世界を終わらせるその前に、花の香りの抱擁を
「花の香りの口づけを」と同じ大陸、かなり昔。
「口づけを」の方が満足いったできなのでよろしければそちらも。
昔々のそのまた昔、とある大陸に神子と呼ばれた少年がいました。大地の神に愛された神子さまは、とても珍しいことに人の姿と木の姿を持っていらっしゃいました。神子さまの木の姿が実らせる果実はどんなに難しい病でもたちどころに癒してしまいました。まさに神様の御子のような奇跡に、人々は神子さまに感謝し、神子さまのために神殿を建てて奉りました。
「お早うございます神子さま。」
ああ、今日も朝がやってきた。
暖かな陽射しがぼくにあたり、冷たい眼差しがぼくを睨みつける。
「どういうことでしょうか、神子さま。本日の収穫は5つ以上のはずですが。このままでは…」
神官の言葉にないはずの心臓がちぢみあがった。
がんばんなきゃ、がんばんなきゃ、ぼくが頑張らないと、あの子が。
全損に力を込めて、お願いする。
かみさま、かみさま、あの子を助けるために、もう1つだけ、もう1つだけ、どうかぼくに実りを
かみさま、かみさま、大地のかみさま、どうかぼくの愛しいあの子を助けてください、かみさま
頑張って頑張って、根からお水を飲んで、うんと手を伸ばして陽に縋る。
もちろんぼくの背丈じゃ陽には届かないけど、届け届けって毎日背伸びをする。
「ああ、神子さまその調子です。5つあれば神子さまの大切なお姫様は助かるのです」
みれば、ぼくの1番高い腕にまだ青くてちっちゃいけど、確かに新たな実がなっていた。
もっともっとと体を伸ばす。
うんとうんと、太陽の光を体いっぱいに浴びる。
そしてぼくは今日もまた、5つの実を実らせて君を守ることに成功した。
「いいですか、お姫様。あなた様が陽の紋様を読み解けば、悪い人に連れ去られてしまったあのお方が見つかる可能性がどんどん上がっていくのです。」
「いやよ!何度そう言ったのよ!もう5年だわ。5年も経ったのよ!なのにあたしはあの子に会えないし、あの子もあたしに会いに来てくれない!こんなのっておかしいわ、こんなのって、こんなのって絶対に違うわ!」
白銀の髪を振り乱して、蒼穹の瞳に涙を浮かべて、少女は大人たちに食ってかかった。
黙って動かなければとため息をつかれる美貌と、それには反する言動の落差に今日も目付け役の人々はため息をついた。
大人たちが少女の言動にうんざりするのと同じくらい、少女だって大人たちの言動にうんざりしていた。
だっておかしいじゃない⁈あたしが陽の紋様をここで読み解けば、あの子と会えるって言ったのに!あの子が会いに来てくれるっていったのに!最初の一年は頑張ったわ。次の一年はもっと頑張ったわ。その次の一年は抗議したわ。そして今年は、今年こそはって思ってたのにまだ何も分からないって、おかしいでしょ!
「もういい!わけわからないお絵描きをしてる暇があったら自分で探しに行くから!あたしの邪魔しないでよね!」
嫌い、嫌いよ。
こんな怖い場所で5年も我慢したのに、何もわからない、もっと陽の紋様をの一点張り。
あんなに暗い穴にせり出すこんなに細いベランダなんかで、意味もない絵を描き続けろ?
「馬鹿にするにもほどがある!」
「お姫様、本気ですか?」
「本気って言ってるでしょ⁈どきなさい!」
あたしの大切な幼馴染。
あたしがいなきゃ何もできない泣き虫な子。
あたしを守ろうと必死になる強情な子。
馬鹿よ、あの子は本当に馬鹿。
大地の神様に愛されて、あの子が得たのは木の姿。
木の姿になった理由が、陽の光が痛いのを我慢するあたしを日陰に隠すためで?万病を癒す実がなるのは、陽の光に灼かれてる私を癒すため?
馬鹿よ、馬鹿、本当に馬鹿なんだから。
そんな珍しい力なんていらないのに。あんたが傍にいてくれるだけで良かったのに。
そんな力なんて持っちゃったら、一緒にいられなくなることくらい考えなさいよ。
本末転倒ってまさにこのことよ。
なんであたしを守りたいとか言ってたくせにいなくなっちゃうのよ。
あたしを傷つけてどうするのよ。
「どきなさいってば!あたしはあの子を探しに行くの、もうくだらないお絵描きなんか…!」
甘い、香り。
優しい、匂い。
この香りを、あたしは知っている。
「お姫様、もう一度聞きます。本気ですか?」
なんで、なんであんたたちが。
「なんであの子の実を持ってるの!!!」
淡い桃色に色づく、可愛い木の実。
あたしよりよっぽど可愛いあの子にそっくりな、見た目も匂いも力も、優しい果実。
「あの子はどこ!おかしいと思ってたわよ、あたしはここに連れてこられてから一度も大地を踏んでないわ!いつだってこの白いベランダに閉じ込められてた!海でもない、大地でもない、あたしもあの子も愛されてない空にあたしは縛り付けられてた!」
あの子が生きていることはわかる。
あの子が水に触れている限り、あたしはあの子の生死くらいなら分かる。
そしてあたしが大地に触れていて、あの子が水に触れていれば、あたしたちは絶対に、いつだって互いを見つけられた。
「騙していたのね!あの子を水からも大地からも離して、そしてあたしを騙したのよ!あの子はどこ、あの子に何をさせてるの!」
「お姫様、今日の分の陽の紋様をお渡しください。」
陽の光が肌を灼く。
暗い穴があたしを脅かす。
黒と白の恐ろしい世界が、あたしの呼吸を奪う。
あたしもあの子は、大地と水にいる限り、絶対に相手を見つけられたのに。
今のあの子は、なんでこんなにも存在感が薄い。
「いやよ、いやよいやよいやよ!あの子はどこ、あたしのあの子はどこ!会わせて!会わせてくれないならあたしを大地に触れさせて!もう嫌っ!」
なんで、なんでよ。
その果実はあたしのためのものなんでしょう?
