再生 69 シンパシーの深淵
梅雨が明けると夏がやって来る。
二週間もしないうちに夏休みが訪れる。本当なら期待に胸を膨らませたいところだ。
けど、心の底から喜べないのは、進路や受験という高校三年生にとって避けて通ることがないものがあるからだった。
チャイムが鳴り、担任の教師がテスト用紙を回収して教室を出ると、あちこちで溜息が聞こえる。
「…終わった」
それまでの勉強疲れと、テストが終わった解放感が込み上げてきて麗は机の上に突っ伏す。
テスト勉強から解き放たれて一息ついているのは麗だけではなかった。周りの生徒も、受験や進路はあるものの夏休みを前に嬉しそうな顔をしていた。
テストが終わり、約一週間後には夏休みが待っている。
「お疲れ様です」
上から声が聞こえたので身体を起こすと、そこには鞄を持った大野が立っていた。
「大野さんもお疲れ様」
大野の顔が穏やかなのはテストが終わって、張りつめていたものがほどけたのかもしれない。
麗は横にかけてある鞄を手にすると、大野と一緒に教室から出ていく。
「来週にはテストが返ってきて、何もなければ夏休みだね」
「はい。今回は予想していた部分が多かったので大丈夫だとは思いますが、高校三年の期末テストと考えると、気は抜けませんね」
中間テストと比べると期末テストは教科が多い。それと合わせて、来年には受験を控えている。自ずとテストの結果はいつもより気になるところだった。
「そうだね。物語の続きも気になるけど、先ずはテストの結果、夏休みに入ったら学校説明会もあるし、中々、図書室に行けないよね」
最後に物語の続きが書かれたのは四ヶ月前の三月。それ以降、続きは書かれていなかった。
テスト勉強を始めた半月前には図書室にさえ行くことができなかった。
「授業の一環で図書室に行っても、物語の続きは読めませんしね」
授業で図書室に行くことはあるが、本を探すことはできても他のクラスメイトが見ていると思うと読むことはできなかった。
去年の今頃は、トウマがシェイドによって身体を乗っ取られ、悠梨が風の精霊シルフだと分かった時だった。
あれから一年が経とうとしている。
「そういえば、麗さんは大学部の学校説明会は行くんですか?」
「うん、凛と行くよ」
大野は麗の顔を見て問いかける。
この時期、すでに様々な大学や専門学校で説明会が行われている。実際の授業を見たり、高校にはないものを体験できるためか、まずは少しでも気になる学校の説明会は参加しておきたいと考えるようになった。
「私は…その日は別の学校の説明会です」
麗達と一緒に行けないと分かり、大野は少しだけ困った顔をする。
気になる学校は行きたい。それは大野も同じ考えだった。
一つの学校で説明会は一回きりではない。それでも知っている人がいるだけで心持ちは違う。
「大学部の説明会はまだあるから大丈夫だよ。別の学校で行ける時は一緒に行こう」
同じ敷地内にある大学だけでも遠く高く感じる。
他の学校も同じなのだろうか。
そう思うと、知っている人がいたらいいなという気持ちは理解できる。
「学校説明会に受験勉強…受験生だから仕方ないけど、ちょっとは息抜きしたいかなー」
「そうですね」
大野はクスッと笑う。
受験生でも、これから大変でも、息抜きしたいのは変わらなかった。
二人が歩きながら階段を下りていると、見慣れた後ろ姿を見つける。
「ショウ」
麗が声をかけると、梁木はその場で立ち止まって振り返る。
「レイ、大野さん」
「テストお疲れ様」
「二人もお疲れ様です」
梁木もいつもより疲れているような気がするのは、テストが終わったのと、これからのことを考えているからなのかもしれない。
麗は何となくそう感じた。
「凛は帰っちゃった?」
麗は梁木と同じクラスにいる妹のことを聞く。
常に一緒にいることはないと分かっていても、凛のことを考えるのは普通だった。
「いえ、何か気になることがあるから図書室に立ち寄ると言っていました」
「図書室に?」
梁木の答えに対して、麗は首を傾げる。何か調べものがあるのか物語の続きのことかは分からないが、一人で行っているのなら心配だ。
「はい。行きますか?」
梁木も麗が心配すると分かっていて、階段を下りて三階で再び足を止める。
「…そうだね」
