番外編 皇女の影武者1
パレードの翌日の話
うっとりするほど豪華で鮮やかな青いドレス。
イチゴ大の宝石がキラキラまばゆく輝くネックレスにイヤリング。
ドレスで見えやしないのに小さなダイヤが散りばめられた高いヒールの靴。
新皇帝即位の祝賀パーティーのために用意された、第三皇女の衣装たち。
総額が一生分の給料よりも高いそれらを前に、サクラ・タージスは冷や汗をかいて立っていた。
(だってだってだって)
パレード中に魔力を使い果たして倒れてしまったツバキの代わりに、影武者のサクラが出席することになったのだ。
化粧で本物に似せた顔と、白銀色のカツラをかぶってヘアメイクも完璧。あとはこのドレスや装飾品を身につけるだけなのだが。
もし、どこかにひっかけてドレスを破ってしまったら?
ジュエリーに傷をつけてしまったら?
ヒールが折れてしまったら?
そんなことを考えていたら、体が震えて支度できなくなってしまったのだ。
「まったく、いつまで固まっているの。早く覚悟を決めなさい」
「だって、アベリアさまぁ」
呆れた顔で声をかけてきたのは、セイレティア付きの女官であるアベリアだ。侍女のサクラにとっては上司であり、皇女の影武者としてのマナーや所作の先生でもある。
ちなみに女官は貴族しかなれないので、ツバキを主名のセイレティアと呼ぶことを許されている。
アベリアは腰に手をあて、苛立たしげに息を吐いた。
「影武者は初めてではないでしょう」
「これほどまで高価なドレスやジュエリーは初めてです。今までもただの侍女が着られるはずのないブランドのドレスですが、今回は桁が違いすぎます。せめてジュエリーはもう少し控えめなものではダメでしょうか」
「わかっているはずよ。今回は他国の王族の方もいらっしゃるのですから、最高級品を身に付けなければ。さあ、いくわよ」
「うっ」
業を煮やしたアベリアに問答無用でコルセットを締められ、呻く。
「セイレティア様のサイズに合わせているのだから、もっと締めないと入らないわ」
「ツバキ様の細さに合わせたら窒息してしまいます」
「胸は特に締め付けなくちゃ。あら、また大きくなった?」
それについては、肯定せずに苦笑いするだけにしておく。
さて。
なんとかドレスは入り、装飾品を身につけ、靴も履いて、心以外は準備完了。
鏡の前に立ち、全身を眺める。
高貴な猫のように大きな瞳、すっと通った鼻筋、小さな口。
月の色を吸ったような神秘的な髪色。
細い腰に長い手足。
そこには敬愛する主人が目の前にいるようだった。
(本物のツバキ様の目元はもう少し凛々しく、もっと気品に溢れているけれど)
「はぁ……」
思わず漏れた大きなため息。
ツバキの影武者となった四年前は、自分でも鏡をみているのかと錯覚するほど本当に瓜二つの顔をしていたが、年を重ねる毎に違いがわかるようになってきた。
今はなんとか化粧で誤魔化しているものの、それもいつか通用しなくなる日が来るだろう。
そうなれば、影武者はもう出来ない。
主人が城を抜け出して自由な時間を心置きなく過ごせるようにして差し上げたいのに。
それが、サクラだけができる唯一のことだ。
「そんなに嫌なら、少し顔を見せたら帰っていらっしゃい。本日の主役は新皇帝なのだから、出席した事実さえあればいいのよ」
ため息をついたのは違う理由なのだが、アベリアを気遣わせてしまったようだ。
「い、いえ。ツバキ様のためですもの。しっかりお役目をまっとういたします」
皇帝の祝いの席に兄弟姉妹が出ないとなると、噂好きの貴族様たちが何を言うかわからない。
なによりせっかく着飾ったのだ。身に付けるのは震えるほど恐れ多くとも、豪華なドレスとジュエリーの出番が短いのはもったいなさすぎる。
「では目を閉じて」
鏡越しにサクラを見つめて背中をぐいっと押すと、アベリアは暗示をかけるように落ち着いた声でささやき始めた。
「肩の力を抜いて。あなたはバルカタル帝国第三皇女、セイレティア=ツバキ・モルヴィアン・ト・バルカタル」
「私はバルカタル帝国第三皇女、セイレティア=ツバキ・モルヴィアン・ト・バルカタル」