あたしのためだけに実らせるんでしょう?
ねえ、あたしの綺麗で可愛い幼馴染。
あたしの大好きな、あたしを大好きな幼馴染は、今どこにいるのよ。
泣いてるのよ?この私が泣いてるの。
なんでここに来ないのよ。
来てほしくない時はすぐに駆けつけるくせに。
あたし、まだあんたのこと許してないのよ?
あたしが水浴びをしている時に飛び込んできたことも、あたしが大切にしていた硝子ペンを壊しちゃったことも。
ねえ、あなたやっぱり馬鹿だわ、なんでキラキラの硝子ペンのお返しが黒ペンなの?目が悪いの?馬鹿よね、馬鹿なのよ。
「あなたが陽の紋様を読まないと、あなたの大切な幼馴染は斬られてしまいますよ、白ベランダのお姫様。」
「…ふふ、馬鹿みたい。」
「白ベランダのお姫様、書いてくださいますね?」
「馬鹿でしょう、書くわけないわ。」
あの子がくれた黒ペン。
光に透かせても光を湛えてくれないし、可愛い色でもないし、おしゃれな紋様が付いているわけでもない。
本当にただの黒ペン。バカバカしくなるくらい黒ペン以外の何物でもないペン。
あの子が私に残した、形に残った思い出のたった2つのうちの1つ。
「あの子を、脅しているのね?あたしが陽の光に灼かれて死にそうだとでも言った?それで果実を作らせているのね?」
大丈夫、大丈夫なはずなの。
あんたが好きよ。好き、大好き。
あんたはあたしがいないとほんとうにダメなんだから。
優しくて馬鹿なあんたはあっさり騙されちゃったのね。
「あたしが書いていた陽の紋様にはあの子の居場所が書いてない?そんなわけなかった。そんなことする必要だってなかった。あの子は生きている限り必ず水を飲むわ。あたしは生きている限り必ず大地を踏むわ。あたしもあの子は繋がってた。あんたたちにすがる必要なんてなかったのよ。」
大人たちの目が険しくなる。じりじりと、じりじりと、大人たちの方位が狭まる。
馬鹿、馬鹿よね。あたしも馬鹿だわ。
あんたが連れてかれてびっくりして、ちゃんと考えられなくなるなんて一生の不覚。
「ここが、海なんでしょ?あたしを愛した海の神の海なんでしょ?」
迫る大人たちからゆっくりと間をとる。
怖い、怖いわ。それでも、それでもあたしは。
「あの子の世話をするのはあたしよ!あの子の世話になんか、なってたまるか!」
そしてあたしは、暗い暗い穴の中へと身を投げた。
ぼくが生まれたのは海と他との間に黒々と横たわる森にほど近い小さな集落でした。
集落に住まう人々は、森の恵みを獣たちと分け合い、大地に寄り添って暮らす典型的な大地の神の信者で、他者も一族もこの大地に住まう者すべてを兄弟として受け入れました。
ぼくの母は気立ての良い美しい方だったと聞いています。夫と両親を早くに亡くし、老いた祖母…ぼくにのとっての曽祖母とぼくとを1人で世話する母に、集落の人たちはことさらに目をかけてくださっていたそうです。
大地の神は誰をも受け入れる。
大地に寄り添って生きてきた集落は、そこに流れ着いた1人の男もまた、いつものように丁重にもてなし迎え入れました。
そして、幼いながらもすでに大地の神に愛された者の常として動物に囲まれていたぼくを連れ去ろうとしたのだと言います。
母と曽祖母は男を退けようとして命を落とし、集落の若い衆も何人か、重軽傷を負ったそうです。
森から誇り高き兄弟である狼たちが助太刀に現れていなかったらぼくは奪われていたでしょう。
しかし、ぼくはぼく自身こそ奪われずとも、ぼくの望みは奪われてしまったのです。
母と曽祖母が殺されたのはぼくが3歳の時。突然いなくなった庇護者を求めて森を彷徨うぼくを守ってくれた狼たちは、獣としての生き方や愛し方は教えてくれましたが、人としての在り方は教えてくれませんでした。
狼たちにとって敬愛する大地の神に愛されたぼくを守るのは当然でした。そして同時に、ぼくを生き残らせるために、自分たちの在り方を教えるのもまた、当然だったのです。
なにかから逃げるように、1組の家族が集落を訪れたのはぼくが5歳、立派な小狼になった頃の話でした。
ぼくにとって集落はぼくが守るべき巣であり、集落の人々はぼくを庇護し育ててくれた群れの一部でした。
そして、そんな群れに紛れこもうとする異質な生き物は群れを脅かす敵であると、狼たちの教えも、幼き日の遠い本能もぼくにそう囁きかけました。
小さな影を連れて、疲れ切った大人2人が警戒する集落の、大切な群れの仲間の近くに来た時、ぼくは狼を連れて飛び出しました。
ぼくは真っ先に小柄な影を確保し、狼たちは2人の大人の方へと牙を剥きました。
そして、腕の中にすっぽりと収まった影に、ぼくは痛烈な張り手をいただきました。
反射的に噛みつこうとしたぼくの口に、その影はなんと己の腕を噛ませてこう言いました。
「おおかみとはかしこきけものではなかったの?てきかみかたもしらぬままにきばをむくなんてそこらのだけんとかわらないじゃない。ばかなのね、あんた。」
フードをすっぽりとかぶる少女の瞳は、明らかなる侮蔑の色が強く、ぼくを憐れむ色も、慕う色も欠片もありませんでした。