ほんの一瞬だけ考えたのは、物語以外のことで図書室に行っているかもしれないし誰かが一緒にいるかもしれないと思ったからだった。
一人なら安心だと言い切れないが、凛が全く力がない訳ではなかった。
以前よりは心配しなくなったのかもしれない。
「すみません、私は用事があるので今日は失礼します」
大野は梁木の言葉を聞いた麗が図書室に行くと思い、先に告げる。
「あ、ごめん」
「立ち止まって話してしまいましたね」
三階に着いて、何となく話を続けていたので大野に用事があるとは知らず、麗と梁木は大野に謝る。
「いえ、気にしないでください。では、また来週」
大野はあまり気にしていない様子で笑い、小さく頭を下げると階段を下りていく。
「ショウは?」
梁木が階段を下りないということは急いで帰る理由がないと思うが、麗は梁木にも確認をとる。
「テストも終わりましたし、用事はないので僕も図書室について行きます」
「うん」
麗の後について梁木も廊下を歩く。
「こうして、三階の廊下を歩いてると懐かしい感じがするね」
三階は二年生の教室がある。去年、同じクラスだった二人はよく一緒に廊下を歩いていた。
「…そうですね」
ほんの少しだけ答えるのが遅れたのは、麗のうなじを見ていたからだった。
「(…あれは見間違いだったのかな?)」
高屋の力によって麗が操られた時、麗のうなじにピンク色の模様が見えたような気がした。
しかし、その後に見た時は何もなかった。
自分の見間違いかもしれない。
そう思いつつ、梁木は麗の隣に並んで図書室に向かう。
およそ十分前、凛は図書室にいた。
テスト直後なら敵に狙われないかもしれない。確証もないことを考えながら、ホームルームが終わった直後に教室を後にした。
「思った通り、人は少なさそう」
奥に進み、目的の場所に向かう。
その場所で足を止めて見上げると、深い緑色、赤色、濃い青色の三冊が目に入り、その中の濃い青色の本を手にする。
本を開いて、先ずは続きが書かれているか確認する。
「…まだ続きはないか」
ほんの少しだけがっかりしたのは、最後に物語の続きが書かれてから四ヶ月、続きが書かれていてるかもしれないと思ったからだった。
凛は余白部分からパラパラとめくっていく。
「あった」
本を見にきた理由は、物語の中でマリスがディアボロスを召喚した呪文を見直すためだった。
「…長くないから大丈夫かな」
前に読んだ時は物語の続きを読むということに意識を向いていたが、今は違う。
呪文だけなら覚えていられそうだ。
そう思いながら本を閉じようとした時、遠くで物音が聞こえる。
「?!」
それに気づいた凛は音が聞こえた方を見る。
しかし、凛の目の前には何もなかった。
「何か這うような音が聞こえたんだけど…」
振り返った時に胸元に何かがあることに気づく。
「あ」
胸元を見ると、首には金色のネックレスがかけられていた。
瞳が鮮やかな青色に変わる。
それは覚醒してるということだと気づくと、辺りを見ながら警戒する。
「ひとまず図書室から出よう」
何もないことを確認すると、とりあえず手にしている本を戻そうとする。 本棚に本を納めた時、本棚の上から何かが這うような音が聞こえ、それに気づいた凛は本棚の上を見る。
本棚の上に黒い影がズズズと音を立てて動き、そこから手が伸びると凛の手を掴もうとしていた。
「!!」
それに驚いた凛は思わず手を引っ込めて後退りする。
黒い影には見覚えがあった。
「あれは…ファントム!」
急いで本棚から離れると、ネックレスを掴む。
「ケットシー!」
「おう!」
ネックレスが光ると、中からケットシーが現れた。
ケットシーは凛の前で尻尾を立てて威嚇している。
「また現れたんだな!」
「うん!」
黒い影は本棚から床に移動すると、不規則に動きながら凛に襲いかかる。
凛は黒い影を避けながら本棚の間を走り、机が並ぶ場所が見えると椅子に足を乗せて机の上に乗る。
「(あーっ!机の上に乗っちゃった…。でも、ファントムは不規則に動くし、避けなきゃいけないし…)」
机の上に乗ってはいけないことは分かっている。ほんの少し躊躇したが、自分の影の中に入られたら、また影から手が伸びて自分の首を絞められるかもしれない。
凛はそれを恐れていた。
