再生 97 甘い罠
実月が時の精霊だった。
今までのことを考えれば納得できることだったが、自分が予想する以上の力と余裕のある態度に攻撃を仕掛けるということができなかった。
その笑顔が気に食わない。
けど、どうすることもできない状況に、高屋は疑問を解決しながら新しい情報を得ることしかできなかったのだ。
一緒にいると調子が狂う。
誰かを思い出すくらいだ。
保健室を後にした高屋が重要なことを思い出すのは少し先のことだった。
「よしっ!」
麗は仕上がりを見て手応えを感じた。
「凛さん。焼いている間に、ある程度の片付けは終わりました」
「大野さん、ありがとう!」
「今のうちにレポート書いておきましょうか?」
麗、大野、凛、佐月は一階にある調理室にいた。
この時期の調理実習の授業は女子だけで行われる。
調理室には三クラス分の広さがあり、クラス合同で授業が行われるのだ。
グループを決めるのは自由で、麗達は自然と集まった。
配られたレシピを見ながら分担しながら作り、丸めた生地をオーブンに入れて焼き上がるのを待つだけだ。
大まかな分量は決まっているものの、食べられる範疇で手を加えるのは自由だ。成形と仕上げは各自で行うので、グループに分かれていても見た目と味は異なる。
「焼いたら、熱いうちに粉砂糖とココアパウダーをまぶすんだよね?」
「そうです」
麗はガラスの窓からオーブンの中を見ている。
「姉さん、レポート書いちゃおうよー」
「分かってるって」
調理台を片付けて、離れた場所にある机に向かうと、机の上に置いてある紙に調理実習の感想を書いていく。
「もう少しで卒業か…」
「長いと思ってましたが、あっという間の三年間ですね」
一日が長いと感じることはあるが、振り返ると三年間はあっという間だったような気がする。
「編入するなら一年の時が良かったなあ」
レポートを書きながら凛が呟く。
楽しいことも辛いこともたくさんあった。それでも、編入する時期が決められるなら麗と同じ高校一年生の一学期が良かった。
「残り少ない高校生活、悔いのないようにしよう」
凛の言葉にどう返したらいいか分からなかったが、麗は優しく言葉をかける。
「そうだね」
凛が笑って答えた時、タイミングを見計らったように焼き上がった音が聞こえた。
放課後。
教室は甘い香りに包まれていた。
調理室から教室に戻っている時から女子生徒達はどこか落ち着きがない様子だった。
先に別の授業で移動していた男子生徒が教室に戻っていて、女子生徒達の顔を見ると、急に姿勢を正して意識をし始めた。
ホームルームが終わり、妙に何かに気づいて笑う担任の号令の後、生徒達はいっせいに動き出した。
麗、凛、大野、佐月の四人で作ったので互いに渡すことはしなかった。
その代わり、余分に作って四人で味見を兼ねて試食した。
熱いうちに粉砂糖とココアパウダーをまぶしたおかげで、表面にまんべんなくついた。口の中に入れるとほろほろと崩れる。もう少し甘味があっても美味しいと思うが、あげる人達のことを考えると程よい甘さの方がいいのかもしれない。
綺麗に見えるようにラッピングをして、まとめて大きな紙袋に入れてある。
渡したい人に会えるかどうか。
去年より気合いが入っているのは周りの生徒達だけではなかった。
教室内では、すでにお菓子の受け渡しが行われている。渡すほうも受けとるほうも良い顔をしている。
卒業したら離ればなれになってしまう。
今を大事にしたい。
そう思いながら麗と大野は教室を後にした。
教室を出ると、廊下には佐月と凛が立っていた。
「梁木さん、二階の来客用の入口付近に行くって」
麗と大野が近づくと、凛はそう告げた。
しばらくの間は色々な場所でお菓子の受け渡しが行われるだろう。
個人で渡すことも考えていたが、その考えを察したのか梁木は教室を出る前、周りに気づかれないように凛にそう伝えたのだ。
「じゃあ、行ってみよう」
麗の一言で三人は頷くと廊下を歩き出した。
階段を下りて二階にある来客用の入口に向かうと、そこには、梁木、トウマ、滝河の三人がいた。
初めは気のせいだと思っていたが、トウマと滝河は私服だ。それに、トウマの髪の色はよく目立つ。