広大なる大空のような蒼穹と、月の光を集めたかのような白銀の髪。美貌の少女にぼくは瞠目しました。
口の中に鉄の味が広がった時、ぼくはようやく口を離そうとしました。
しかし、彼女はそれを許さなかったのです。
「これがちのあじよ。おぼえなさい。このにおいはいたみのにおい、このあじはいたみのあじ、このいろはいたみのいろ、このいろはあなたのおろかさのあかしなの。」
ぐいぐいと傷口の広がるのも構わずぼくの歯に腕を押し付ける少女に、呆然としていた周りの人々は慌ててぼくと彼女を引き離しました。
傲慢で強引な少女と、狼に育てられたぼくの出会いは、そんな鉄の匂いと味と色をぼくの脳に叩きつけることから始まりました。
「は⁈どういうことだ!白ベランダのお姫様を追い詰めた挙句祭壇の夜でもないのに海に落としただと⁈」
白ベランダのお姫様。
白く眩く輝きその御尊顔を只人には見せない高貴な陽の神の思いを唯一読み解く存在。
世界の未来を知る陽の神が、唯一その未来の欠片を与える少女。
美しい海の色をした歴代の少女たちは、陽の紋様を読み続け、読めなくなってきたところで祭壇の夜に白銀の海に捧げられるのが風習だった。
今代の白ベランダのお姫様はとても優秀で、かつてないほどの紋様を読み解き海の民の立ち回りをたすけてきたというのに。
「あれに感づかせるとは…言っただろう。あれは人ではなく獣に育てられて育ったのだと。美しき海にお伺いを立てろ。生きているならどうあってもこの白いベランダで陽を読み続けてもらわねば…」
男は焦っていた。
大地に根ざす木の姿を持つ、狼の群れに育てられた少年と、海の色の姿を持つ人の形をした狼に育てられた少女。
自分の力のせいで大切なものをなくした子供達。
どこまでも似通っていてどこまでも違うあの2人は、互いに執着し合っていた。
少年は大地に触れる少女の足跡を常に感じていたし、少女は少年の口にする水から少年の鼓動を聞いていた。
水からも、大地からも離して漸くあの高慢なお姫様は男のものになったはずなのに。
なのになのになのになのに、なのにまたあのお姫様は男の手をすり抜ける。
愛おしい少女。海の美貌と海ほどに深い矜持を持つ強引で傲慢なる愛おしい少女。
「捕まえろ、捕まえて俺の前に引き摺り出せ。それがダメなら殺して首だけもってこい。」
男が睨むのは、遥かなる蒼穹。
身体中がズキズキと痛んだ。
そこはかとなく霧に霞んだ思考を無理やりに明瞭化させてみれば、少年の樹皮の一部が無残にも剥がされていた。
はっぱの一部など枝ごと切られているし、深く体内に差し込まれた黒鉄からは樹液がポタリポタリと器に流れ落ちている。
ーぼくは、いつから彼女を探さなくなったのだろう。
大地に意識を集中させようにも、勝手に自身から湧き上がる歌がその集中力を霧散させてしまう。
かまさま、かみさま、大地の神様
どうかあの子をお救いください
どうかあの子をおたすけ下さい
陽に灼かれて苦悶するあの子に
付けねらう輩に傷つけられて怯えるあの子に
どうか優しい微睡みを、楽しい人生を
どうかかみさま、彼女をおたすけ下さい。
「神子さま。起きられていますか?果実が足りませんよ。今日のノルマはあと3つです。できますね?」
あと、3つ。
ここに来た当初は1週間で1つだったところを今では1日に8個必要になってきていた。
おまけに樹皮も、樹液も、葉も、根も、若芽の芽吹いたばかりの枝ですら、神官たちはぼくから根こそぎ剥ぎ取っていく。
何を間違えたのだろう、どこを間違えたのだろう。
いつからぼくたちは狂った道に進んでしまったの?
あの子への想いだけが、まだぼくが持ち続けているぼくだけの物。
あの子への愛だけが、この苦しい神殿でぼくが生きることを諦めない理由。諦められない理由。
ぼくが果実を実らせ続けて、神殿がぼくを見張り続ける限り、あの子は命を永らえさせる。
あの幼き日々。ぼくを小さくさ細い体で一心に守ってくれていたあの大切な幼馴染を、今度はぼくが守る番。
ああ、かみさま、かみさま
あの子のために、あの子を守るために、
どうかぼくに実りをお与えください
どうか、どうか、ぼくに愛しいあの子を守らせて
どうか、どうか、ぼくに愛しいあの子を守らせて
かみさま、かみさま、ぼくを愛してくれるなら
あの子の命を助けてください
あたしの世界は、あたしが生まれたその瞬間からあたしの心を苛んだ。
黒と白と天上の紅で構成された世界は、陰鬱で狂気的で。あたしを愛する両親や、村の人たちの愛情を感じてなんとかあたしは死なずに済んだ。
人々が眩く白き御尊顔として敬う陽は、私には白の空に浮かぶ、蠢く赤い紋様に見えていた。
わけのわからない動きをする紋様は、黒と白とで構成された世界の中で、唯一の色だった。
みんなは言う、あたしのかみは白銀色、あたしの瞳は蒼穹の色だと。昼の大空のような、海のような色を持った美しい子供だと。色とりどりの花の咲き乱れるお花畑で、うさぎや鹿に囲まれて、なんと可愛らしいお姫様かと。
青?黄色?緑?桃色?紫色?オレンジ色?茶色?藍色?クリーム色?山吹き色?黄緑色?
