認めてしまったら 1
「あーもう、やめたやめた! 辛気臭いったらない」
いきなりレオが髪を掻きむしった。
燃えるような赤い髪がボサボサになり、ツバキは目を丸くする。
「どうしたの急に」
きょとんと首を傾げると、レオに別人を見るような目を向けられる。
「お前さっきの、素か?」
「さっき?」
「いや、いい」
苦笑される理由がわからないツバキはむっとした。
「何なの。許さないって言ったのが、そんなにおかしい?」
「いいや、許せなくて当然だ。俺も許してほしいわけじゃない……お前には」
レオは哀しそうに微笑するが、ツバキにとっては不思議なことに、さほど苦しそうではなかった。
そして大きく伸びをすると、再び椅子にもたれかかり行儀悪く片足を膝に乗せる。
「やめるよ。ツバキを売るのは」
「えーっと。それは嬉しいけれど、いいの?」
「言ったろ、最後の切り札だって」
「何をする気?」
レオは心配するなというように二ッと笑う。
「あわよくばバルカタルに、ウイディラを倒してもらおうとしたんだ」
「え!?」
「ウイディラの前の王はどういうわけかバルカタルに執着していた。だからファウロスは王になるためにケデウムを狙った。だがな、一時奪えたとしてもすぐに奪い返されることくらい、バルカタルの魔力の高さを知る者ならわかる」
「レオはそれを知っていながら、協力していたの?」
「どれだけ優れた武器を使ったって魔法には負ける。リロイを征服できたことでファウロスは安易に考えているけどな」
「でも、さすがにウイディラなんて……」
「確かにケデウムを狙うだけじゃわざわざダブロン山脈の反対まで来るとは思えないが、皇女を誘拐したとなれば話は別だ。少なくとも、ファウロスの命はない」
「それならなおさら私はその人のところへいなきゃいけないんじゃないの?」
「なんだよ会いたいのか? 言っておくが、俺と違って醜男だぞ」
自信たっぷりにレオは笑う。
「そうじゃなくて。実際に誘拐したのはレオでしょう」
「元々俺はバルカタルで指名手配されている。それを逆手に取って、俺のことを本気で調べれば黒幕はファウロスだとわかる証拠を残してきた。もちろん本人がいなきゃ有耶無耶にされるかもしれないが……それはもう……」
語尾を弱めたレオの目は優しかった。
そこに敵意は完全にないはずなのに、どうしてかツバキの心中は穏やかにならない。
きっと暖炉の火の揺らめきが視界に入っているせいだと思った。
柔らかに細められた鳶色の瞳に見つめられているせいではなく。
パチッと暖炉の薪が爆ぜた。
視線を外し、どんよりとした雲が果てしなく広がる空を見つめる。
あの空が降らすのは、雨か、雪か。
「……知っているか」
思い出を語り始めるような低い声が沈黙を破る。
「極東の国では、魔法なんて絵物語だ」
興味を惹かれて再び前を向くと、彼もぼんやりと外を眺めていた。
「人には魔力なんてないし、魔物もいない」
「見えないわけじゃなくて?」
「存在しないんだ。人に魔力がなくなったのが先か、魔物がいなくなったのが先かは不明だがな」
「昔はあったってこと?」
「そう聞いてる。きっかけは、大きな戦がなくなったからだ。魔法を必要としなくなり、道具を頼るようになった。
その頃には東の国も魔法は使わなくなってきたから、優れた道具は海を渡ってあっという間に広がり、やがて東の国でも競うように次々発明されるようになった。
そしてそれはウイディラも他国も同様だ。……バルカタルだけが、遅れている」
「うちだけが?」
ツバキはギクリと身を強ばらせた。
「さっきカメラを怖がったツバキがいい例だ。魔法が身近にありすぎて、不可思議なことも魔法と言われたら納得できてしまうだろ。だから科学や発明の類が遅れている。今はまだ魔法の方が優位だが、いつか通用しなくなる日が来る。その波に乗れなければ、バルカタルも滅ぶ」
「…………」
ツバキは手元へ視線を落とした。
バルカタルも父親の代で戦をやめ、魔力を必要としない道具も広がり始めている。
平民の町では魔物も少なくなっていた。
もしかしたらツバキが知らないだけで、もっと前から小さな波は起きているのかもしれない。
考え込んでいたツバキの髪にレオが触れた。
手前に引き寄せた長い指の隙間から、白銀色の髪がさらりと流れる。
「さて。そろそろ逃げないとな」
触れられた箇所を撫で直していたツバキは、驚いてレオを凝視した。
「明日までに皇女が来なければ、ファウロスはここへ兵士を差し向けるだろう」
「どこへ逃げる気?」
「ひとまず東かな。能力で姿を変えながら、のんびり旅をするつもりだ」
レオは逃亡者とは思えぬほど、期待で顔を輝かせていた。
彼はこれから、過去のしがらみから逃れ、何にも囚われず、自由に生きるつもりなのだろう。
「ツバキも来い。東の国にはバルカタルにはない珍しいものがたくさんある。面白いぞ」
ドクン、とツバキの胸が苦しいほど痛んだ。
かつて、似たようなことを言ってくれた人がいた。
約束通り、帝都のモルビシィア(貴族の街)しか知らなかった皇女を、レイシィア(平民の街)へ連れ出してくれた。
決して上品ではないが活気のある街を二人で歩き回り、皇女のままでは眉をひそめられるようなことも、自由にさせてくれた。
それまでのツバキにとっては冒険のような日々を共に過ごした人。
いつまでも一緒にいるのだと信じていた人。
一緒にいてはいけない──魔物。
「私は、サタール国へ嫁ぐから」
自分でも信じられないほど正当な答えが口をついて出た。
「バルカタルとサタールを結び、東の国との橋渡しもする。とても重要な役目を担っているの。もうすぐ婚約パーティーも控えている。だから、早く城へ帰らなくちゃ。皇女だもの、私」
空っぽの箱に詰め込むように、言葉を吐き出していく。
胸が痛むのは気のせい。
泣きそうになっているのも気のせい。
いっぱいになった箱の蓋を閉じるように、感情を押し込める。
「本当に結婚できるのか」
「しなくちゃいけないの」
「できるのかと聞いてる」
「あなたに関係ないでしょ!」
カッとなって大声で叫ぶ。
一つの感情に気を取られていたせいで、苛立ちが抑えきれなかった。
睨むツバキとは対照的に、レオの目は冷ややかだった。
「無意識だろ、それ」
視線がツバキの手首へ移る。
「ずっと握りしめてる」
ツバキははっとして左手首を見た。
彼がくれたブレスレット。
よほど強く握っていたのだろう。右手を離すと、皮膚に痕が残っていた。
「あいつにもらったんだっけ」
「!!」
ガタン、と椅子が倒れた。
立ち上がったツバキが感情を押し殺してレオを見下ろす。
「私を売る気がないなら、早くバルカタルへ帰して」
「売るのはやめたが、解放するとは言っていない」
見上げてきたレオの目は刺すように鋭かった。
逃げようと踏み出したが、瞬時に手を掴まれる。
ちょうど、ブレスレットがある位置。
ドクッと心臓が跳ねる。
「は、離して!」
「必要ないだろ」
レオがブレスレットと手首の間に指を通す。
「やめて!」
鈍痛とともにブツッと音がした。