滝河がいることに気づいた凛は驚いていた。
まさか、自分が探す前に出会うとは思っていなかった。
「ショウ!トウマ!滝河さん!」
麗が声をかけると、それまで話していた三人は声に気づいてこちらを向いた。
「トウマ様も滝河さんもどうして高等部へ?」
大野は大学生である二人が高等部にいることに驚く。
梁木に渡したら大学部へ行く予定だったのだ。
「本の余白部分が気になって高等部に行こうと思ったんだ」
「俺もだ。高等部に来て靴を履き替えていたら梁木に会ったんだ」
トウマは普通に答えたが、滝河は少しだけいつもと違うように見える。
「トウマも滝河さんもいて良かったよ」
そう言うと、麗は手にしていた紙袋からお菓子を入れた袋を三つ取り出す。
それをきっかけに、大野、凛、佐月も紙袋からお菓子を入れた袋を三つ取り出した。
それが何か聞くことはない。
梁木、トウマ、滝河は気づいていた。
「はい」
「良かったら受け取ってください」
ビニールのラッピング袋の中には、さきほど調理実習で作ったスノーボールが入っている。麗達は誰に渡したか分かるように袋の口を結ぶリボンの色を変えたのだった。
複数で一緒に渡しても、この時は少しだけ緊張する。
「…ありがとうございます」
「ありがとう」
「…ありがとう」
三人はそれを笑顔で受け取った。
「個人で渡すと周りが勘違いしそうだから、四人で一緒に渡した方がいいんじゃないかなって思ってさ」
連絡をとって渡すことはできるが、周りの目がある。感謝の気持ちを込めて渡したいのに、付き合っていると思われると自分も相手も困る。
「偶然ですが、トウマ様と滝河さんに会えて良かったです」
佐月も改めてトウマに渡すことを考え、いつもより緊張していた。
「…あ、後、これ」
そう言うと、大野は手にしている別の紙袋をトウマに渡した。
「これは?」
トウマは確認する。
自分へのお菓子はもらっている。予想はできるが確認はしておきたい。
「私達のことを覚えていないと思うけど、お世話になったし、お礼の気持ちとしてカズさんとフレイさんに渡してほしいんだ」
麗はトウマを見て答える。
前にカズとフレイに会った時、二人は麗達のことを覚えていなかった。
トウマと滝河の知り合い、または、高等部の後輩と認識されているだろう。
「…去年、あいつらはこんな気持ちで受け取ったんだな」
トウマはその思いを噛み締める。
去年、麗達からもバレンタインのお菓子をもらった。
その時は、能力を封印されて記憶を失っているふりをしていた。麗達から見れば、自分達を忘れた人だ。バレンタインにお菓子をもらえるとは思わなかった。カズとフレイから受け取った大きな紙袋を覗いて麗達の名前を見た時、その気持ちが何より嬉しかった。
「ありがとう」
トウマは大野から紙袋を受け取ると、優しく微笑んだ。
トウマは穏やかな雰囲気の中、あることに気づく。
それぞれが楽しく話している。
けれど、梁木はよく麗を見ている。それに気づいた凛が梁木を見ていて、また更に、それを滝河が見ていた。
「(あ…)」
その視線に思いがある。
何となく、そう思ってしまった。
あの時とは違う。今の関係は良いものだと思える。
トウマは嬉しい気持ちのまま、これからのことを考える。
「お前らも来月には卒業だな」
麗達が卒業するまで一ヶ月をきった。
まだ試験の結果はでていないと思うが、それぞれが違う道を歩んでいくだろう。
「うん」
麗はトウマと出会った時のことを思い出す。
「初めてトウマに会った時、まさか、物語に関係してるって思わなかったもん」
トウマと初めて会ったのは一年の学園祭の打ち合わせの日だった。
初めて会った時は、SPARKのボーカルとして出会った。
講堂の舞台で歌うトウマはきらきらしていてかっこ良かった。そのトウマが物語に関わっていて、物語の中で最も強いスーマの能力を持っていることを知る。
「物語に関わって、滝河さんやショウ、大野さん達と出会って…嫌なことや辛いこともあるけど、こうして仲良くなれて良かった」
麗は照れながら笑う。
こうして改めて言うと恥ずかしくなる。
周りもそれに気づいて微笑む。
