ブラックアウトゴッド
人生の転換期というのがある。人によってはそれは明確には分からないものだったりするが、わたしには目に見えて少なくとも3回の人生の転換期があった。最初の2回は親の離婚に関係している。親が2回離婚している。
1回目は再婚で小学5年の時に静岡から大阪まで引っ越してきたことだ。それ以前の自分は、静岡にそのまま置いてきたと思っている。静岡にいたときのわたしは虫がとても好きで、学校の机のなかでたくさんの蜘蛛を飼ったり、蝉をいじめる高学年の男たちに殴りかかっていって、逆にボコボコにやられたりした。
しかし、中学に入ってからは、これはわたしの黒歴史になるのだが、ゆうすけという変な友達に好かれ、たくさん悪いことをした。ゆうすけは小学6年のときに「おれは不良になりたい」と言った。そのとき笑ってやれば良かったと思う。いま思うと不良というのが何なのか分かっていたのか定かではないわたしたちは、学校帰りに花壇の草花を引っこ抜いたり、蝉やカエルを殺しまくったり、近所で徘徊している有名な障害者の男をいじめたりした。知らない通りすがりの人に小声で悪口を言ったりもした。バスケ部の後輩を一列に並べて、理由もなくひっぱたいたりもした。
根が善人にできていて、静岡にいたころは障害者をいじめる同級生なんかは殴り飛ばしていたわたしは、悪いことをするにつれて少しずつ過去の自分が死んでいくのを感じた。何度か自殺しようかとも思った。静岡にいた自分は死んだ、と自分に言い聞かせていた。
中学を卒業する前、半年間わたしには友達がゆうすけ以外1人もいなくて、昼休みはずっと寝たふりをしていた時期があった。数少ない友達の1人、麻雀友達だった村田を、わたしがぶん殴ったのが原因だった。それから、麻雀をするグループから外されたのだ。
そんな村田が卒業間近になって連絡をよこしてきた。田中の家で一緒に麻雀をしようというのだ。これは修羅場になると思った。なんでこんな嫌われ者を麻雀に誘うのか分からなかった。田中のマンションのエレベーター前で、村田と鉢合わせた。すると村田から「ごめん」と謝ってきたのだ。わたしには中学中が知っている嫌なアダ名がついていて、それを村田が口走ったのがぶん殴った原因だった。それを言われたら殴る、とわたしは決めていたのだ。しかし、ぶん殴ったわたしも悪かったと、謝った。そして、もう1人の麻雀友達だった浦田と4人で麻雀を打った。このとき、わたしは善人になろう、人を殴るのはやめよう、と思った。
高校に入ってから、ゆうすけからの電話には出ないことに決めた。1日13件くらいの不在着信があったが、それも3ヵ月くらいでなくなった。
人を殴らない高校生活は最初は苦だった。山本はわたしのチェス盤(ほんとは持ってきちゃダメ)を使って勝手に西山とチェスをするし、岡本はなんかずっと人の愚痴ばかり言うのでいつか殺してやろうと思っていた。そんな生活にも慣れて、人を殴りたいという衝動が無くなったころには、岡本、山本、西山とは仲良くなり、宮川、北村は麻雀友達になり、中島はアニメの話をする友達になった。それが高校3年のときだ。
ここで2回目の人生の転換期がくる。正式に親が離婚したのは大学1年のときだが、高校3年の受験シーズンから両親は毎晩喧嘩するようになった。夜になると、父親が猫みたいな声で泣くのが毎日聞こえた。とても受験勉強できる感じじゃなかった。
あるとき、勉強していると母親に名前を呼ばれた。重い物でも運んでいるのかと思い1階に降りていくと、父親が首を吊ろうとして合気道の帯をカモイに引っ掛けようとしていた。そのままわたしと父はもみ合いになり、投げたり投げられたりして、今度は父が2階に上がってベランダから飛び降りようとして、2軒隣にある父の実家からおじいちゃんとおばあちゃんを呼んできて説得して、そんな感じのことがあった。
それからわたしは何をするにも憂鬱になり、友達にも最近岸暗いでと言われるようになった。うつ病で、初めて心療内科に行った。
死のうと思った。両親がまた離婚することになれば、自分を殺して生きてきた、大阪に来てからの5年間は全く無駄だったことになる。タオルで毎晩首を絞めた。何週間もベッドから起き上がれず、自殺のことばかり考えていた。5キロのダンベルを頭の上に落としてみたり、ビニール袋を飲み込もうとしてみたり、混ぜるな危険と書かれた洗剤を混ぜてみたり、換気しないと危険と書かれたストーブを布団の中に入れてずっと吸ってみたり、コンセントに針金を突っ込んでみたりした。部屋のなかではどうしても死ねなかった。しかし、自分の服がとてもダサいような気がして外に出られなかった。
