再生 76 照らされた時の足音
合唱会まで一週間をきったある日の放課後。
練習も終わり、凛は机の中にある教科書や筆記用具を鞄に入れて帰る準備をしていた。
一週間以内に絆創膏や包帯の数が増えている。去年も似たようなことがあったような気がする。
凛を見てそう思った梁木は、教室を出た凛の後を追いかける。
「凛さん」
梁木の声に気づいた凛は振り返る。
梁木は周りを見て人が少ないことが分かると、距離を縮めた。
「…もしかして、凛さんもファーシルさんの特訓ですか?」
去年、屋上で見た男性の名前が分からないので物語の名前で呼ぶ。
物語に関する話はあまり他の人に聞かれたくないので、話す時はできるだけ近くで話したり小声で話すようにしている。
どうして距離を縮めたか分かっている凛は、言い当てられて驚く。
「えっ?どうして知ってるの?」
凛は梁木に対しても敬語を使わなくなった。
物語に関わる仲間だから。仲良くなったから。色々な理由がある。
「去年、レイも同じだったからですよ」
凛の反応が少し面白くて梁木はくすっと笑う。
「レイも当時、切り傷や打撲があって、その時は、ファーシルさんに内緒にしておいてほしいって言われていたみたいです」
凛は自分の知らないことを知る。
あの時は学園に馴染めるかどうか分からなくて、麗の切り傷や打撲を知っていても深く聞く余裕はなかった。
「あたしもファーシル…暁さんの特訓中」
「無理しないでくださいね」
梁木は心配そうな顔で見つめる。
あれから、暁を見ていない。会うには何か条件でも必要なのか。そんなことを考えたことがある。
「うん」
凛は苦笑いで答える。
楽しい気持ちで笑えないのは、特訓が優しくないからだった。
暁から言われたのは魔力と想像力の強化。
想像力は所謂、イメージトレーニング。その物の形や重さを想像して具現化する。形を作ることができたとして、覚醒した時に使う弓矢とは違う腕力を使う。
物語でティムは弓矢の他に長剣や鞭を使っている。凛も同じように具現化しようとしている。
次に魔力。ケットシーが以前、言っていたが、サラマンドラは四大精霊の一人で、力の大きさはもちろんのこと、かなり好戦的だ。
凛が呼び出せるのは、シルフ、セイレーン、ケットシー、ゴーレム、ファントムの五体。二体同時に呼ぶことはできるようになったが、まだ長い時間維持ができない。それに、ファントム一体を呼び出すだけでも、どっと疲れる感じがする。
それに加えて、特訓は一人だ。
見るのは自由だし何も言わないが、手助けは禁止。
麗が言うには、暁と鳴尾が似てるから、ということらしい。
鳴尾はヴィースの能力者であり、戦いの途中に邪魔をされるのが嫌なところも似ているらしい。
「それで、今日も特訓ですか?」
「今日はないよ」
特訓する日は毎日ではない。学校行事を把握しているのか、合唱会の練習や体育祭や学園祭の話もあるのと、一度に鍛えても無理に負荷がかかので一日おきになっている。
「最近、近況を話してないから、実月先生のとこに行こうと思ってる」
梁木は凛の特訓があればついていこうと思ったが、保健室に行くのであればこのまま帰ろうと考える。
「凛?ショウ?」
声が聞こえた方を向くと、後ろから麗が近づいてきていた。
「姉さん」
「レイ」
凛と梁木は麗に気づくと手を振った。
「凛、今日は特訓じゃないの?」
「レイは知ってるんですか?」
梁木は麗に質問する。
「知ってるというより、私と凛が屋上に行った時に暁さんと会ったんだよ」
「そうだったんですね」
凛が暁の特訓を受けているという話は聞いたが、いつ、他に誰がいたかまでは聞いていなかった。
「今日はないんだ」
「何の話をしてたの?」
「特訓がないから、久しぶりに、実月先生のとこに行こうと思ったの」
「そっか。私も行こうかな」
合唱会の練習が終わったタイミングは同じだったようだ。
「姉さん、大野さんは?」
同じクラスだからと言って、いつも一緒にいるわけではないと思っていても、凛は友人の名前を口にする。
「今日は用事があるから、放課後、すぐに帰ったよ」
合唱会まで日にちは迫ってきたが、毎日、強制参加ではない。
麗も加わり、三人は廊下を歩いていく。
「実月先生って不思議な人だよね」
保健室に行くと聞いて、話題は自然と実月になる。