「あいつらはまだ大学内にいると思うから、先に渡してくるか。お前らはどうするんだ?」
このまま話していることもできるが、来客用の入口の付近で固まっていると通行の邪魔になるかもしれない。
「ショウ、トウマ、滝河さんには皆で渡したいって思ってて、後は個々で渡しに行くよ」
麗は持っている紙袋の中を覗いて数を確認する。
「すみません、僕は用事があるので帰ります」
「あたしは部室と講堂に行って、後輩にも渡しに行きます」
真っ先に答えたのは梁木と佐月だ。
「俺も図書室に行って本を見てくる」
「私はお菓子を渡してから、礼拝堂へ行きます」
滝河と大野も答える。
「私は凛と職員室に行って中西先生に渡してくる」
「う、うん!」
さっきから凛の様子が違う。
廊下を歩いている時はいつも通りだったのに、二階に着いて梁木達に会ってから、なぜか緊張しているようだった。
今も職員室という言葉を聞いて、不安な顔を浮かべている。
「じゃあ、ここで解散だな」
「帰りは気をつけろよ」
トウマと滝河は皆に声をかけると、来客用の下足場で靴を履き替える。
「じゃあ、僕も行きますね」
梁木は足元に置いた鞄を持つと、麗を見て笑う。
「あたしも」
「麗さん、凛さん、また明日」
梁木、佐月、大野は挨拶すると、廊下を歩いていく。
「じゃあ、私達も行こうか」
「そうだね」
麗の隣で凛は胸に手を当てて大きく息を吐く。
「どうしたの?」
凛が緊張している。
麗にはそれが不思議に映った。
皆で渡して、後は中西と実月に渡す。そう話していた。
それだけなのに、まるで一仕事終えたように安堵している。
「べ、べっつに!何でもないよ!」
凛は両手を顔の前で振って否定する。
もう麗に隠し事はしたくない。
それでも、凛は心の奥に秘めていることがあった。
今年のバレンタインを意識しはじめた時から去年のことを思い出していた。
「生徒の自主性と節度ある行動は尊重するが、私はバレンタインデーという習慣を好ましいと思わないし、甘いものはあまり好きではない」
ドキドキしながら結城に渡した時、そう言われた。
バレンタインも甘いものも好きじゃない人もいる。
バレンタインだからといって浮かれていたところもあった。
結城が甘いものが好きではない。そう気づいて差し出したものを戻そうとしたら結城は受け取ってくれた。
「(今年もできたら渡したいなあ…)」
今年は受け取ってもらえないかもしれない。
でも、凛は結城に渡したいと考えていた。
誰が何人にあげるかは自由だし、授業中、誰にあげるか聞かれなかったが結城も人数に含まれていた。
凛が思案していると、後ろから声が聞こえる。
「水沢」
その声が考える前に二人は振り返った。
そこには階段を下りている実月がいた。
「実月先生!」
「どこかに行ってたんですか?」
麗と凛は実月だと分かると、実月に近づく。
いつも白衣を着ている姿しか見ていないから、白衣を着ていない姿は珍しく映る。
「あのなあ、俺が毎日、保健室にいるわけじゃねえぞ」
実月は呆れた顔で二人を見る。
当たり前だが、実月は保険医であっても常に保健室にいるわけではない。いつもではないが中等部や大学部に行くこともある。
「保健室に行く前に実月先生に会えて良かったよ」
「あ?」
保健室に行く前、ということは、保健室に行く用事があるということだ。
麗と凛は同時に紙袋からお菓子の袋を一つ取り出す。
「色々あったけどさ」
「実月先生にはお世話になったから、バレンタインのお菓子をあげたいって思ったんです」
物語に関わった時から実月は色々なことを気にかけてくれた。
実月も物語に関わっていて時の精霊だと分かり、今までの疑問が解決されて、その存在が怖いと感じても、やっぱり実月に感謝の気持ちとしてお菓子を渡したかった。
実月は少しだけ驚いていたが、麗と凛からお菓子を受け取る。
「今年はスノーボールか」
「先生、分かるの?!」
麗は驚いた。
自分達がスノーボールと聞いた時、ピンとこなかった。後で写真を見た時にようやく分かったくらいだった。
「まあな」
実月は大人だ。
自分達があまり知らないものでも、知っていることはたくさんあるだろう。
「その様子だと、まだ渡しに行くんだろ?」