知らない、あたしは知らない。
あたしの世界にあるのは、黒と白で作れる色と、天上に蠢きあたしを灼き苛む陽の紋様だけなのだ。
皆の褒めそやす白銀は、あたしにとってはただの白。
皆の褒めそやす蒼穹は、あたしにとってはただの灰色。
人々はあたしを美しいというけど、あたしは美しいと感じたことなんて一度もない。
淡白で単純で、荒涼としたこんな世界を、どうして愛することができるっていうんだろう。
人々の賞賛と愛情を受け止めて、それでもあたしはその愛に愛を返すことはできなかった。
あたしの知らない色を知るみんなが羨ましくて、妬ましくて
あたしには一生理解できない世界を持つみんなが、あたしだけが理解できない世界を持つみんなが、どうして愛せるっていうんだろう。
この色のない世界を生きているあたしが、色の溢れた世界に生きるみんなを愛せないのは、愛を返せないのは、とても悲しいことで、悔しいことで。
いつしかあたしはみんなの顔を覚えることをやめた。
黒と白で構成された単純な人々を覚えるのをやめれば、あたしの世界はさらに淡白にあたしにのしかかってきた。
重苦しい世界の中で、あたしはたった1人で空の紅を眺めていた。
「これが、神子の果実か。」
最初にそれを見たとき、男は無性に叩き潰したいという衝動に襲われた。淡い桃色で芳醇な香りを放つ果実はどこまでも優しく清らかな存在だった。
まるで純真な子供の幼い恋心を形にしたかのような、カンに触る可愛らしい果実。
万病を癒し、体の欠損ですら治るというその果実は今や誰もが切望する手の届く奇跡となっていた。
当初は1週間にひとつという品薄さであったが、今はもう1日に何人もがその奇跡の恩恵を受けていた。最近になって飲めば長寿の約束される樹液や、どんな攻撃も退ける樹皮、どんな毒も打ち消す葉っぱに持っているだけで厄災を退ける枝など神子さまの奇跡は大陸中に溢れかえっていた。
神子さまと呼ばれる木が、最愛の幼馴染を守るために身を切り売りしている幼い少年だと知るものはほんのわずか。
人々は神子さまを木だと思い込み、次を次をと貪欲に求めている。
それに応じて神殿は神子を追い詰め、莫大な富を築いているそうな。
「海の少女は海へと還った。陽の文様は1ヶ月分。紋様の予言が切れた時にはまあ、神子の警備は整うか。」
陽の紋様は神子を狙う者たちの来る時間や人数を教え、神子を育てていた狼を含めた襲撃者を退ける助けとなっていた。
陽の紋様は、海の少女に海の神の思いを伝える。
だからなのか、陽の紋様は海の少女が逃げ出すことを、海に身を投げることを教えなかった。
海の少女が海へと消えて早1年。男は未だに海の少女を捕まえられず、かといって死は考えていなかった。
「今度こそ、今度こそ、その瞳に、俺の姿を。」
見上げた蒼穹はどこまでも広く、平等に人々を見守っていた。
「ねえ、おこってる?」
「あたりまえでしょ。れでぃーのみずあびをのぞきみるなんてさいてい。」
泣きそうに潤んだ瞳は、やっぱり美しくて、少女は熱くなるほおを隠すように顔を背けた。
大地の神に好かれ愛された子供達は狼に守られて育つ。
少年のお目付役の狼は、海の神に愛された少女と自分の守る少年のじれったいやり取りをのんびりと見守っていた。
狼にしてみれば、水浴びなんて隠すようなことではないし、むしろみんなで遊びながらする方が楽しい。少女が怒っているのは少年の気を引きたいってことでもあるのだろうなあと、微笑ましく思う反面無性に草でも食みたくなった。
大地に愛された少年と、少年に愛された少女を襲うような獣はいないし、邪な人間が近づけば狼の群れが追い払う。追い払えなくても遠吠えでその存在を知らせてくれるだろうから、狼は暇で暇で仕方がなかった。
毛並みの艶やかな少女は、その細っこい見た目に反してなかなかに良い性格をしている。
狼好きのするさっぱりとした気高い振る舞い方は、狼に育てられた少年にとても合っていたし、何より少女は人間だった。寄り添い毛づくろいをすることしかできない狼ではなく、少女は自由な四肢を持っていたし、雄弁に心情を伝えられる言葉を持っていた。
「…ぼ、ぼくのこと、きらいに、なる?」
「…あのねえ、こんなことできらいになるわけないでしょ。なくのはいいわ。かなしくなるのもゆるしてあげる。でもね、あたしはあんたのことがすきなの。そのおもいをうたがうなんて、とってもとってもしつれいだわ。」
顔を背けていた少女の頬は赤かった。
花の咲き乱れる森の中、少女はいつものように少年と抱擁を交わす。
世界にひとりぼっちだった2人の神に愛された幼子は、抱きしめて、抱きしめられて、それでもなお心細そうな顔をしていた。
狼にはよくわからない。
色を持たない少女が、少年以外を群れと認めないのに少年にも一線を引いていることも。
狼の群れでありながら狼にも人にもなりきれなかった少年が、少女の愛を信じないことも。
狼にはよくわからない。
それでも、狼は幼い2人が好きだった。
気に入っていたし、守りたかった。