「思えば、私が覚醒する前、図書室に現れた獣に襲われた時、保健室に逃げてきてから色々教えてくれてさ」
「あたしが覚醒する前も、気にかけてくれたなあ。保健室もいつもっていうわけじゃないけど結界が張られてるし、結界って作っている人の力にもよるんでしょ?」
結界を作れたとしても、能力者の力が弱ければ脆く崩れてしまう。
前に実月が話していたような気がする。
梁木も二人の話を聞きながら頷いている。
覚醒した時期はそれぞれ違うが、実月は物語や力について色々と知っているし、保健室にいた時に敵に襲われたことがない。
何度も保健室に行っているのに、一度もなかった。
「保健室にいても敵がこないし、精霊は普通に呼べるし、先生って誰の能力を持ってるんだろうね?」
凛の一言で麗と梁木の足が止まる。
それは皆が気になってることだった。
あれから、 物語の続きは書かれていないが余白はまだ残っている。
誰の能力を持っているか分からないが、自分達が覚醒した時はすでに能力者だった。
『………』
三人は顔を見合わせる。
三人が保健室を訪れると、そこには佐月がいた。
「佐月さん?」
「凛様?」
扉を開けて、佐月は扉の近くにいた。来たばかりのか帰るところなのかは分からない。
「実月先生、今、忙しい?」
麗が凛の横から顔を出して、中を見る。
「あー?いいぞー」
姿は見えないが、奥から実月の声が聞こえる。
何かが吹く音と回る音がする。
それを確認すると、三人は中に入る。
「佐月さんも先生に用事?」
「はい、怪我をしてしまったので消毒してもらったんです」
佐月の手のひらには大きめの絆創膏が貼られている。
「待たせたな」
少しすると、奥から実月が現れる。両手を使ってグラスを五つ持っていた。
「まあ、座れ。佐月も時間があるなら茶でも飲んでいけ」
『はーい』
麗と凛は返事をして椅子に座り、梁木と佐月も空いている椅子に座る。
実月は四つのグラスをテーブルに置くと、残りの一つを自分の机の上に置く。
「で、どうした?」
グラスに入っている麦茶を一口飲むと、机の上に置いて麗達を見る。
「先生、何かやってた?」
「小休憩だ」
実月は笑いながら、右手の人差し指と中指で何かを挟む動作をする。
それが何を表しているか分かった麗は複雑な顔をして実月に聞く。
「…実月先生はここで煙草を吸ってるよね?」
「その割には煙草臭くないよね?」
麗の後に凛も続く。
煙草を吸っていると聞いていても保健室の中は臭わないし、擦れ違った時にも全く臭わない。余程、徹底的に消臭しているのだろう。
「ああ、吸うって言っても毎日じゃないし、吸う時はほとんどあっちで吸ってるからな」
実月は保健室の奥を指差す。
指を差した場所は換気扇の下だった。
「当たり前だが、学園内は限られた場所以外は喫煙禁止だからな」
笑って答える顔は悪さをするような少年のようだ。
つまり、公認ではないから内緒にしてほしい。四人にはそう言っているように見えた。
「後、お前らは吸うなよ」
「吸いませんって」
麗達は苦笑する。
未成年だから吸わないし、高等部で隠れて吸っている人を見たことがない。それくらいの分別はついている。
「先生、さ」
「あ?」
話が落ち着いたところで、凛は真剣な顔で実月を見る。
「一体、誰の能力を持ってるの?」
凛の後に、麗と梁木も口を開く。
「私が初めて怪物に襲われた時、実月先生は私とユーリの携帯をいじってパソコンと繋げていたけど、あれはなんだったの?携帯を握ってイメージすると武器が出てくるって言ったけど、今では意識するだけで剣は出てくるし」
「一昨年の舞冬祭、レイが高屋さんによって操られた時、カズさんとフレイさんに壊してもらって入れた結界に実月先生はいた。去年の二月、レイ達が久保姉弟と戦った時、保健室にいたはずなのに、いつの間にか僕のの背後に立って翼を出した」
麗と梁木の視線が実月に向けられている。
「バレンタイン後に保健室に行った時、精霊を召喚したことを話した時もいつの間にかシルフがいたし。あ、後、たまに保健室の外にいるカラスも気になる」
それまで話を聞いていた佐月も意を決して話す。
「あたしも麗様達と同じです。実月先生には違和感があります。やっと分かるようになりましたが、保健室の結界はかなり強力です」
佐月の真っ直ぐな視線が実月をとらえる。