『あっ!!』
実月に言われて二人は気づく。
紙袋の中にはまだお菓子がある。
もしかしたら、どこかに移動してしまうかもしれない。
「先生、またね!」
「さようなら!」
麗と凛は実月に挨拶すると、慌てて廊下を走り出した。
「職員室前は走るなよー!」
実月は手を振りつつ、注意した。
二人が走っている廊下は職員室の前だった。
「(まさか、今年ももらえるとは思わなかった。…こういう律儀なとこも似てるな)」
実月の顔は嬉しそうだった。
実月と別れた麗と凛は職員室にいた。
入口から中西の机の場所は見える。
中西はいなかった。
「中西先生なら、講堂に行ったよ」
たまたま近くにいた教師に中西の居場所を聞いてみると、そう返ってきた。
「講堂か…」
場所が分かっているなら、すぐに見つかるだろう。
「凛、どうす…」
麗は近くにいる凛に聞こうとした。
しかし、そこに凛はいなかった。
麗は辺りを見回すと、別の場所に凛はいた。
きょろきょろと回りを見ている。
凛の姿を見つけた時、凛の腕が動いたような気がする。
「ごめん、ごめん!」
凛は慌てて麗に近づく。
「中西先生、どこにいるんだろうね?」
「講堂に行ったみたい。行ってみようか?」
「うん」
用がないなら職員室にいても仕方ない。
二人は職員室を出て、講堂に向かった。
麗達と分かれたトウマと滝河は図書室にいた。
カズとフレイを探すために大学部へ向かおうとしたが、並木道で二人を見つけることができた。
去年、カズとフレイが言ったことを思い出しながらトウマは双子に告げた。
「高等部に行ったら、ファンの女の子から頼まれたんだ」
嘘ではない。
二人はそれを受け取り喜んでくれた。
それで良かったのかもしれない。
二人を見送った後、再び高等部に戻ったのだ。
「…そうきたか」
本を開いたままトウマは唸った。
ページをめくると、残りは単語や用語の一覧という文字が見える。
続きはなかった。
物語は、マーリの城を幻精卿に移した日の夜の出来事が書かれていた。
宿に向かった四人を待ち受けていたのはルトだった。
ルトの幻術によってカリルは戦意を失い、マーリは城を移したことにより多くの魔力を使って思うように動けない状態だ。
そんな中、ルトはレイナに翼があることを知っていてレイナに勝負を挑む。
ルトは大鎌と魔法を使い、レイナを倒してしまう。ルトはティムに話を持ちかけ、自分に一撃でも与えることができたらレイナを解放すると言う。
大鎌の刃をレイナの首につきつけられティムに選択肢はない。
どうすればいいか考えた後、ティムは聞いたことのない呪文を唱える。次第にそれが大きなものだと気づき、攻撃をしかけようとしたルトの前に現れたのは死んだはずのスーマだった。
ティムがスーマを召喚した。
誰もがそれに驚く。
スーマの力でルトを撃退して終わった。
「ルトは幻術で過去に殺された妹を映して、精神的に攻撃したか…。マーリも動けないところを狙ったとしたら、相当、汚い考え方だな」
滝河はあからさまに不快な顔をしながら呟く。
「高屋がこの内容を知っていたとしたら…、狙うのはレイ、凛、大野の三人だ。ルトが手にしているものが大野が持っているものと同じものなら、高屋は先ず、大野を狙うだろう」
大鎌と言えば大野だ。
地の精霊の力を得た時、本から大鎌に具現化できるようになった。
ルトが大鎌を持つ経緯は書かれていないが、大鎌を使い慣れているようにも思えた。
「俺はティムがスーマを召喚したことに驚いた。マーリは、もしものためにスーマからもらったピアスをティムに渡したんだろう」
こうなることを予想していたわけではなく、もしものための備えとして渡したと考えられる。
「純哉、お前は凛のことはどう思ってるんだ?」
「ぶっ!」
あまりにストレートな質問に、滝河は思わず吹き出した。
「あ、あ、兄貴?!急に何を言い出すんだっ?!」
「いや、物語でもマーリに思うところがあるような解釈だったから、お前はどうなのかって思っただけだ」
かまをかけたつもりはなさそうだが、滝河は狼狽えてしまう。
「……あいつも大事な後輩だ。それに、試験が終わるまでは落ち着かないだろ」