「弓矢で攻撃しても効かないし、どうしよう…」
天候や場所に関係なく光があるなら影がある。
影を作らないようにするにはどうすればいいか考える。
黒い影は逃げるケットシーを追いかけている。机の上に乗っていると、黒い影とケットシーがどこにいるか分かった。
凛の中である考えが浮かび上がる。
できないかもしれないけど、うまくいけば何か変わるかもしれない。
凛は考えた末にネックレスを握ると、大きく息を吐く。
「冥界の門を開け放たれしや……」
凛の足元に真っ黒な魔法陣が浮かびあがった瞬間、凛は目を見開いて言葉を詰まらせる。
動けなくなるくらいの悪寒が身体中を駆け巡り、冷や汗が噴き出した。
「(…駄目っ!!)」
吐き気と眩暈が襲い、心臓を掴まれるような激しい痛みが身体を支配していく。
まるで、背後に誰か立っていて口を塞がれ、そのまま引きずり込まれるような感覚だった。
本能が拒絶している。
これ以上口にしてはいけない。
「凛!!」
意識が離れていく中、ケットシーの声で意識を取り戻す。
気づいた時には黒い影は机の上に移動していた。黒い影から手が伸びて凛の足首を掴もうとしていた。
ケットシーは素早く移動して机の上に乗ると、凛の制服の襟元をくわえて力いっぱい引っ張った。
「うわっ!!」
後ろから引っ張られて驚いた凛は机から落ちて椅子に座ってしまう。
凛が何かを言う前に、黒い影は凛の影に潜り込もうとする。
「シルフ!!」
凛は名前を呼ぶとネックレスが光り、そこからシルフが現れる。
シルフはファントムを睨むと、下から上に右手を動かした。
すると、凛とケットシーは風に包まれて宙に浮かび上がる。
黒い影は人の形に変わると、凛とケットシーを探すように左右に動いている。
真下を見ると自分達が浮いていて影ができていないことが分かると、ケットシーは凛の頭によじ登って一喝する。
「何してるんだ!!精霊や妖精は全てが協力的じゃないんだ!自分より強いものを呼び出して、失敗したら自分に降りかかるんだぞ?!」
「…ごめんなさい」
さっき覚えた呪文を唱えようとした。その結果、呪文の唱えるより先に身体が拒否反応を示した。
あのまま言葉を続けていたらどうなっていたか分からない。
ケットシーが引っ張って動かしてくれなかったら、今頃、自分の影にファントムが入り込み、また影が自分の首を絞めていたかもしれない。
今の自分にはディアボロスを召喚することはできないし、自分より強いものを呼び出すには力と覚悟が必要となる。
それを痛感した凛は素直に謝った。
凛とケットシーが話していると、黒い人影は再び床に潜り、本棚の影に入っていく。
すると、本棚はガタガタと揺れて凛とケットシーに向かって倒れてくる。
「!!」
急いで離れないと本棚の下敷きになってしまう。
凛はシルフに離れるよう伝えようとした。
しかし、それより早く宙に浮いている身体は移動していく。
「えっ?」
何も伝えていないのに身体が動いている。
それに驚いた凛は隣にいるシルフを見た。
シルフは微笑み、凛の頭にいるケットシーが前足を上げて答える。
「おいら達はお前の意思を読み取ることもできる。全部できるわけじゃないけどな」
「意思を読み取る…」
言葉で伝えなくても伝わるなら相手に自分の行動を読み取られずに済むかもしれない。
それに、逃げていても結界から出られるわけではない。
「(やってみよう!)」
ある考えを思いつき、凛は念じる。
何かに気づいたシルフは困ったような表情で手を上から下に動かす。
凛とケットシーを包んでいた風が消えると、再び机の上に降り立つ。
それに気づいたのか、動いていた本棚は止まり、本棚の影から人の形をした影が動く。
「凛、どうするんだ?」
「ケットシー、シルフ、あたしに力を貸してほしい」
ケットシーは自分のことを光の眷属と言っていた。どんなことができるか分からないが、逃げていても変わらない。
黒い影は這うように動き、凛の場所を知っているように机の上に移動する。
「来たぞ!」
それを見ていたケットシーは器用に後ろ足で身体を支えて両前足を上げる。
黒い影が凛の影に潜り込み、影から両腕が伸びて凛の首を狙う。
「(光が多ければ影は小さくなるはず!)」
ネックレスは弓矢の形に変わり、凛は素早く構えると羽を持って引くて矢を放つ。