伏せていた狼は立ち上がり、抱きしめ合う2人に体当たりする。
2人と1匹で転がれば、花の匂いが香り立つ。
少年が少女を怒らせて、少女が少年を怖がって、少年が少女の愛を疑って、そして2人は抱擁を交わす。
それが2人にとって必要なことなら、狼はそれを眺めている。
でもその後には狼は、2人に笑って欲しかった。
誰も頼る人がいないと、誰も信じきれないと心細そうな顔をする2人の愛しい子供を笑わせるために、狼はいつものように2人の子供と転げ回った。
「神子さま、神子さま。そろそろまた実りの数を増やしてみましょうか。」
大地の深くに根を張った少年は、ともすれば深い眠りに落ちてしまいそうな己を叱咤して意識を体のうちから引き上げた。
陽は中天にあり、今が昼だということをなんとなく認識して、久しぶりに太陽の暖かさを感じ取る。
そういえば、人の顔も名前も覚えない、色を知らないあの子はいつだって少年を抱きしめてくれた。
少年が間違うと、怒ったふりをして顔を背けて。
狼の冷たい艶やかな毛並みにはない、暖かて柔らかい少女の抱擁を思い出そうとして、少年はズキンとどこかが痛んだ。
今は、いつだろう。
少年が少女と引き離されてから、少年が人の姿に戻らなくなってから、一体どれほどの時が経っただろう。
少年があの優しいお花畑に行かなくなってから、少年が少女を探さなくなってから、いったいどれだけの年月が流れたのだろう。
神官に、目を転じる。
のっぺりとした、特徴のない顔。
あたりに控える世話役や、剪定役、どの顔も同じで欲に溺れた顔をしている。
わからない、記憶にない、思い出せない、何も知らない、
いつから言葉を発していなかった?
いつから深い眠りに落ち込むようになった?
いつから少女自身のことを考えなくなった?
かみさま、かみさま、お願いいたします、かみさま
祈りの声は、かみさまに乞い願うお願いは
もはや別の人格でもできたのではないかと訝しむほどに眠っていようが何を考えていようが勝手に身のうちに響き渡る。
かみさま、かみさま、ぼくはどうなってもかまいません
かみさま、かみさま、ぼくの人生がどうあってもかまいません
かみさま、かみさま、どうかあの子を守ってください
意識して、意思を奮い立たせる。
ひさしぶりに、とてつもなくひさしぶりに、少年は少女の存在を探した。
大地の深くまで張り巡らされた少年の根は、昔よりも遥かに少女の探索を容易いものとした。
そして、齎された答えに、少年は瞠目した。
この大地に、少女はいない。
彼女のいないこの世界に、いったい何の意味があるのだろう
集落に来た少女は、少年の狼的な考え方を徐々に人の考え方にと矯正していった。
時に罵倒し、時に褒め、時に叱責し、時には少年を半ば放置していた集落の人々まで叱り飛ばした。
可哀想にと哀れみ甘やかす人間と
群れの仲間として狼の生き方のみ教えてくれる狼と
愛するだけで他に何もくれない神と
どこまでもひとりぼっちで寂しかった少年が自分を見てくれる少女に恋をするのは自明の理ともいえた。
少年は少女に恋をしたが、少女の世界に少年は入れなかった。
少女はどこまでも気高く世界に応対していたが、少年の世界と少女の世界はどうしようにも交じり合うことはできなかった。
少女は少年を人の道へと導いた。
しかし少年の人生を共に歩いてくれる気配は欠片もなかった。
少年がいくら少女に心を砕き愛を歌っても、少女の心には響かなかった。
美しくて、優しくて、強引で、それでいてひとりぼっちの少女。
狼に、集落の人々に、大地の神に愛された少年は、少女を愛するのは自分だけだと思っていた。
彼女の両親かと思われた2人は、両親ではなくただの護衛で、少女の身を守ることはあっても、少女の心を守ろうとはしなかった。
「守らなきゃ、あの子にはぼくしかいないんだから。」
その日も、少女は狼の住処である森の中へと1人消えていった。
いつもなら、少年はそれを見送る。
少女が森から帰ってくると、今にも世界を見限って死んでしまいそうな少女の顔が、少し明るくなっていたからだ。
少年は思い込んでいた。
少女が少年を助けたように、少年も少女を助けられるのだと。
だから、その日は、少女が集落に来て2年がたったその日、少年は初めて森へと消える少女を追った。
四肢で大地を踏みしめて、少女を追った少年見たのは。
そこは、白い花の群生地だった。
太陽の光は高い木々に阻まれ、少し暗いお花畑の中で、花の香りと白く淡く発光する花の中に、彼女はいた。
彼女は、少年が見たこともない顔をして、少年の知らない美しい子供の笑いかけた。
そして、狼の姿の少年の前で、彼女の笑顔を見た少年は、木へとその姿を変化させた。
「…はあ。」
嫌な夢を見た。
男はいつの間にか狼へと変わっていた身を人の姿へと戻し、足早に馬車を出た。
海の少女が海に落ちて姿を消し、大地の少年が神殿に身体中を切り売りされるようのなってから実に50年の月日が経っていた。
神に愛されたものは、その生を長く長く生きる。
