浄化
飛び上がったギジーの長く鋭い爪が碧眼に映った瞬間、誰かに突き飛ばされた。
転倒した拍子に右足と腕を強打したが、動けないほどではない。
すぐさま駆けつけた公用護衛たちの手を借りて起き上がりながら、助けてくれた人物を振り仰ぐ。
「ライオネル兄様……?」
そんなわけがない、と思った。
兄が助けてくれるなど。
ではなぜ、ツバキがいた場所に彼が立っているのだろう。
なぜ服は切り裂かれたように破れ、背中に赤い線が描かれているのだろう。
「……血?」
「ギジー止まれ!」
トキツの叫び声ではっとする。
ギジーはトキツの鎖に足を取られて転倒していた。
引っ張られてもなお、獲物へ食らいつこうとする獰猛な野獣のように殺気立った目で涎を垂らし、目の前にいるライオネルを殺そうともがいている。長い爪が地面を抉り、足首に鎖が食い込み、血が滴り落ちても止まる気配はない。
ライオネルが剣を構えた。
「だ、だめ!」
「近づいてはいけません!」
止めようとしたツバキの前に護衛が立ちふさがり、ギジーが見えなくなった。
見えたのは、剣を振り上げるライオネルの姿。
ギジーが兄に殺される――。
焦燥感が体中を駆け巡った。
「やめてえええ!」
目を固く閉じて力の限り叫んだ瞬間、体の芯から魔力が突き抜けていくような感覚がした。
ゆっくり目を開けたツバキはすぐに状況が理解できなかった。
広場にいた全員が止まっていたのだ。
魔物だけでなく、人も。
仲間同士で争う声は一瞬で静まり、剣を交える態勢のまま動かない。時が止まったようだったが、負傷した傷口から流れる血がそうではないと示している。
「私……が?」
〈ツバキ〉
困惑するツバキの頭の中にカオウの思念が届く。
カオウももれなく止まっていたが、ツバキの力から自力で抜け出すと瞬間移動してきた。
「無茶しすぎだ。そんなんじゃすぐバテちまうぞ」
指摘通り、ツバキは魔力がじわじわと消費されていくのを感じていた。これほど一度に大勢、しかも魔物だけでなく人間を操るのは初めてだ。始祖の森へ行ってから魔力が増えたとはいえ、いつまでもつかわからない。
「でも、解いたらまたみんなが争うことになるわ」
広場には人魔物合わせて八十名ほどいたが、早くも十五名が息絶えていた。動き出せば犠牲者が増えるのは容易に想像できる。
「魔力の範囲を調整すればいいだろ。今のツバキなら落ち着いてやれば大丈夫だ」
カオウはツバキよりツバキの力量を把握している。
ツバキは深呼吸してから、操る範囲を少しずつ狭め始めた。
まずは近くにいる護衛二人とライオネル、トキツ。それから従者やテヒロイ、他の首長たちと、誰が正気で誰がそうでないかカオウと見定めながら、魔力訓練で使うクディルを操るように慎重に調整していく。
ある程度絞れて一息ついたところで、ライオネルの視線に気づいた。
「あ…………」
驚愕と疑念が混ざったような兄の眼差しに怯む。
ライオネルの方も手で口を覆って妹から目を逸らす。
説明することもできず、聞かれることもなく、気まずい空気が流れる。
それを破ったのはトキツの悲痛な叫び。
「ギジーしっかりしろ!」
ギジーは地に伏せたままだった。鎖で擦り切れた足首から血溜まりが広がり、脂汗も流れ顔色が非常に悪い。
傷を治そうとしたトキツの腕をカオウが掴んで止める。
「今魔力与えたら逆効果だ」
「黙って見てろって言うのか!?」
カオウの手を振り払い、胸ぐらを掴むトキツ。
ツバキは彼らのそばへ駆け寄った。
「逆効果って?」
「ギジーの中に妖魔が……正確に言うと妖魔になる前の邪気がいる。邪気は人や魔物に寄生して魔力を吸い、実体化したら宿主の体から妖魔が出てくるんだ。魔力与えたら実体化が早まっちまう」
「追い出す方法はないの?」