ある日、いつものようにタオルで首を絞めていると、失神して大きな音を立てて倒れてしまった。母と姉が驚いてわたしの部屋に来る。窓にワッカにしたタオルがかけっぱなしになっていた。病院に連れて行かれて、入院の予約を取ると言われる。幸い、入院は三ヵ月待ちだった。
三ヵ月の間に、ろくに勉強できなかったわたしでも受かるような大手前大学というバカな大学に進学した。1年のときに、父親がパチンコ屋のバイトに行っているときを見計らって母と姉が荷物を持ち出し、新大阪の東三国に逃げ出した。そのときわたしは大学で授業を受けていて、夕方に母から「いま新大阪にいるから」と電話があった。最初、出かけてるのかと思ったが、新大阪に住むことになったのでこっちに帰ってこいという意味だった。
それから東三国の小さなマンションで母と姉と3人の暮らしが始まり、生活が苦しいのでわたしもバイトしなければいけなくなった。梅田の太融寺にあるライフでレジ打ちの派遣バイトを始める。そのころには不思議とうつ病が治っていて、入院の話はウヤムヤになり、心療内科には行かなくなった。
さらに不思議なことに、わたしは大学で結構モテた。1年のときはショッチュウ女の子と遊びに出かけた。自然と彼女もできた。彼女とのことを書くとまた1つ小説ができてしまうので、ここでは割愛する。
3つ目の人生の転換期はわたしの個人的なもので、厳密にいうと今もまだその渦中にいる。大学を卒業し、わたしは豊中市の老人介護施設で約1年間働いていた。しかし、2017年2月8日に統合失調症という病気で救急搬送され、精神科に3ヵ月入院した。いまは仕事を休んで月に13万の傷病手当という手当で生活している。
就活はすごいしんどかった。一年付き合っていた彼女とは大学3年のときに別れた。彼女と別れてから、なにも上手くいかなくなった。ドロドロした女の子絡みの話もあるが、それも小説ができるくらい長くなってしまうのでやめておく。
大学4年のときはひとりぼっちで、学習支援センターという大学の図書館にあるボッチの学生が集まって先生に悩みを相談する場所に通っていた。そこで文学の師、吉田さんに出会って、わたしは小説を書き始めた。
ひとりぼっちと言っても、就活が終わったころ、新しい彼女ができた。彼女は西さんと言って、大学の授業で知り合った。
就職してからは、とても忙しい廃れた日々を過ごしていた。半年くらいで仕事になれてからは、シフトのほとんどが夜勤になった。手取りは夜勤に入っても月18万くらいで、夜勤明けの次の日は休みになるのだが、その休みの日に日雇い労働をしたりしてお金を稼いだ。
夜勤明けの日は十三の居酒屋でお酒を飲んだあと、梅田の茶屋町にあるマーチャオという雀荘によく麻雀を打ちに行った。他に都合の合う日は毎日彼女に会いに行った。飯代もホテル代も基本、わたしが出していた。
わたしが働いていたのは、サービス付き高齢者向け専用賃貸住宅という介護施設のなかでも最も忙しいといわれている括りの施設だった。8:00〜8:30内山さん起床介助、8:30〜9:00坂上さん起床介助、9:00食事誘導、12:00食事誘導、13:00〜14:00安藤さん入浴介助、14:00〜15:00鳥山さん居室清掃。このように、1日の仕事がシフトみたいに決まっていて、サービスに入るたびに訪問介護の伝票を書かなければならない。サ高住は表向きにはマンションという扱いで、そこにたまたま介護職員がいて、訪問介護を行えるようになっているというシステムなのだ。
2017年1月29日に好きなバンドの解散ライブがあった。その日は夜勤明けで、十三のネカフェで30分くらい目をつぶるだけの仮眠を取って、京都の知らないところまでライブを観に行った。小雨が降っていて、道に迷って、スマホの地図を頼りになんとかたどり着いた。心身ともに極限まで疲れていて最悪な気分だった。彼女に電話して、「最悪だよ、最悪だ。最悪だ」とだけ言って電話を切った。
会場に着くと、白い服を着た大きな人がものすごい声で叫んでいた。殺されると思った。その男はわたしが今まで見たことのある人間のなかで一番デカかった。デスボイスあり、ポエトリーリーディングありの異色のバンドだった。彼の読んでいた詩のなかで「one life,one chance」という言葉がずっと頭のなかに残っていた。
他に出てきたバンドも、両手にすごい刺青を入れた男がスタンドマイクを振り回しながら客席に出てきて、客の顔スレスレで壁に突き刺すように立てかけ叫びまくったりしていてヤバかった。
