アモルの休日1
宮殿の壁と一体になっている噴水の周りは、観光客でごった返していた。壁の中央にはバルカタル帝国の始祖と印を結んだとされる女神レイネス、左には水の神ネプロス、右には豊穣の神ケレロスの彫刻が置かれ、見る者を圧倒している。
ツバキも壮麗な彫刻の女神に魅せられていた。見上げる者を包み込むような笑みを浮かべながら、立ち向かう勇気を与えるような強い目。混沌としていた世界を光へ導いた女神レイネスの、建国神話で語り継がれている姿そのものだった。
「セイレティア様。後ろを向いて噴水へコインを投げると、再びこの地に来ることができるという言い伝えがあるんですよ」
男性は微笑してコインを差し出す。
「ありがとうございます」
ツバキもしおらしく皇女の微笑を返してコインを受け取り、噴水へ投げる。ちゃぽんと後ろから音がした。
ツバキは今、白銀色の髪の皇女セイレティアとして、イリウム州のモルビシィア(貴族の街)のアモルに来ていた。隣の男性は公爵令息グレゴリー(二十歳)。ツバキの今日の見合い相手だ。
彼の父親は公爵という高い爵位を持ちながら様々な事業で成功を収めており、ジェラルドが進めている製薬研究の支援者でもある。その父親曰く、爵位は長男が継ぐので次男のグレゴリーに会社を任せたいが思考に少々偏りがあるらしい。ジェラルドから、薬の未来がかかっているので次男がどんな人物か見極めてこいという面倒な宿題が出ていた。
「ここは、最近人気の小説の舞台にもなっているんですよ」
「存じておりますわ。私の侍女が何度も読むほど気に入っていますの」
その小説は、某国王女が城を抜け出し、アモルで知り合った男性と一日だけのデートを楽しむという話だった。侍女のサクラは心をときめかせ何度も読み返していたが、実際に何度も城を抜け出しているツバキはなんとなく心苦しくなり途中で読むのをやめた。この街へ来るにあたり、サクラがものすごくうらやましそうだったので、影武者として行ってきたらと提案してアベリアに叱られてしまったことは言うまでもない。
「セイレティア様、ベールが」
グレゴリーに指摘され肩に落ちかけていた青色のベールを頭に被りなおす。お忍びで観光をしているので、目立つ白銀色の髪を隠していた。
ツバキのそばには、彼の他に地味な格好をした護衛が二人ついている。セイレティアの公用護衛として軍から派遣された人たちだ。トキツは軍人でも貴族でもないので相応しくないと周囲が難色を示し、宿泊先の屋敷で待機している。どうやら皇女の私的な護衛に平民が雇われたことを好ましく思わない人たちがいるらしい。肩身の狭い思いをさせてしまい、ツバキは申し訳なく思う。
「なんだとテメー!」
突然遠くから怒鳴り声がした。人垣の向こうで小競り合いが始まったようだ。
「平民ですよ」
グレゴリーが忌々しそうに眉をひそめる。
モルビシィアとレイシィア(平民の街)は塀で仕切られており、帝都では軍人の門番がいてモルビシィアへ入るには身分証が必要だが、イリウムにはいないので平民も自由に出入りできた。小説の舞台となった地を一目見ようと貴族平民問わず観光客が押し寄せている。
なにもそんな混雑した中お見合いデートを設定しなくてもいいのにと思うが、小説の王女と同じ境遇の皇女ならきっと喜ぶだろうと考えてくれたのかもしれない。ご期待に添えず非常に申し訳ないとツバキは心の中で謝った。
「以前はそこまで平民は入って来なかったのですが、あの小説が出てから増えてしまいました。騒々しいことこの上ない。この前はスリも出たと聞くし、以前のように門番を置いてほしいものです」
「門番はいつからいなくなったのですか?」
「先代の州長官からです」
「私の叔父ですね。確か、貴方のお父様と親しかったのですよね?」
「ええ、学生時代からの付き合いだそうですよ。父の事業も二人で構想を練ったのだとか」
「兄がそのツテで外国から薬の研究者を雇ったと聞いております」
「そのようです」
グレゴリーは仰々しいため息を吐いた。
「製薬研究はそこまで必要なのでしょうか」
「グレゴリー様はそうお考えではないのですか?」
「正直申し上げて、治癒魔法士を増やした方が合理的ではありませんか? 薬は研究開発に莫大な費用が必要ですし、手間がかかる割に即効性はありません。貴族はそんなよくわからない薬より治癒魔法を頼りますよ」