「自我が邪気に勝てば。でも今のギジーは完全に自我を失ってるから難しいと思う。仮に追い出せたとしたって、問題は他にもあるんだ。邪気は俺たちには見えないから、さっきみたいに他のやつに乗り換えるだけ。魔力をある程度吸ってれば見えるようになるらしいけど、実体はないから普通の剣じゃ斬れない」
二人の会話を聞いていたトキツの顔は憐れなほど真っ青だ。
邪気を追い出すことはできず、かといってこのまま放置しても魔力を吸いつくされて死ぬ。
「そんな……ギジー……」
トキツの震える声。
胸がチクリとしたカオウはツバキに思念で語りかけた。
〈ギジーが自分で邪気を追い払うように操れるか。出てきた邪気がもし見えたら、俺があの宝剣で斬る〉
〈で、でも、他の人たちの動きを止めたまま、ギジーだけ違う動作を命じるなんて、私にできるか……〉
クディルごとに違う動きをさせる訓練は以前より進歩しているが、まだ成功率は高くない。今の状況で一か八かの賭けに出るのは無謀すぎる。
カオウもそれはわかっているはずだ。
もっと確実な方法がないか考え込むと、ツバキの体内でアクアヴィテがぞろりと動く感覚がした。
"まったく。なぜワタシを頼らんのだ"
「助けられるの?」
"水があれば聖水に変えてやろう。お前は触れるだけでいい"
「あなたなら水自体作れるのではないの?」
"言っただろう、負担がかかると。アーサルの中でもああだったのだ。こんな霊力がほとんどない場所で水を生めば死ぬぞ”
「……なら、魔法で……」
ツバキは伏し目がちに呟く。
水魔法の使い手に心当たりがあるにはあるが、相手はライオネルだった。
ツバキの言うことに素直に応じると思えないが、他の者を探す時間はない。
ライオネルの前に跪いた。
「魔法で水を出していただけますか」
「…………」
ライオネルは怪訝そうにツバキを見下ろした。
「聖水を作りたいのです。ギジーを、皆を助けられるかもしれません」
臆しながらも兄から目を逸らさないように気持ちを強く持つ。
ライオネルはさらに顔をしかめた。
「皇族が簡単に膝をつくな」
冷たく言い放ったライオネルだったが、ツバキがぎこちなく立ち上がるのを待ってから左手を広げた。手よりやや大きな球状の水を一瞬で作り上げる。
「これで良いか」
ツンとした言い方は変わらない。
けれどもツバキの頼みを無視しなかったことに胸が詰まる。
緊張しながら「触れても壊れませんか」と聞けば、「そうしたければ」と返り、たったそれだけの会話に目が潤んだ。
〈ツバキ。集中してないと〉
まだ魔力を使っている最中だ。気を引き締め、ギジーが水を飲めるよう首から上だけ拘束を解く。やはりギジーだけでなく他にも動いてしまった者が数名いたが、首ならば問題ないだろう。
はやる気持ちを抑えて深呼吸してから、そっと兄が作った水に触れる。
"魔法で作った水にしては良い水だな"
アクアヴィテの声がしたあと、触れた箇所が純白に光った。光は水全体に行き渡ると消えてしまったが、先程より澄んでいる気がした。
「これをギジーに飲ませてください」
ライオネルはうつ伏せのギジーに目をやる。
この姿勢では飲めないだろうと動いたトキツをカオウが手で制した。魔力を吸われてしまう可能性があるからだが、何もできない自分が悔しいのか、トキツは下唇を噛む。
カオウは彼の肩をポンと叩いてからギジーを仰向けにし、上半身を起こした。白目を向き、呼吸するたび苦しそうな音がする。
ライオネルの手にあった球状の水がゆっくりとギジーの前に移動した。
小さく分離して細長く形を変えた水が口の中へ入っていくが、飲む力がないらしく、すべて流れ落ちてしまう。
トキツが必死に語りかける。
「ギジー聞こえるか。つらいだろうが、飲んでくれ。飲まないと死んじまうぞ。まだやりたいこといっぱいあるだろ。……じいさんより長く一緒にいるって約束したじゃないか。まだ半分も経ってない。ギジーがいないと、俺は……。頼む……」
ギジーの耳がピクッと動いた。
『グ……ギギ……』
苦しそうにうめくギジー。
『アグ…………ガ…………』