観客もみんな部外者を寄せ付けないような雰囲気を纏っていた。わたしは灰皿の置いてあるテーブルの前にいたが、みんな煙草の消し方が徹底していて、一瞬で煙ひとつ残さずに掻き消していた。恐る恐るわたしも煙草を吸った。
胃の中にはなにも入っていなかった。串に刺したイチゴが「悪魔の果実」という名で売られていたので、爆音のなか「このイチゴください!」と叫んで売ってもらった。200円くらいだった。
最後にsewiというわたしの好きなバンドが出てきた。演奏を聴いて、涙が止まらなかった。そのころには27時間近く一睡もしていない疲れは吹き飛んでいた。sewiはMCで客を思いっ切りディスった。ベースの人が、後ろの方で酔っ払っているおっさん達がほんとに目障りで気が散るというと、前の方のファンが「殺して帰ろうや!」と叫んだ。sewiの立ち居振る舞いには少しの嘘偽りもなかった。あの場にいた誰よりも、彼らはカッコよかった。
sewiの物販にCDと冊子があった。周りの客に、これは買えるのかと訊くと、「ヘッドのやつなんでヤバいと思いますよ」と言われた。悪魔の果実を売っていたおじさんに訊くと、物販の人が来るまで待つしかないと言われた。コンビニで2万円おろしてきて、物販の人が来るまで30分くらい待った。CDは2枚置いてあって、1枚はわたしが入ってきたとき叫んでいた人のやつだと思った。物販の女の子が来る。「これって、白い服着たデッカイ人のCDですか?」「そうです。でもこれは売り物じゃないです」「なんていうバンドですか?」「Feyxistっていうバンドです」それだけ聞いて、持っていた本の最後のページに「フェイジスト」とメモした。
sewiのCDと冊子だけ欲しいと言うと、これは物販にある品物全部でセットですと言われた。Tシャツとかライターとかが並んでいて、オール500円と書いてあった。「じゃあ全部買います!」とわたしは言った。すると女の子が「いいえ、これ、全部で500円ですよ」と言ったのでビックリした。品物を小さい段ボールに詰めてくれて、それを持って急いでその場を後にした。
その次の日のことは記憶にも記録にもほとんど残っていないが、1月30日、ツイッターで何人かの人ともめて、わたしがブロックしている。この日からわたしはsewiのように嘘偽りなく生きることを決めたのだった。わたしには職場の施設長への漠然とした嫌悪感があった。この日の晩、施設長をギャフンと言わせてやろうと思って、考え事をしながら一晩中声を出して笑っていた。
1月31日、仕事は遅出だった。入居者が増えてきて、仕事はとてもハードになっていた。明日出勤したら死ぬんじゃないか、確実にただでは済まないと思った。この日溜まった仕事を処理して終電を逃し、タクシーで帰った。
2月1日、この日がわたしの最後の出勤日になる。夜勤の出勤時間は15:30だ。出勤前に一時間カラオケに行く。ものすごい声で叫んでいたので店員がきて、音量を下げるように言われる。近所の極楽湯に行く。十三のドン・キホーテで黒のジャケットとブラックサンダー、ブラックアウトゴッドというエナジードリンクを買う。タバコ屋でチェ・ゲバラの黒を買う。カバン屋で、前から気になっていたエドガー・ドガの踊り子の絵のカバンを30000円で買う。
全身が黒ずくめになり、持ち物も全部黒になった。これはカラマーゾフの兄弟という小説の影響だ。「カラマーゾフ」とは「黒く塗りつぶす」という意味なのだ。わたしはスメルジャコフがカラマーゾフの兄弟のなかでやったことと同じことをした。
カラマーゾフの兄弟のストーリーをザックリ説明しよう。カラマーゾフ家には3人の兄弟がいて、その父親ヒョードルが殺され、その犯人探しをするという話だ。最終的に長男のドミートリ―が犯人ということになりシベリア送りになる。しかし、殺人を計画したのは次男のイワンで、実行した真犯人は使用人のスメルジャコフなのだ。物語のなかでスメルジャコフは事件のあった晩、わざとテンカンの発作を起こし、自分は気が狂っているということで無罪の証明にする。最初スメルジャコフは狂っている振りをしているが、そうしているうちに本当に気が狂って自殺する。スメルジャコフが犯行を実行に移したことを知ったイワンは良心の呵責から気が狂ってしまう。
わたしはわざと病人になった。