同じ言葉を繰り返し、次に目を開けた瞬間から、セイレティア=ツバキになると自分に信じ込ませる。
とはいえ催眠術ではないので、これでガラッと人格が変わるわけではない。影武者となるための儀式のようなものだ。
「さあセイレティア様。目をお開けください」
アベリアに促されて、サクラはゆっくり目を開けた。
バルカタル帝国の皇帝は、前皇帝の子の中で一番魔力の高い魔物と契約(自らの魔力を与える代わりに魔物の力を使えるようにすること)した人物がなり、さらに、皇帝の兄弟姉妹から魔力の高い順に選ばれた五名が州長官となり帝国の五つの州を治める。
最近即位された新皇帝は第一皇子、つまりツバキの一番上の異母兄で、州長官はツバキ以外の兄弟たち。
そして今日は、その即位の祝賀パーティー。
そんな重要なイベントならば、来賓は国内の伯爵以上の貴族と、他国の王族ばかりなわけで。
まさにセレブ中のセレブたちがお酒の入ったグラスを片手ににぎやかに談笑している中、サクラは目立たないよう会場の隅でジュースをチビチビ飲んでいた。
軽食も用意されているが、締め付けられた体に入るのは飲み物が精一杯。第一、緊張してしぐさにぼろが出てしまいそうなので、なるべく動作は最小限に抑えたかった。
「ほら、あれがあのセイレティア様よ」
名前が聞こえてついそちらに目をやると、帽子に大きな羽をつけた女性と目が合う。
女性は気まずい表情で軽く会釈をしてから隣の男性たちとの会話を小声で再開させたが、声は聞こえなくても、雰囲気で内容はわかった。
主人には、正式な授印(契約した魔物のこと)がいない。
本当は立派な授印がいるのだが、父親である前皇帝が認めないため、表向きいないことになっていた。
皇族なのに授印がいないなど、魔力の高さが身分の高さといっても過言ではないバルカタルにとって、前代未聞のスキャンダル。
契約すらできないほど魔力が低いのではと世間では噂されているらしく、人々の好奇の目にさらされるのは仕方がないかもしれない。
(だからって、皇女をちらちら見るなんて無礼すぎる)
本当は授印がいるのだと、大声で叫びたい。
州長官になれるくらいの魔力はあると知ってほしい。
もちろん、授印がいることが公になったとしても、魔物の種類だけで魔力の高さは判別できないので、そんな保証はないのだが。
(でもでもでも。第二皇子のカイト様よりは上に決まっている。絶対に! 根拠はないけど!!)
あんな、女好きで自意識過剰で傲慢な皇子に、凛々しく寛大で思慮深い主人が負けるわけがない。
よくも悪くも自分の評判に無頓着な主人は周りの視線なんて気にしないとわかってはいても、腹に据えかねることはあるものだ。
サクラはもやもやした気持ちと一緒にグラスに残っていたジュースを飲み干した。
ふう、と一息ついて、さりげなく周りを見回しながら、影武者となる教育の一環で覚えた他国要人の顔と名前を一致させていく。そしてその同伴者に同年代の男性がいないかもチェックした。
好みの男性を探しているわけではない。
ツバキは学園を卒業したら結婚することが決まっている。おそらく卒業と同時に帝国と強い縁を結びたい国から申し込みがあるだろう。
そして申し込む気満々の国ならば、公式にツバキと顔を合わせる絶好の機会を逃すはずがなく、候補者を同伴しているはず。
その証拠にちらほらと男性の視線を感じるし、幾人かと目が合う。
しかし一向に誰も話しかけてこないのはなぜだろうか。
帝国の皇女に着易く声をかけられる立場にないと遠慮しているのか、それともツバキの噂を信じて様子見しているのか。他国は帝国よりも魔力を重要視していないと習ったが。
不思議に思っていると、かわいらしい小花が舞うような空気が近づいてきた。
「こんばんは、セイレティア姉さま」
かわいらしい微笑みで挨拶してきたのは、ゆるふわ髪のかわいらしい少女だった。
隣にはツバキと同じ眼をした美少年。ツバキと同い年の異母兄、第五皇子アルベルト=コウキだ。ツンとそっぽを向いている。
「リューシェ、アル」
「…………」
アルベルトはちらりとサクラを見て、またぷいっと逸らした。
リューシェがアルベルトの頬をつつく。
「もう、アルったら。挨拶したいって言ったのはアルでしょう?」