四人に視線を向けられた実月は、少しだけ考えるとフッと笑う。
「(強くなったな)」
ほんの一瞬、実月の瞳が海のような深い青色に変わる。
実月が口を開く。
その時、どこからか時計の針の音が聞こえてくる。
時計の針の音はカチカチと響き渡り、まるで時が止まったような錯覚を覚える。
麗達はピクリとも動かない。
実月は椅子から立ち上がり、空になったグラスを持つ。
時計の針の音が止み、実月の瞳の色が元に戻る。
「あれ?」
「実月先生」
麗達が気がつくと、実月は立ち上がって保健室の奥にあるシンクに空いたグラスを置いていた。
凛と佐月はキョロキョロと辺りを見回している。
何かあった。
でも、気のせいかもしれない。
「今、言っただろ?俺は一回しか答えないからな」
麗と梁木は顔を見合わせる。
聞こえなかったが、もしかしたら聞き逃したのかもしれない。
実月が一回しか答えないということは、聞き返しても答えてくれるかどうかも分からない。
四人が考えていると、実月はまた机に戻り、一番上の引き出しを開けてやや厚いファイルを取り出す。
「あー、また近いうちに俺はいなくなるからな」
実月は常勤の保険医ではない。
以前、中等部や大学部に行って研究や講義の手伝いをしていると話していた。
前から何度かあったので、そこまで心配していなかった。その時には、代わりの養護教諭が来ている。
「今から打ち合わせがあるから、まだ話があるなら今度にしてもらえないか?」
「あ…」
「はい」
もう一度、答えを聞きたいというのと、まだ話をしたいという気持ちはあったが、打ち合わせがあるなら長居はできない。
歯切れの悪い返事をすると、机の上に置いてあるお茶を飲んでから椅子から立ち上がる。
麗と梁木はそのまま扉に向かって歩いているが、凛と佐月は後ろを振り向いて実月を見る。
「どうした?」
それに気づいた実月は首を傾げている。
「いえ…」
「何でもないです」
凛と佐月も後ろ髪を引かれる思いだったが、麗と梁木の後に続いて保健室から出ていった。
四人が保健室から出た後、実月は誰もいない保健室の扉を見つめる。
「(やっぱり水沢の妹と佐月は気づいたな)」
ほんの少しの力でも気づく人はいる。
自分でも気まぐれだと思っている。
再び瞳が深い青色に変わる。
机の上に置いてあるパソコンの画面には、大きさの違う歯車が映し出され、その歯車が動き始める。
白衣のポケットから煙草とライターを取り出すと、一本取り出し火をつけた。
煙草を吸い、ゆっくりと息を吐く。
「さ、始めるか」
いつの間にか、実月の後ろには伊夜と鵲が佇んでいた。
保健室の外の木の幹には一羽のカラスが羽を広げて鳴いていた。
それから三日後。凜は屋上にいた。
扉を開けて中央に進むと、どこからか炎が現れて屋上を覆うように広がっていく。
凜の瞳の色が変わり、首には黄金色のネックレスがかけられる。
「あれ?」
一人でいる時、覚醒したかどうか分かるようにネックレスに触れる癖がついた。
ネックレスがあれば見えなくても結界が貼られていると思えるし、瞳の色が変わっているだろうと思える。
いつものようにネックレスに触れると、いつもと違う。
ネックレスを見ると、先端はただの丸い形だったが、大きさはそのままで小さな時計を模した形になっていた。
「いつもと違う…?」
凜はいつもと違うことに不安を覚える。
意識を集中させると、ネックレスは形を変えて剣に変わっていく。
「よし、大丈夫」
剣を握ると、しっかりと厚みや重みを感じる。
約十日前は弓矢以外の形に変えるのも難しかったが、暁のおかげで他のものに変えても維持できるようになった。
教えてもらったように剣を構えて、上下に振る。
「私が教えたことはできてるな」
凜の背後から声が聞こえ、それと同時に突き刺さるような視線と殺意を感じる。
それが誰か分かる前に、凜は勢いよく振り返り剣を上段で構えた。
「!!」
一瞬で剣に重みが圧しかかり、凜は歯を食いしばり剣を握る。
目の前には、凜が持つ剣より幅の広い大きな剣を振り下ろしていた暁がいた。
「私の殺気に気づけるようになったが、私は半分の力も出していないぞ!」
大きな剣と凜の持つ剣、どちらが重いのかは目に見えている。
「(あたしが精一杯力を出していて、やっと暁さんの剣に耐えられるのに…!)」