男は大地の神に愛され、狼に育てられたことによって狼の姿を得たが、その姿は30代のもの。
男は願った。
狼のように、気に入った少女を自分の群れにしたいと、手に入れたいと。
そして狼の姿を手に入れた男は、少女に寄り添いたいと願い木の姿を手に入れたい少年に負けた。
大地の神は狼の少年よりも木の少年を愛し、海の少女は狼の少年の顔は覚えないのに、木の少年には笑いかけた。
狼の少年…いや、狼の男が海からも大地からも切り離して囚えていた少女は、海に身を投げてからその後消息を絶った。
50年。
それは木の少年のように大地に触れていれば人の居場所がわかるなんて馬鹿げた力を持っていない男に、少女は海の神の元に帰ったと結論付けるのに十分な時間であった。
白磁の大理石で出来た神殿。
そこに来たのは本当に久しぶりのことだった。
狼の男が、木の少年の存在を、かつて自分を攫い売り払おうとした組織に密告し、少年がこの神殿で初めて根を張ったのを見届けてから男は神殿を訪ねたことはなかった。
憎い相手だ。
海の少女の心を奪い去った少年。
体を切り刻まれて売られている。
ざまあみろと思う反面、少年の体が奇跡の薬として大陸に流通していることを聞くたびにひどく苦い気持ちになった。
人々は、神子さまが人間だなんて知らない。
それも大地の神に格別愛された子供だなんて知らない。
そして海の民は、海の少女を連れてきた男が、敵対する大地の民であることも、狼へとなれることも知らない。
男は憎かった。
自分を1人の人間として迎え入れない人間が。
自分を1匹の狼として迎え入れない狼たちが。
自分を1人の少年として迎へ入れない海の少女が。
自分から海の少女を奪ったのを知らない木の少年が。
誰1人、狼の男を迎え入れることのないこの世界が。
「だいっきらいだ、みんな、みんな。」
神殿に靴音を響かせ足を進める。
嫌いだ。大っ嫌いだ。
男は狼と人に育てられた。
だからこそ、狼にも人にもなりきれなかった。
一層の事どちらにも愛されなければ幸せだったのだ。
男は両方から、そして神から中途半端に愛され、それ以上を求めて得られなかった。
木の少年は放浪する狼の群れだけに育てられた。
そして、ほんの幼い頃から海の少女と共にいた。
男の群れの狼に聞いてもらったところによると、海の少女が海の民の街を逃げ出したほんの幼い頃から、木の少年と海の少女は一緒にいたのだという。
放浪する狼の群れは、とある花の開花を追って移動していた。
夜には月光の光を湛えて輝き、昼には月光の残滓を孕んで淡く発光する月光花。
月光花の咲き乱れる花畑で、男は幾度となく2人が抱き合うのを影から見ていた。
そして願った。
俺を受け入れない世界など、一層の事壊れてしまえ
ああ、そういうことか、と。
少年は穏やかな気持ちで足音高く入ってきた男を見下ろした。
不満そうで怒ったような顔をした男。
少年と少女が花畑で優しい時間を過ごす間、少女の世界に侵入しようと躍起になっていた狼の少年。
どこまでも独りよがりで、寂しい男だ。
少女のいない間に、狼の男は幾度となく少女は自分が助けるのだと少年に口煩く言ってきた。
その考えが間違っているなんてかけらも思っていない顔で。
あの子は、助けられることを諦めていた。
あの子は、世界を憎まなかった。
あの子は、すべてを許した。
あの子は、あの子に対して冷たく淡白な世界をただ見つめることを選んだ。
そして、ぼくはそんな彼女のそばにただただ寄り添おうとした。
「久しぶりだな。神子サマとやら。」
ああ、ひさしぶりだね、狼の。
「お前は海の少女のそばに在ることを選んだんだろう?」
そして君は、あの子を助けて手に入れようとしたんだよね。
「そんなお前が、俺は憎かった。お前を含む全部が憎くて、憎くて、憎くて憎くて憎くて憎くて。なあ、痛いか?爪を剥がれ、血を抜かれ、髪を引きちぎられ、肌を剥かれて。痛いか?苦しいか?辛いか?」
そんな君が、ぼくは哀れだった。君はあの子を手に入れて、閉じ込めたんだよね。君を見ないあの子を、君を覚えないあの子を、ぼくを一途に愛するあの子をそばに置いて。嬉しかった?楽しかった?幸せだった?
「なあ、知っているか?そろそろ気づいたか。俺はお前を謀った。お前を神殿に売り渡し、海の少女を白ベランダに閉じ込めた。」
ぼくは知らないうちに君を追い詰めていた。あの子の世界にただ1人、何もせずそばにいること許された。そしてあの子のためだけに苦痛に耐え、あの子にぼくのためだけに苦痛に耐えさせた。
「でも」
でも、
「お前は海の少女を見失った。」
あの子は君を見なかったでしょう。
「ざまあみろ」
ハモった言葉に、内心苦笑する。
そんなことを言いに来たのか、この男は。
ぼくの探知が届かないのは、彼女が海の民の白ベランダに囚われているからだとこの男自身が言ったのに。
ぼくを傷つけるなら、ぼくの世界の全てだったあの子を傷つけなきゃ無理だよ。
でも君は、あの子を絶対に傷つけられな
「あの子は死んだよ。海に身を投げて。50年前に。」
…え?
