れたい記憶に違いなかったが、ゆずの慰め、あさひなとのやり取りを思い出し、記憶の譲渡をためらった。
「……って、本当に嫌な記憶を忘れられるんですか?」
拓人は真剣な調子を取り戻してそう問うと、美柚は何の気なしに、
「できるよー」
と答える。
それから美柚は記憶転送装置を彼に見せ、人の頭の海馬からカセットテープ型メモリに不幸な記憶を移し変える仕組みを説明した。
「で、試しにやってみる?」
おもらしした記憶なんて、一早く忘れたかったが断った。
拓人はここでも遠慮して答えを保留した面もあったが、それ以上に自身の記憶を失うことが恐ろしかったのだ。
たとえ嫌な思い出であったとしても、どうしてか手放してはいけないような気がしたのである。
「なーんだ、残念。おもらしする男子高校生の不幸なら、二万円で買い取ったのに」
「に……二万円……」
マイナスな出来事が現実的なプラスに。
拓人は一瞬「本当に売ってみようかな?」という考えを巡らせたが、すぐさまぶんぶんと首を振り、お金欲しさに思い出を売ろうとした自分を忘却する。
「とにかく、この店には二度と来ません! この砂時計もご返却いたします!」
拓人は毅然とした口調でそう告げると、座っていた椅子から立ち上がった。
そこに、美柚のとっておきのアドバイスが炸裂する。
「好きな女の子と仲良くなりたくないの?」
美柚は男子高校生ならば等しく持っているであろう欲望について口にした。
たとえ「好きな人」――つまりは恋をしていない男子に向けられた台詞だとしても、クラスの中に気になる女子が一人でもいれば突き刺さる台詞。
基本男子はいつ何時だって女の子とイチャイチャラブラブしたい生き物なのだ。
それは遺伝子レベルで組み込まれている人間の欲望であるのだから、当然そう易々と逃れることはできない。
まさしく蝶を捕縛するかのごとく放たれた蜘蛛の糸に、拓人の心は鷲掴みにされる。
「別にそんな人……」
翠緑あさひなの顔が瞬時に思い浮かんできてしまい、拓人はその小柄で可愛らしい容姿、無口で恥ずかしがり屋さんな性格、そして触れればたちまち壊れてしまいそうなちっちゃな手――それも指先を思い返しては、赤面した。
今日あったやり取りを思い出しては、幸せな出来事を噛み締めていたのである。
「やっぱり……。あなたにも気になる人はいるのね」
「だからいないって……!」
「そう強がらなくても良いわぁ、すぐに仲良くなれる方法、私が教えてア・ゲ・ル」
ぞくぞくぞく……! と、お姉さんに首元へ息を吹き掛けられて鳥肌が立つ拓人。
彼はゆっくり這うように差し迫ってきた美柚の指が肩から腕、手へと向かっては動いてゆくのを知覚し、「あ……っ」という吐息を洩らした。
その手に不幸砂が入れられた小袋を握らされ、気づけば拓人は商品の対価である現金千円を支払っていた。
拓人はまたしてもわるーい大人の女性に騙され、不幸を手にしてしまっていたのだ。
「これであなたが好意を寄せる女の子と仲良くなれるはずよぉー? もしもこれから起こるその不幸を忘れたくなったのなら、いつでもここに売りに来てちょうだい」
拓人は最後に魔女姿の美柚からネックレス型砂時計を受け取り、店を後にした。
「あと一回……一回だけだ」
そう思い、拓人は不幸とされる紫色の砂袋を見つめては封を千切り、砂時計へと入れていった――。
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