ギジーの頬に涙が伝った。
それを合図に、ライオネルがスプーン一杯分ほどの聖水を流す。
ギジーの喉が動いた。
少しずつ増やされる聖水を、コクリコクリとゆっくり飲み込んでいく。
『うう……。トキツゥ……』
ギジーのいつもの声。
トキツは腰が抜けたようにへたり込んだ。
カオウはギジーをひょいと持ち上げると、動けそうにないトキツの元へポイッと投げる。
トキツは落ちてきたギジーを強く抱きしめた。
「よかった……本当に。よかった」
魔力を分けてもらい、足首の怪我が治ったギジーは『ふい〜』と甘える。
ポンポンと優しくその背を叩いたトキツはもう一度安堵の息を吐くと、ギジーを横に座らせた。
「自分が何やったか覚えてるか?」
『うんにゃ。気づいたら体中が痛くてよぉ』
「そうか」
トキツは神妙な顔で頷くと、ライオネルとツバキの方を向いて平伏した。
「ギジーを助けてくださりありがとうございました。それから……申し訳ございません」
「トキツさん、頭を上げて」
ツバキの言葉に首を振る。
「授印の罪は俺の罪です。いかなる処罰もお受けします」
操られていたとはいえ、皇族に傷を負わせたのだ。命をもって償うことになってもおかしくはない。
ライオネルは、狼狽えるギジーを横目に見てから口を開いた。
「陛下から妖魔について聞いてはいたが、邪気がこれほどの事態を起こすと予想できなかった。ゆえにこちらの落ち度だ。そなたが謝ることではない」
州長官の態度にトキツは面食らう。
トキツ自身も邪気が妖魔になることや、魔力を吸い取るために体に憑くことも知っていたが、このタイミングで現れると予想できなかった。そもそも、妖魔に関する情報が少ないだけでなく、準備時間も限られていた中、万全な対策などできるわけがない。にも関わらず、ライオネルは自分に非があると考えた。責任感が強く、誠実な人物なのだろう。
また、水魔法を操る技術力は驚くべきものだった。水を出す魔法自体は珍しくはないが、放出はできても瞬時に生み出した水を塊で留められる者はそうそういない。しかもまったく揺らぎのない球状は初めて見た。分離させた部分だけを自由自在に操るのも高度な技だ。
トキツはライオネルの人柄と技術力に感服した。ギジーの様子に合わせて量を調整してくれたときはその気遣いに惚れそうになった。それから本当に命で償うことにならなくてよかったと心底ほっとした。
「他の者たちも元に戻さねば」
ライオネルがちらとツバキを見たそのとき、獣の叫び声が聞こえた。
『グワアアアア!』
ツバキたちは一斉に振り向く。
叫んだのは大型犬の魔物だった。
背から赤黒い血が噴き出る。
いや、血ではなかった。
孵化するように、魔物の背を引き裂いて赤黒い塊が現れたのだ。
犬の形をした赤黒いそれは、大口を開けて近くにいた人間の腹を食い破った。
「ひっ」
ツバキは叫びそうになった口を両手で押さえた。
舌打ちしたカオウが宝剣を抜き、素早く瞬間移動してその赤黒い物体を斬る。斬った瞬間、物体はぐちゃりと泥が落ちるような音をたてて地面を赤黒く汚した。
あっけなく退治できたが安心はできない。一つ実体化したということは、他もそうなるということだ。
「早く浄化――」
背後に異様な気を感じ取り、言葉を切る。
振り返ったのとほぼ同時に、上空で島の周辺を見張っていた女性兵士が猛スピードで降りてきた。
「州長官!」
兵士は大鳥の魔物の背から降りると、息も絶え絶えに恐ろしいものを見たような表情でライオネルに跪く。
「南東の方角から……魔物ではない、奇妙な生き物が……大勢こちらに向かってきます」
「なんだと」
ライオネルは咄嗟にカオウを見た。
カオウは無言で頷く。
妖魔が来たのだ。
実体化したばかりの軟弱な妖魔ではなく、結界の綻びから現れた、火の精霊が恐れていた妖魔が。
今まで名前もセリフもなかった護衛の一人がついにしゃべった回でした。名前はまだない。