「魔法士では国の隅まで届かないこともありましょう」
「薬もそうではないですか。費用ばかりかさんで採算がまったく取れません」
そうでしょうかと言いかけたとき、人に押されて転んだ六歳くらいの子供が目に入った。膝を擦りむいて泣き始める。
咄嗟にツバキは子供のそばへ駆け寄った。親とはぐれて探していたら人波に飲まれてしまったらしい。とりあえず落ち着かせようとハンカチで涙を拭いてやる。
その様子に、グレゴリーは衝撃を受けた。
子供の服は明らかに安物で汚れも目立っており、レイシィアから来た子だとすぐにわかった。それだけでグレゴリーは近寄りたくないと思った。周りにいる貴族も同様に汚いものを見るような目をしていた。しかし、この中で最も高貴な方がすぐさま子供に駆け寄り、真っ白い絹のハンカチで子供の顔を拭き、背中をさすって落ち着かせたのだ。
「傷口を洗わなくちゃ」
皇女は噴水の前まで戻り水をすくって土まみれの膝へかける。何度か繰り返して綺麗にすると、洗って固く絞ったハンカチで優しく拭いた。
「絆創膏か何かあるといいのだけれど」
近くのお店にあるかしら、とキョロキョロ見回す。皇女が困っているのに手を貸さないわけにいかないと、グレゴリーは慌てて鞄からある物を取り出した。
「セイレティア様、こちらに外国から取り寄せた擦り傷に効く軟膏があります」
「ありがとうございます」
皇女は軟膏を受けとると、しみないか気遣いながら子供に塗る。するとちょうど子供の母親が走ってきて、二人に礼を言って手を繋いで去っていった。その後ろ姿を微笑んで見送ってから、立ち上がってグレゴリーへ向き直る。
「グレゴリー様は薬に否定的かと思ったのですが、認めていらっしゃるのですね」
「え?」
「薬を持ち歩いていらっしゃるでしょう?」
「いや、これは父に無理矢理持たされたんです」
「それを適切なタイミングで出してくださったではありませんか」
皇女は温かい微笑みを浮かべる。
「グレゴリー様。確かに薬はなかなか広まらないかもしれません。ですが、化粧も最初は上流階級の者しかしておりませんでした。このベールの青色も、正式には瑠璃色ですけれど、最初はとても高価な鉱物で染めていたそうですが、今は他の物を合成して似た色を作り広まっています。時間がかかっても、必要なものや良いものは必ず広まるのです。それに、私はすべての民の幸せを願っています。魔法がなかなか使えない地域でも、薬が広まれば多くの民が助かるでしょう。重篤な病でなくても、子供の擦り傷が早く治るよう母親が薬を塗ってあげる、そんな優しい情景が広まったら、どれほど素敵なことでしょうか。グレゴリー様が力を尽くしてくだされば、多くの民が、国が助かるのです。それはとても尊く、素晴らしい行いだと私は思います」
このとき、グレゴリーの視界には、温かくそれでいて背中を押すような眼差しの皇女と、彼女の後ろに凜々しく立つ女神レイネスの像が同時に入っていた。その構図はまるで、女神が皇女の姿を借りて語りかけているようだと感じた。
頭の中で鐘が鳴り響く。
(そうだ。このお方は、始祖の子孫なのだ)
グレゴリーは震え、崩れるように跪いた。そして──土下座した。
突然の出来事にツバキは目を丸くする。
(え? なんで? どうして土下座してるの?)
なぜ彼がこうなったのか見当もつかなかった。思ったことを皇女らしい言葉遣いで言っただけだ。皇女感を出しすぎたのだろうか。暑さで頭をやられたのだろうか。
それにしても、少女が大人の男を土下座させているなど異様な光景に違いない。周りも面食らっている。
ツバキは慌ててグレゴリーに立つようお願いする。そして早くこの場から離れようと早歩きで彼らから離れた。
「セイレティア様! お待ちください!」
(今その名を叫ばないで!)
同じ年頃の娘に皇女の主名と同じ名の者はいない。
後ろを確認せずどんどん進んでいくと、グレゴリーたちとの間に人波が押し寄せた。
その時。
誰かとぶつかった。左手を引っ張られ、よろけそうになって、踏ん張る。ほっとしたものの、何か嫌な感じがあった。
いや、あるはずのものが、ない。
……から貰ったブレスレットが。
(そんな!)
ぶつかった男は人波に乗って離れていく。
(待って!)