暁は半分の力も出していないと言う。
全ての力を出したらどうなるのだろう。
暁は大剣を振るう手を止めなかった。
凜は懸命に暁の攻撃を受け止めながら、反撃する機会を伺う。
剣と剣が交わり、暁が凜から間合いをとると、凜は声を上げる。
「シルフ!」
凛の声に反応するように、頭上に淡い光が浮かびあがり魔法陣が描かれる。
周りに風が巻き起こると、魔法陣からシルフが現れた。
「(言葉を出さずに伝えるイメージ…)」
以前、ケットシーが意思を読み取って行動すると言っていた。
言葉を出さずに伝えることができたら、行動が読み取られないのではないかと考えるようになったのだ。
「(空を飛びたい)!」
凜の意思を読むように、シルフは両手をすくうように上げる。
すると、凜の背中に風が集まり、翼のような形に変わる。
それが羽ばたくように動くと、凜の身体は宙に浮いていく。
その間に、凜は頭の中でイメージしていく。
剣が弓矢に形を変え、凜は剣を振り上げようとする暁が目に入る。
「ケットシー!」
「おう!」
凜の頭上が光り、ケットシーが現れる。
ケットシーは凜の頭に登り、器用に後ろ足で身体を支えて両前足を上げる。
剣は弓矢の形に変わり、凛は素早く構えると羽を持って矢を放つ。
それと同時にケットシーの頭上に光り輝く玉が現れ、凜が放った矢に向かって放たれた。
光を帯びた矢は加速しながら分裂すると、暁に向かっていく。
「想像力と魔力の質は良くなったな」
暁がにやりと笑うと、振り上げた剣を下ろした。すると、風を切るように剣から炎が吹き出す。
「サラマンドラ!!」
暁の剣から吹き出した炎からサラマンドラが現れ、両手を広げると、虚空から幾つもの炎が現れる。
炎は光を帯びた矢を消してしまい、凛に向かって広がっていく。凜のやや上にいるシルフが右手を肩のところまで上げると、風は渦を巻いて吹き荒れ、炎に向かっていく。
風が炎を包み込み消えていこうとするが、炎の勢いは衰えず、風は飲み込まれてしまう。
「!!」
凜は驚き、再び自分に向かってくる炎を避けようと風の翼を広げる。
「炎を消さないと!」
風の翼を広げて炎を避けるが、炎は軌道を変えて凜の後を追う。
複数の精霊を呼び出すには負荷がかかる。今のところ維持するには二体が限界だ。
凜の意思を読み取ったようにケットシーは消えていく。
凜は振り返ると、その場に留まりその名前を呼ぶ。
「ディーネ!!」
凜の真下には青色の魔法陣が浮かび上がり、霧のような蒸気が吹き出した。それは人の形に変わり、水の精霊ディーネが姿を現す。
「炎を消して!」
凜が伝えると、ディーネは両手を前に出した。
そこから水の波が現れる。
ディーネの放った水が炎を包み、炎を消すと蒸気に変わっていく。
蒸気に隠れてサラマンドラがディーネと凛に向かって突き進んでいた。
サラマンドラの周りに巨大な炎が生まれ、凜は避けようとする。
しかし、巨大な炎は凜を囲んでしまう。
「(速い!間に合わない!)」
ディーネが巨大な炎を消そうと動いた瞬間、屋上の扉が大きな音を立てて開かれる。
炎が間近に迫り来る中、扉が開く音に反応して凜は扉を見る。
そこには滝河が立っていた。
「滝河さん?!」
滝河の瞳は薄い水色と深い青色だった。
「!!」
滝河は凜を見ると、足元に青い魔法陣が浮かび上がる。
両手から渦が現れると次第に大きくなっていく。
「タイダルウェイブ!!」
言葉を発動させると、巨大な渦は滝河の手から離れてサラマンドラに向かって加速する。
渦は滝のように上から下に叩きつける。その間から長剣を構えた滝河が現れた。
滝河が暁に向かって剣を振り上げようとしたその時、ようやく現状を理解する。
「あ……!」
目の前の相手が誰なのか。
気づいた時には斬りかかっていて引くに引けなかった。
暁の笑顔が引きつり、こめかみがピクピクと動く。
「馬鹿が」
凜を囲む巨大な炎は軌道を変えて滝河の背中に直撃し、暁は斬りかかる滝河の剣を剣で受け止めると、思いきり力を込めて弾き返す。
「!!」
一瞬のことで避けることが出来なかった滝河は、声を上げることもなく飛ばされてしまう。
吹き飛ばされた滝河の身体は地面にぶつかり、動かなかった。
それを見ていた凜は何が起きたか分からず、宙に浮いたまま滝河を見る。