最後のほうは声が小さくなって聞き取りにくかったが、滝河は視線を反らしながら答えた。
「そうか」
茶化すわけでもなく、ただ頬笑む。
滝河の意外な反応がトウマにとっては嬉しかった。
トウマにはまだ気になることがあった。
それは、スーマのことだ。
スーマはマリスによって滅ぼされた。
それ以降は登場していなかったからもう自分は関係ないと思っていた。けれど、麗達は守りたい、そう思いながら戦ってきた。
物語で滅ぼされたはずのスーマはティムによって召喚された。スーマはサラマンドラとウィスプを召喚してルトを追い込んだ。
呪印がない今、サラマンドラとウィスプを呼び出す力はあると思っている。
物語の内容から考えて、麗か凛も接近する可能性がある。高屋は人を操る力と能力を封印する力を持っている。
危険は伴うが見過ごせなかった。
そう考えながら、トウマは開いたままの本を閉じると、ズボンのポケットから携帯電話を取り出した。
「レイ達がバレンタインを楽しんでる時に心苦しいが、物語の続きが見つかったことは連絡しておくか」
今、麗達はお菓子を渡しに学園内にいるだろう。もしかしたら、もう帰っているかもしれないが、トウマは麗達にいっせいにメールを送信する。
再び携帯電話をポケットにしまうと、片手で持っていた本を元の場所に戻した。
「大野は礼拝堂へ行くと言ってたな」
「ああ、 行ってみよう」
トウマと滝河は礼拝堂に向かうために図書室から出ていった。
その頃、大野は礼拝堂にいた。
大きな十字架の前で跪いて胸の前で両手を重ねて祈りを捧げている。
「(主よ、どうか私達を見守ってください)」
約半月後には卒業する。
卒業したら礼拝堂に立ち寄ることはなくなるだろう。
それに、まだ物語について解決されていない。ただ、何もないことを願うだけだった。
大野はゆっくりと目を開けると立ち上がって、十字架を見つめる。
この場所に来ると、気分がすっきりする。
悩んだり、不安になったりする時はよく礼拝堂を訪れていたのだ。
「さて、と」
椅子に置いた鞄を持つと、大野は歩き出した。
お世話になった教師にお菓子を渡した。
自分のバレンタインは終わった。
扉を開けようとした時、上着から伝わる震動に気づく。
「(メール?)」
上着のポケットには携帯電話が入っている。
震動の間隔によって着信かメールかを分けていて、これはメールの通知を知らせている。
扉の前で立ち止まると、上着のポケットから携帯電話を取り出した。
「トウマ様から……?…えっ?!」
短い文章だけど、大野にとっては充分に伝わることだった。
物語の続きが見つかった。
いっせいに送信したマークがついているということは、麗や凛達にも送られているだろう。
二階でトウマと滝河に会った時、図書室に行くと言っていた。
もしかしたら、まだいるかもしれない。
そう思った大野は、携帯電話をしまって図書室に向かおうと扉を開けた。
扉を開けて階段を下りると、目の前にいる人物に驚いて足を止める。
「…高屋さん」
「探しましたよ、地司」
高屋の瞳の色が変わっている。
覚醒していた。
礼拝堂には清浄な空気が流れている。少なくても、大野が礼拝堂にいた時は嫌な空気は流れていなかったし覚醒していなかっただろう。
「何の用でしょうか?」
大野は警戒する。
油断はできない。
「僕の目的は貴方ではなく、地の精霊です」
高屋ははぐらかすことなく普通に答える。
「ノームに?」
はぐらかしていないことにも不思議に思ったが、大野が気になったのは目的だった。
物語の続きとノームに何か関係しているのだろうか。
そう思っていると、大野の脳内で声が響いた。
「ヤハリ来タカ」
それがノームの声だと気づいた時、大野の身体から淡い緑色の光が現れる。それは人の形に変わっていく。
そこには、ノームが仮の器として作り出した藤堂の姿があった。
大野はノームの姿を見て驚く。
ノームはこの状況を分かっているような顔をしている。
「君が来ることは分かっていたよ、高屋君。ま、ルトが持っている大鎌が僕のものかは君が知ることじゃないけどね。君はルトが大鎌を手にしたことを読んで大野ちゃん、いーや、僕を探そうとしたんでしょ?」