職場に出勤し、16:00の申し送りでわたしは「伝票の印鑑だけは死んでも押して帰ります」と言った。それからの仕事ぶりは完璧だった。ほとんど未来予知に近いことも簡単にやってのけた。夜勤の最後の仕事になる朝食の見守りのとき、2月から新しいサービス責任者になった友長さんに、「朝食が終わったとき、あそこに坂口さんだけが取り残されます。そうなったら、友長さん対応できますか」と言って了承を得た。しかし、わたしのシフトが終わる時間になっても、坂口さんは取り残されていた。事務所にいる人たちに「坂口さんがまだ残ってるんですけど、いける人いませんか。無理ならぼくが行きます」と言った。乾さんが名乗り出たが、「やっぱり岸君行って」と言われたのでわたしが居室に誘導した。そのとき、窓の向こうに雪が降っているのが見えた。これは幻覚かも知れない。坂口さんは朝食が終わると、必ず屋上に上がって小さい棒で素振りをする。屋上に上がったが雪は降っていなかった。「あれ、雪降ってないですね」周りを見渡すと、一粒の雪が舞い降りたのが見えた。「いや、やっぱり降ってたみたいですよ」
神経が異常に過敏になっていた。坂口さんの部屋の戸を少しあけ、指を突っ込むと、エアコンがついておらず窓が開いているのがわかった。
全部の仕事が終わったあと、印鑑を押していない伝票が3枚残る。これも最初から分かっていた。事務の神田さんに「ぼくはこれから3時間くらいかけてこの伝票をチェックします」と言う。身体に限界が来ていて、まるっきり伝票を書けるような状態ではなかった。神田さんに「蜜柑さん(施設長)は今日は休みですが、なにか重大な問題があれば連絡してもいいと思います」と言う。相談員の原田さんが入ってくる。原田さんはたまにしか施設に来ないが、この日から施設長が正式に変わったので様子を見に来たのだろう。わたしは挨拶する。「岸君、君と話すのはこれが2回目くらいちゃうか?」以前のわたしは無口で職場ではほとんど話さず、挨拶もしなかった。原田さんはなぜかわたしの隣に座る。わたしと友長さんのやり取りを聞いて、「岸君、そこまでの状況になったらおれが代わりに印鑑を押したる」と、原田さんは言った。めちゃくちゃ神経質になっている。
看護師の山野さんに「最近やけに神経質なんですけど」と訊くと、「それは職業病ですよ」と言われる。「山野さんは認知症についてどれくらい知ってますか?」「いえ、そんなに詳しくないです」「じゃあこの会社の就業規則には」看護師は認知症の知識がなくてもいいって書いてあるんですか? と、訊こうとしてやめた。「例えば坂田さんと大杉さんは満腹中枢に認知症が出てます。食事の時間を忘れて出てきちゃうでしょう。森田さんはコミュニケーションに必要な機能が全部駄目になってる。こっちの言ってることはちょっとわかるけど、まるっきり会話は成立しない」「すみません、私ももっと勉強するべきですよね」すこし怯えているような目だった。「いいえ、勉強なんてしてません。ちょっと小耳に挟んだだけです」
「神田さん、ぼくはあと7日も生きられないかも知れません」事務の人はみんなパートだ。わたしは社員でいちばん下っ端だったので、事務の人にしか本音は言いづらかった。この言葉通り、ちょうど7日で病院に救急搬送されることになる。「神田さん、このオレンジのワッカの意味を知ってますか?」認知症サポーターの印だ。簡単な研修を受ければ手に入れることができる。「知らない、じゃあ服部天神にいるおもしろいおじさんを知ってますか?」「森口さんですね」「その人のやってる研修を受けた方がいいですよ」
そうこうしていると、なぜか人事部長の野木さんがやってくる。「岸君、ちょっと尋問します」と言って個室に連れて行かれる。1時間半くらい喋ったらしいが、内容をほとんど覚えていない。「岸君、急に涙が出たり、怒りっぽくなることはありませんか?」「あります、そういう人は何なんですか?」このとき、わたしは泣いていた。「心が疲れてるってことです」そういって心療内科に行くように言われる。
それから一週間で、症状がドンドン進行して、結局心療内科には行けず、姉が救急車を呼んで、国分病院という精神科に三ヵ月入院することになった。
あれから半年以上経っているが、最後に出勤した日に買ったブラックアウトゴッドというエナジードリンクはずっとわたしの机の上にあった。これはほんとにヤバいときに飲もうと思って買ったものだ。あの時は超人のようにいくらでも動くことができた。しかし、いまは毎日10時間以上ベッドから起き上がれない。薬と精神科でされた拘束の影響だと思う。このままでは仕事に復帰することはできない。喧嘩が増えた彼女にもフラれた。いまがほんとにヤバいときだと思う。
さっき、ブラックアウトゴッドを飲んだ。