「お前が海の少女以外に果実を与えていると知って、お前を嫌いと叫んで海に身を投げたよ。」
そんな、
は、
ず、
ない、
「馬鹿!なんで割っちゃうのよ!この硝子ペンは気に入ってるって言ったでしょ!丁寧に扱ってねって言ったじゃない!もう忘れたの?あんたって本当に馬鹿なのね?」
淡い黄色の硝子ペン。
光を孕んでキラキラと輝くそれに、ぼくは思わず嫉妬した。
淡い黄色はあの狼の少年の瞳の色。
その色を知らずとはいえ彼女が持っていることが許せなかった。
「…ぼくが、嫌いになった?」
それでも、彼女を怒らせるたびに彼女に今度こそ嫌いと言われるかもしれないと思って、ぼくは怖くて、怖くて仕方がなかった。
恐る恐る聞けば、彼女は呆れた顔をした。
「嫌いになるわけ、ないでしょ。馬鹿なのね。何度言っても理解しない。」
彼女の抱擁は、いつだって花の香りとともにあった。
「好きよ、大好き。馬鹿なあんたが、大好きよ。」
彼女は死んだ。
彼女はもうこの大地にはいない。
海にも、空にも、大地にもいない。
どこにもいない、会うことはできない。
彼女が、ぼくを抱きしめてくれることはもうない。
「なあ、憎いか?憎いだろう?お前は彼女のそばにいたいと言いながら彼女と引き離され、あまつさえ彼女を裏切ったのだから。」
目の前で男が笑う。
大陸中に散らばったぼくのかけら。
彼女のためにと思いのこもったかけらたち。
ぼくから引き離されてバラバラにされてしまった彼女への心たち。
「俺が憎いか?俺のせいでお前は彼女に嫌われた!憎まれた!彼女はもう!」
彼女はもう、
「俺たちを許してはくれないんだ!」
ぼくたちを許してはくれない
「なあ、木の少年」
狼の男が笑う。
泣きそうに顔を歪めて、ボロボロのぼくの樹皮に触れる。
哀れな男だ。
あの子を手に入れようとして、あの子を永遠に失ってしまった。
「この世界が、憎い。」
どんなに大地に意識を張り巡らせても、彼女はどこにもいない。
「なあ、俺と一緒に世界を終わらせないか。彼女がいないんだ、ここには、もう。」
彼女はいつでも1人だった。
ぼくは彼女に寄り添おうとした。
彼は彼女を救い手に入れようとした。
ぼくは狼と彼女に他の誰よりも愛された。
彼は狼と人間と神に中途半端に愛された。
そしてぼくたちは、僕たちの世界は。
彼女がいるから狂わなかった。
久しぶりに人に戻ったぼくは、人の形をとった男には抱きかかえられて神殿を出た。
そして、ぼくたちはゆっくりと森の中へと入った。
ぼくを育ててくれた放浪の狼たちが、
彼を育てた定住の狼たちが、
その他にもたくさんのたくさんの獣たちが、しずしずとその後に続いた。
森の中に響くのは、パキパキと枝を踏みしめる音だけで、誰1人何かを口に出すことはなかった。
途方もない沈黙は、沈黙の群れは、誰も彼も彼女を愛して悼んでいた。
長い、長い行進は、巨大な群れとなってあの優しい香りのするお花畑へと至った。
これだけの獣がいて、1匹も喋らなかった。
そばにいるのに、僕たちはどこまでもひとりぼっちだった。
爪は全て剥がされ、肌は所々爛れ、髪の毛は短くざんばらで、ぼくは声を失っていた。
生きているのが不思議なくらいのボロボロのぼくは、もう木に変化する力すら持ち合わせていなかった。
狼の姿になった男は、黙って群生地の中心に体を横たえた。
淡い黄色の瞳が、ぼくを見つめた。
瞳の中のぼくは、黄金の瞳を虚ろに開いているだけのひどく醜悪な顔をしていた。
「終わらせよう、木の。」
そうだね、狼の。
香り高き、花の香り。
白い白い満月が、咲き乱れる月光かに月の光を孕ませる。
狼のへは、3歩。
狼のを貫いて、狼のの命を吸い取って、そうすれば大陸中に散らばったぼくの思いが、彼女に捧げたやさしき慈愛の愛が。
世界を憎み滅ぼそうとする憎悪へと変わる。
一歩。
硝子ペンを壊してしまったぼくは、黒いペンをあげた。黒だけは、彼女の瞳は彼女にそのままの姿を伝えるから。
彼女は少し怒って、ぼくを抱きしめてくれた。
硝子ペンを見せてくれた。陽の光を透かして金色に輝くそのペンを、少女は大切な人の色なのだと笑っていった。俺はあの時、笑って褒められただろうか。
彼女に抱きしめて欲しいと乞えば、彼女は困った顔で抱きしめてくれた。
二歩。
淡い黄色の瞳の、狼の。
その四肢は自由で、その体は頑強で、彼はいつだって彼女を守っていた。そして彼女は、彼女を守ろうとして傷つく彼を困った顔をして抱きしめていた。
輝く金色の瞳の、木の。
その根は大地を抱きしめ、その心はまっすぐで、彼はいつだって彼女に寄り添っていた。そして彼女は、彼女に寄り添って立つ彼を少し怒った顔で抱きしめていた。
「ほんと、馬鹿ね。馬鹿だとしか思えないわ。」
そう、今みたいに、
そう、こんな感じに、
ぼくを
俺を
馬鹿だと罵って…
馬鹿だと罵って…
「「え?」」
月光に、白銀に輝く髪。
蒼穹の瞳には、途方もない怒りを湛えて。
最後の一歩を踏み出そうとしていた少年を張り飛ばし、最後の一歩を待っていた少年を蹴り飛ばした。