ノームは真っ直ぐな目で高屋を見ている。
「そうです」
高屋は頷いた。
嘘を言っても仕方ないし、相手のペースに乗せられないためにもはぐらかさないほうが賢明だと思った。
「…ルト?大鎌?」
ノームの後ろで大野は考える。
今まで物語を読んできた中で、ルトが大鎌を手にしている内容はなかった。もしかしたら、物語の続きにそれが書かれているのかもしれない。
「前にも言ったと思うけど、僕は大野ちゃんのものだから、もう一度、力を貸してなんて言われても困るんだよねー」
あの時、地の精霊ノームと契約したのは大野だった。
去年の春にノームの気まぐれで高屋に力を貸したことがあった。その時はノームと大鎌の威力を身をもって経験したのだ。
ノームを敵にしたくない、そう思ったのだ。
大野の思惑に反してノームはニヤリと笑う。
「でも…、相良君を困らせるにはいいのかもしれない」
何か企んでいる。
大野は直感した。
「君が相良君を封印すれば都合のいいことはある」
「ちょっと待ってください!」
トウマを困らせるとはどういうことなのか。
それに、また高屋に力を貸すということなのか。
大野が声を上げると、ノームはくるりと振り返って大野の顔を近づけた。
「大野ちゃん、僕はね、君が恥ずかしがったり困っている顔を見るのが大好きなんだ」
ノームは優しく笑っているが、言っていることは普通ではなかった。
突然、ノームの顔が近づいて大野は慌てて一歩後ろに引く。
しかし、それを知っていて、ノームは大野の手首を掴んでそのまま自分のほうに引き寄せた。
「君だけの力で僕を制御できるなら止めてもいいけど、また浮気だと思うなら僕を引き留める?君が行かないでーって泣いて懇願するなら考えてあげてもいいよ?」
ノームは悪戯っぽく笑っているが、目は笑っていなかった。
それを見た大野は、ノームがまた冗談を言っていると思っていた。
人の形をしているが、精霊には人間のような心があるのか疑問を抱いていた。
「ま、その気になれば君に愛を囁くこともできるけど」
大野の身体を引き寄せたまま、ノームはチラリと高屋を見る。
「………」
高屋は不快な顔をしている。
平静を保たなくてはならない。少しでも反応すれば彼のペースに巻き込まれてしまう。
「気まぐれで遊ぶのも悪くないよね」
ノームは高屋の思惑など気にしていなかった。
いくら平静を保とうとしても、自分の言動に反応しているのは分かっていた。
掴みどころがないというか本心を見せないところはお互い様だ。
「大野ちゃん、僕がいなくても嫉妬しないでね」
「私は自分の力で戦います」
大野は毅然とした態度で答えた。
「その顔、歪ませたくなるよ」
うっとりしたような顔で言われても説得力はないが、ノームならやりそうな気がする。
大野がそう思っていると、ノームの身体は淡い緑の光に包まれる。それが高屋に移動すると、すっと消えていってしまう。
「一時的な協力、と考えていいのですかね…」
大野を困らせ、トウマに攻撃をするためという意味では意見が一致している。
力が沸いてくるのは、ノームが自分の中にいるのだろう。
高屋は大野の顔を見る。
「そんなに不安そうな顔はしていませんね」
ノームがいなくなり、不安になっていると思ったのだ。
「今までなら強大な力が消えて狼狽えると思いましたが…」
「狼狽えていないと言えば嘘になりますが、私は私の力で守る人を守ります!」
大野はまっすぐな目で高屋を睨む。
約二年前、覚醒したばかりの時の大野と雰囲気や態度が変わっていた。
「さっきも言いましたが、僕の目的は地司ではありません。…それに、目的が終わればノームは僕から離れると思いますよ」
ノームがこのまま自分に力を貸すとは思えない。
何となくだが、そう感じた。
自分に好意や興味があるわけではなく、大野とトウマを困らせるために力を貸したのだと思う。
そう考えていると、突然、目の前で爆発が起こり結界に亀裂が走る。
目の前の結界がガラスのように砕けて消えると、鈴の音が聞こえた。
「…誰かが僕の結界に侵入したようだ」
黒煙が広がり、中から二つの影が見える。
結界に侵入してきたのはトウマと滝河だった。