「言ってないし」
「そういう表情してたもの」
アルベルトとツバキの仲は悪くなく、七歳の頃から一学年下のリューシェと三人でよく遊んでいたらしい。
アベリア情報によると、リューシェに一目ぼれしたアルベルトにツバキが世話を焼いたとかなんとか。こうした公式の場にも必ず二人で参加しており、今も心なしか二人の周りには花が咲いたような雰囲気が漂っている。
学園卒業後は州長官としてセイフォン州を治めるため遠距離恋愛になると聞いたが、婚約したという話は聞かず、その辺はどうなのだろうかという好奇心を抑えて、セイレティアのしぐさを真似た。
「州長官就任、おめでとう」
「どうも」
「卒業したらセイフォンへ行くのでしょう? さみしくなるわ」
「……遊びに来れば」
そっけないかと思いきや意外な言葉が返ってきた。
アルベルトはそっぽを向いたまま微かに頬を赤くし、その顔をリューシェはにこにこ見守る。
また小さな花が一つ増えた気がした。
それからたわいのない会話を少しして二人が去ると、サクラはほっと安堵の息を吐いた。
最近はたまにしか会っていなかったおかげか、二人は皇女が偽物だと気づかなかったようだ。
もしアルベルトがしっかりサクラの顔を見ていたら気づいたかもしれないが、彼はあまり顔を上げなかった。自分が州長官となったことに負い目があるのかもしれない。
(もう誰も話しかけてきませんように)
本当ならこちらから祝辞を述べに行かなければならないだろう。
しかしそんな度胸はサクラにはない。幸い、州長官とお近づきになろうとしている貴族の方々が囲っているので、今のところ割って入る隙はなさそうだ。
だから行かなくても問題ない、と思う。そういうことにしておこう。
囲われている中で、ひときわ目立つのは異母姉の第一皇女、エレノイア=ユリカだ。
見えないものが見えるのではと感じさせる不思議な雰囲気を持つ女性。
今日は光沢のある赤金の髪を縦ロールに巻き、スカートをパニエで大きく膨らませた真っ白なドレスを着ていた。
そばにはフリルやレースを多用した黒いドレスに、ハイソックス・厚底の靴を履いたツインテールの美少女と、すらりと長身・長髪の中性的な顔立ちの男性、ではなく、男装をした女性がいた。
美少女は完全に人の形をしているが実は金華魚という魔物で、彼女もカオウと同じように魔物の姿より人の姿の方を好んでいるらしく、よくこうした人間の社交場に付き添っている。
(あとはあちらに第三皇子のシオン様と第四皇子のトール様。あら、あの人は?)
一番話しかけられたくない人が見当たらないと気づいたところで、何か不穏な、いけ好かない何かが近づいてくる気配を感じた。
「おやセイレティア。一人とはさみしいねえ」
さわやかイケメンボイスの無駄遣いをするのは、ツバキの異母兄、第二皇子フレデリック=カイトだ。
彼は毎回違う相手を同伴している。今回は豊満な肢体を持つ美女が三人、なんと三つ子のようだ。
三つ子はよほど体に自信があるのか、胸元を大きく開けたドレスを着て、クスクスと嘲笑を隠しもせず露出控えめの皇女を値踏みする。
「よく毎回下品な女ばかり連れて歩けますね」という毒を飲み込み、「第一夫人はどなた?」と言ってやりたい衝動も抑え、「一途なアルベルトの爪の垢でも煎じて飲んでみては?」と言いたくなる気持ちも静めて、「私はバルカタル帝国第三皇女セイレティア=ツバキ」と自分に言い聞かせた。
「一人で来るなんてとても勇気があるね。さすがセイレティアだ。僕は毎回一緒に行きたいという友人が多いから到底無理だよ。よかったら今度は僕の友人を貸そうか?」
はっはっはと笑い、白い歯をきらりと光らせる。
「ご縁がありましたら。それより、お連れの方のグラスが空いてますわ。お兄様の生まれた年のワインを出して差し上げては?」
引きつりそうになった口元をさり気なく手で隠し、にこりと微笑んで近くにいた給仕を呼ぶ。申し訳ないけれど後は任せてサクラはそそくさと離れた。
会場の中央では今日の主役であるジェラルドが属国の大使と談笑していた。