ゆっくりと地面に降りると、剣はネックレスの形に戻り、ディーネの姿が消えていく。
初めて屋上で暁と会った時、一緒にいた麗は手助けすることを拒んだ。
理由は聞いていたが、改めてその言葉の意味を痛感する。
手助けしてくれたほうが嬉しいが、もしも、暁の言葉を無視して他の誰かが手助けをしていたら。
凜は視線を落として、横たわる滝河を見て息を飲む。
震えるように身体が動くということは、気を失っていなかった。
暁の言葉を身をもって知ることになった。
「う……」
全身に傷を負い、背中には黒く焦げた痕が残る。滝河は痛みに耐えながら目を開ける。
目の前に暁の足元が見え、顔を上げると呆れた顔で滝河を見下ろしていた。
「そのオッドアイはディーネの力を得たか…。それなのに、静の教えにはまだ程遠い。状況認識は甘いし、冷静を欠くと命取りになるぞ」
「…はい」
痛みで言葉が出ないのか言い返せないのか、滝河はただ一言答える。
相手はヴィースが師と仰ぐファーシルの能力を持っている。物語の中で戦う描写はないが、ヴィースがたじろぐということは恐れられていると思われる。
滝河の傷を癒そうと思い、凜は近くにいるシルフを見る。
「シルフ」
名前を呼ばれたシルフが頷くと、シルフは右腕を上げる。
シルフの手から小さな風が吹いて滝河の身体を包むと、全身の傷が癒えていく。
傷が癒えたのと同時に身体が動くのが分かった滝河は、ゆっくり立ち上がる。
「水沢…」
滝河は振り返って凜の顔を見ようとするが、自分がしたことを思い出して視線を反らしてしまう。
呆れた顔で滝河を見ていた暁は凜をほうを向く。
「特訓は終わりだ」
そう言うと、隣で佇んでいるサラマンドラを見た。
それまで佇んでいたサラマンドラは流れるように移動すると凛の周りを回る。
サラマンドラが両手を上げると、突然、凛の真下から炎が吹き出してて、凛の身体全体を覆っていく。
「!!」
自分を覆う炎に驚きながら辺りを見回すと、前にも同じようなことがあったと思い出す。
「これ…静さんの時と似てる」
水の精霊ディーネの力を手にした時、水に囲まれ、それが消えた後、静とディーネの姿が消えていた。
凜が目の前の炎に触れようとした時、炎は燃え上がり、ネックレスの中に吸い込まれていく。
炎が吸い込まれて消えると、目の前にいたはずの暁とサラマンドラの姿は消えていた。
「消えた…」
心に激しい炎が灯ったような感覚だ。
サラマンドラも呼び出せるようになったかは分からない。
いつの間にか屋上を囲っていた炎も消え、少しすると首にかけられているネックレスが消えていく。
「水沢」
名前を呼ばれた凜は滝河を見る。
滝河の瞳も元に戻っていた。
「情けないとこを見せてしまったな…」
あの時は夢中で戦っていたので、ちゃんと理解できていなかった。
「屋上から強い力を感じて扉を開けたら、水沢が巨大な炎に囲まれていて…、気づいたら飛び出していた」
滝河は自分が狙われていると思ったのだろう。
それは間違いないのだが、暁に特訓してもらっていることは滝河は知らなかった。
「あ、いえ。あの状況だと、あたしが襲われてるって思われても仕方ないですから」
事情を知らなければ襲われてると思われても仕方ない。
「…その」
滝河は困ったような表情で少し視線を反らず。
「梁木や大野のように気兼ねなく連絡しても構わない…」
連絡先は知っているものの、滝河は大学生だ。同じ敷地にいるが高校生と大学生では授業の時間も違うし、生活も違う。
凜は今回の出来事について滝河に話していなかった。
困ったようなむくれたような表情なのは、連絡しなかったからだろう。
そう思った凜は、頷いて答える。
「分かりました」
それを聞いて安心したのか、滝河はほっとする。
「そういえば、どうして屋上にいるんだ?合唱会の練習か?」
滝河は凛に質問する。
合唱会と聞いて、凜は重要なことを思い出す。
「あ、全然練習してないっ!!」
合唱会まで後、一週間。それなのに、特訓のことばかり考えていて、あまり歌の練習をしていなかった。
本番までに練習したいところがある。
凜は出入口の側に置いた鞄を持つと、扉を開けて校舎に入ろうとする。
「おい、どうした?!」
滝河は慌てる凛を追いかけていった。
炎は消えたはずなのに、まだ耳は赤かった。