ツバキは自分を呼び止める声を背に、夢中で男を追った。
はあ、はあ、と肩で大きく息をする。
男を懸命に追いかけて追いかけて、レイシィアへ入ったところで見失い、探し回るうちに、気づけばゴミが散乱し異臭のする路地まで来ていた。人気はなく、薄暗くて気味が悪い。治安が良くない場所だとすぐにわかった。
(どうしよう……。さっきまでにぎやかな場所にいたのに)
帰り道がわからなかった。綿伝も置いてきたので、連絡を取ることもできない。
なにより、いつも隣にいた人はいない。
ブレスレットを取られてしまった。
右手首にあった印が消えてしまった今、あれだけが彼がいた証だ。
ぎゅうっと胸が締め付けられる。こみあげる何かが喉も締め付けた。じっとりとした汗が首筋を伝い、暑いはずなのに、体が小刻みに震えている。
「カ……オ……ウ……」
震えながら、か細い声で一か月近く呼ばないようにしていた名を呼ぶ。
(今、どこにいるんだろう。どうして何も言わずに去ってしまったんだろう。どうしてあのとき怒ってしまったんだろう。みんな、いつか帰ってくると言っていたけれど、そんな保証がどこにあるんだろう)
膝をついて、その場にうずくまった。
散々泣いて、泣いて、枯れたと思った涙がまた溢れてきた。
怖くて、さみしくて、悲しくてたまらない。
それでも、早く帰ってきてと口に出したら、心が壊れてしまいそうだった。
「あれぇ、どうしたの? 泣いてるの?」
へへへへという下卑た笑い声がし、体が緊張で固まる。
恐る恐る顔を上げると、酔っ払いの男が三人、いやらしい目を隠しもせず近づいてきた。
あたりを見回しても、誰もいない。
怖くて動けない。だが、捕まるわけにはいかなかった。
(落ち着け、落ち着け)
涙を拭いて、ゆっくり深呼吸する。
もう一度、周囲を見回した。
男が一人近寄ってきた。じりじり下がる少女の姿が余計に男の嗜虐心をそそるのか、大きな動作で怖がらせるように距離を縮める。あと二・三歩で手が届くという距離になって、抱きつくように飛びかかった。
しかし男が抱きついたのはゴミの山。
男の動きを見切ったツバキが横に避け、回転しながら背中を突き飛ばしたのだ。じりじりとそこへ誘導されていたことに気づかなかった男は、よほど酔っていたのかそのまま動かなくなる。
「な……てめえ!」
迫ってきた二人目に反応が遅れ、右腕を捕まれた。ツバキは一歩前へ出て、右手の甲を思いっきり相手の鼻にたたきつけ、ひるんだ男の顎を下から突き上げる。
男はぐらりとよろけて倒れ込んだ。
その隙にツバキは急いで走りだした。だが、最後の一人はあまり酔いが回っていなかったらしく、あっという間に壁際まで追い込まれてしまった。無造作に捨てられていた壊れた傘を拾ってかまえる。
傘の先端の震えに気づいた男はにやにやして歩いてくる。舌なめずりする顔が気持ち悪い。
バルカタルでは皇女も権力者となれる代わりに、戦に出る可能性があるので武術も習う。その権利を失っていたツバキも、護身用に少しだけ教えられていた。実戦は初めてなので自信はなかったが、相手が酔っていたおかげで最初の二人はなんとかなった。しかし、やはり最後までうまくいくはずがない。
相手めがけて傘を振り下ろすも、簡単に取り上げられてしまった。
「生意気な女だな」と言って男はツバキの首を片手でつかむ。ギリギリと締め上げられ、苦痛で顔が歪む。両手で引きはがそうとしてもびくともしない。
助けてと心の中で叫ぶ。
魔物を操る力があるのではなかったのか。当時の記憶がないツバキはその術を知らない。
何度助けてと願っても何も起こらず魔物は現れない。遠くで犬の遠吠えが聞こえるだけ。
息ができず頭がぼうっとしてきた。抗う両手の力が抜け諦めかけた、そのとき。
ガッと頭上で音がして、急に首が解放された。地面に倒れ、ゲホゲホとせき込む。次いで最後の男がドサリと倒れた。誰かに頭を殴られたらしく、気を失っている。
「大丈夫か?」
差し出された手の持ち主を見上げた。
「あなたは!!」
驚きで口をついて出てしまった。
そこにいたのは、ケデウムで出会った赤い髪の男だった。
〇ーマの休日