周りには皇妃の座につこうとする野心あふれるご令嬢たちが、早く終われと刺すような目で大使にプレッシャーをかけている。しかし大使も娘をアピールするため一向に引く気配がない。
(怖い怖い)
ジェラルドにはすでに皇后がいるが、第二子出産後病に伏せっている。立場を考えるともう一人か二人妃が欲しいところだろう。
しかしひねくれ者の皇帝はギラギラした女性が苦手だ。
あの中から選ばれることはないだろうと彼女らを憐れみながらこっそり横を通りすぎ、人目を避けるためバルコニーへ通じる扉を開けた。
ひゅうっと冷たい風が入ってくる。月と星がはっきり輝く空を見上げて、新鮮な空気を吸い込んだ。
締め付けられた体は自覚していた以上に苦しんでいたらしい。深呼吸すると軽く目眩がした。くらりとよろけ、細いヒールでは踏ん張りが利かず体が傾いていく。
遠退いていく意識の中で、倒れてドレスに傷がついたらどうしようかという考えが一瞬よぎるが、倒れた先は固い床ではなかった。
硬いけれども無機質な床ではなく温もりのある何かが体を包んでいる。
「大丈夫ですか?」
倒れた先は誰かの腕の中だった。声からして男性らしい。細いけれども程よく鍛えられた腕。
顔をあげてもしばらく視界がはっきりせず、ぼんやりと声の主を見あげる。左頬にかかった髪は細長い指に優しくとかれ、耳にかけられた。
(綺麗な目)
黒曜石のようだった。吸い込まれそうな黒。
その宝石の目元が優しく弧を描くのを見て、我に返った。
「すみません!」
慌てて起き上がろうとして、やんわり止められる。「ゆっくりで構いませんよ」と言いながら体を支えてくれた。
「中へ戻りますか? 寒くなければこちらで休まれますか?」
「こちらで結構です。ありがとうございます」
丁寧にお辞儀をすると、さらに丁寧に手をとってバルコニーに置かれていた長椅子へ誘導され、サクラが座っても男性は立ったままでいたので隣を薦めると遠慮がちに腰を下ろした。
すべての動きがスマートで、やはり高貴な方は違うなと感心していると、胸元にある紋章が目に入る。
王冠と花と盾が描かれており、どこだったかなと影武者教育で懸命に覚えた各国の紋章を記憶の底から引っ張り出した。
「サタール国の……」
確か南東にある国だったはず。
「よくご存じですね。我が国はとても小さい国なのに。さすがセイレティア様です」
優しく微笑まれる。
「私のことをご存知なのですか?」
「当然です。バルカタル帝国の皇女様を知らないわけがありません」
この国に招かれているのだ、皇帝の兄弟姉妹を知らないわけがない。失礼なことを言ってしまったと恥ずかしくなった。
クスッと笑い声が聞こえた。
「失礼。噂通りの方だったので」
噂とはなんだろう。
魔力がないとか病弱だと国内では言われているようだが、他国にもそれが伝わっているのだろうか。
小首を傾げると、
「大層お美しく可憐でいらっしゃると聞いておりました」
キザなことを言われ顔が赤くなる。
確かに主人であるツバキは綺麗だ。しかし影武者をしている身としてはおおっぴらに言えないことだ。
「そんなことは」
「気づいていましたか? 貴女に声をかけようとしてなかなか勇気が出ない男が何人もいたことを」
何人かと目があっても話しかけられなかったことを思い出す。
「それは、州長官ではないので敬遠していたのでしょう」
「いいえ。とても魅力的だからですよ」
また歯が浮くようなことを。本物のツバキだったらどんな反応をするかわからず、赤面してうつむくことしかできない。
このままいてはダメな気がする。
ちょうど、室内でささやかに流れていた音楽が華やかな曲調に切り替わった。ダンスの時間だ。しかしこの衣装で踊る自信はない。
「ごめんなさい。気分が優れないので部屋へ帰ります」
「お送りしましょう」
「大丈夫ですから」
顔が上げられない。
(私はセイレティア=ツバキ。サクラじゃない)
転ばないように、主人のように優雅に、でも急いで。
「待って」
手を捕まえられる。本当にもう行かなければ。先程とは違う息苦しさに襲われる。
「私はシルヴァン・カサル・シーフォンス。今日は会えてよかった」
何も言わず、振りほどくように手を離し、サクラはその場を後にした。