「馬鹿よね?馬鹿なのね?知っているわ、あんたたちってとんでもない馬鹿だもの。なんなのよ、ほんとのほんとに怒るわよ?そういう趣味なの?あたしを怒らせて楽しいわけ?」
ぎんっと少女は狼から男へ変化した狼のを睨んだ。
「あのね、あんたの身を張って守ってもらっても嬉しくないって言ったよね?覚えらないの?そんな簡単なことも覚えられないの?覚えられないわよね、馬鹿だもの。」
「え、え、なん、で。」
「あたしがあんたを見ないのは、近づかないのは、あんたに近づけばあんたが身を張ってあたしを守るからよ。ほんっと馬鹿。身を張って守るつもりならあたしを残して死んでどうするわけ?生きなさいよ。」
ぽかんとする男から今度はボロボロと涙をこぼす少年へと向きなおる。
「あのさ、あたしはあんたが大好きって言ったよね?あんたが側にいたいから、あたしは死なないって言ったよね?なんで信じないわけ?なんでそばを離れてるわけ?初志貫徹って言葉も知らない?ああ、知らないわよね、馬鹿だもの、」
「…ぇ…」
掠れた声も、少女の怒りは止められない。
「あんたがあたしの側にいてくれてるわけじゃないの。あたしがあんたの側にいるの。なに死のうとしてるわけ?あんたが側にいたらあたしは生きるって言ってんじゃん。あたしか死んだなら自分も死ぬの?生きなさいよ。あたしまで死ぬわよ?」
それは間違いなく
少年たちが愛した少女だった。
「あんたたちの瞳の色の硝子ペン、木が壊して狼が隠しちゃったあの硝子ペン。その代わりに、2人で黒ペンをくれたでしょう?ごめんね、その黒ペン、海の神様に取られちゃった。ねえ、海の神様ね、あたしを助けてくれて、あんたたちのところに届けてくれて、あんたの傷を全部治して、あんたの寿命をうんと伸ばしてくれるらしいわ。あたしはここにいて、あんたたちはまだまだ死なないの。」
そして少女は、泣きそうな顔で、怒って困った顔で、
「ほんと、馬鹿なんだから。」
男と少年を抱きしめた。
その抱擁は
涙と、血と、土と、海と、
月光花の花の香りがした。
「それで?それでどうなったの?白ベランダのお姫様と、白ベランダの狼様と、神殿の御神木様は?」
話の続きをと強請る小狼に、老狼は苦笑いを禁じえなかった。
この子は本当にこの話が好きだ。
「3人は、抱擁を交わした。
色のない世界で、色や愛を知ることを諦めていた少女は、守ってくれる人と側にいてくれる人を得た。
少女の側にあろうとしてから回った少年は、少女からの許しと、無条件で少年を守ってくれる友を得た。
少女を守ろうとして傷つけた少年は、少女からの許しと、無条件で少年の側にいてくれる友を得た。」
香る、花が香る。
綺麗な満月が、ゆっくりと雲間から顔をのぞかせる。
花が、柔らかく光を発しだし、老狼と小狼を照らしあげる。
「神に愛された3人の命は長い。3人をつないだ月光花の花を守り、開花を追って放浪しているよ。」
「えっ?じゃあ!」
お話好きな小狼は、ピクンと耳を跳ねたてた。
2匹して、月光花のお花畑へと目を向ける。
現れた3人は、寄り添い寄り添われ、守り守られて、遥かに高い空を見上げた。
幼い狼は思わず駆け出した。
駆け寄った小狼は、美しい海の色彩を持つ女性に抱きしめられた。
淡い黄色の瞳の男に、金の瞳の青年に抱きしめられた。
「ねえ!あなたたちは、この世界をまだ諦めてる?まだ怖れてる?まだ憎んでる?」
3人は目を合わせて、柔らかく笑った。
「諦めてないわ。この世界には黒と白と紅だけでなく、淡い黄色と金色があるんだもの。」
「怖れていないよ。この世界には、ぼくを愛してくれる人も、守ってくれる人もいるんだから。」
「憎んでない。この世界には俺を憐れまない人も、俺の側にいてくれる人もいるんだ。」
「世界を信じられなくて、」
「世界が怖くて」
「世界が憎い人がいたら」
3人は、順番に小狼を抱き上げた。
「「「お花畑を教えてあげて。この世界がそう悪くないことを教えてあげるといい。」」」
優しい抱擁は、花の香りをしていた。
大地の神に愛された小狼は、その日、狼の姿だけでなくもう1つ。
人の姿を手に入れた。
人の姿を持つ狼が、狼の姿を持つ子供に仕えるのは、まだ先の話。
「ねえ、あたし、あんたのことが好きよ。」
「…は?」
少女はいつもみたいに高慢に言った。
木のの日陰で、まるで今日の晩餐を決めるみたいな気軽さで。
「え?…え?木のは?だって、木のが好きって」
「あたしとあの子は2人で1人よ。あたしはあの子、あの子はあたし。兄弟よりも近いの。でも、あんたは違うわ。あたしとあの子を守ってくれたあんたは、あたしたちとは全然違うのに、あたしを守ってくれた。助けようとしてくれた。好きよ。恋愛的な意味で。」
顔を紅潮させた海の少女は、いつもの何倍も、美しくて、愛おしくて、
「俺、も、好き…です。」
叶わないと思ってた。
木のと海の少女の絆には、2人の間には入れないと思ってた。
「知ってるわよ、馬鹿。ねえ、それで?お馬鹿なあなたは今私が望んでいることが、わかる?」
ああ、甘い匂いがする。
月光花の匂いと、木のの果実の匂い。
甘い、甘い香りの中で、少女と少年を守ってきた男は、ゆっくりと少女と抱擁を交わした。