それと同時にケットシーの頭上に光り輝く玉が現れ、シルフの周りに風が巻き起こる。
風が光の玉を包み、凛が放った矢と合わさると矢が分裂して黒い影に突き刺さった。
黒い影は苦しむように激しく動き、影が薄くなると小さくなってネックレスの中に吸い込まれていく。
黒い影がいなくなったことが分かると、凛は額から流れる汗を拭い一息吐いた。
「よくやったな!」
「うん!」
弓矢はネックレスに変わり、凛の首にかけられる。
凛の頭に乗っていたケットシーは机に下りて凛を見る。
「四大精霊に比べて光と闇は魔力の負荷が大きい、もちろんおいらもだぞ。ファントムは闇の眷属だ、呼び出す時は気をつけろよ」
「四大精霊って?」
二体同時に召喚するのはまだ鍛練が必要だ。ファントムがネックレスの中に入っていったということは召喚できるということだろう。
息を整えながら、聞きなれない言葉を口にする。
「水の精霊ディーネ、火の精霊サラマンドラ、地の精霊ノーム、風の精霊シルフ、これが四大精霊だ。その他にも精霊はいるぞ」
他にも、ということは光と闇の精霊にもそれぞれ名前があるのかもしれない。
そう考えていると、後ろから扉が開く音が聞こえ、こちらに向かって走ってくる。
「凛!」
名前を呼ばれて振り返る前に、ケットシーとシルフはゆっくりと消えていく。
振り返ると、麗と梁木が近づいていた。
「姉さん、梁木さん」
麗と梁木の顔を見た凛は安心したように胸に手を当てて息を吐く。
「どうしてここに?」
「…凛、どこに乗ってるの?」
麗は驚きつつ凛の足元を指す。
「………あーーーっ!!!」
麗と梁木の顔を見た後、凛は自分の足元を見る。
ファントムと戦っていて気にするのは後回しにしていたが、凛は机の上に乗っていたままだった。
「あ、あっ、あの…これは、そのっ…!」
凛は慌てながら急いで机から下りる。
結界はすでに消えているが、他に誰もいなくて本当に良かった。
心からそう思いながら、凛は麗と梁木に今までのことを話すのであった。
期末テストが終わり、情報処理室にいた神崎は職員室に向かう前に生徒会室に立ち寄る。
生徒会室の扉を開くと、そこには思わぬ人物が佇んでいた。
うっすらと透けた身体を纏う黒いローブ、黒い髪と尖った耳、左のこめかみ辺りには太い角が生えている。
どうしてここにいるか分からない。
「一年ぶりだろうか」
驚きや恐怖を隠しながら、神崎は扉を閉めて中に入る。
「闇の精霊シェイド」
生徒会室の中心にある楕円形の机に近い場所にシェイドが立っていた。
「オ前ニ聞ク。正義トハ何ダ?」
シェイドはふわりと宙に浮かぶように飛ぶと、神崎の前に立つ。
「地位ヤ名誉、名声、富、人間ト言ウモノハ目ニ見エナイモノヲ欲スル。実ニ下ラナイ」
シェイドは何もせずに神崎を見ている。
それだけでシェイドが威圧しているのが分かるくらいだった。
約一年前、シェイドはトウマの身体を乗っ取って生徒会室を訪れていた。
その時の感覚を思い出しながら神崎は答える。
「正義とは、己が正しいと思う信念であり定義である」
観点が違えば正義は変わる。
それでも自分が貫きたいものがある。
「私が望むのは学園の椅子だ」
少しでも動いたらシェイドに攻撃されてしまうかもしれない。
そんなことを頭の隅で考えながら、神崎は天井を指差す。
「この学園の椅子、即ち、学園長の座だ。学園長がいない今、私が学園を支配する」
生徒会室の上には白百合の間がある。
白百合の間。生徒達の間ではそう呼ばれているが、正式な名前は学園長室である。いつの頃からか扉には鍵がかかっていて中に入ることはできないし、誰かが出入りしている様子もない。
また、透遥学園は学園長の名前があっても、殆どの人がその姿を見ていないという。
実際に式典等の公の場所は副理事長が出ている。
「今、そこに何があるのか私は知りたい」
「ホウ…」
自分と言う存在を前にしても怯んでいない神崎を見たシェイドは天井を見上げる。
「確カニ、コノ上カラ忌ムベキ力ヲ感ジル」
不快なものを見るようにシェイドの顔が歪む。
天井を見ていたシェイドは神崎の目を見る。
「イイダロウ、興味ヲ持ッテヤル」
そう言うと、シェイドの身体は床に潜って消えていってしまう。
「光ハ闇ニ飲ミ込マレル…」
シェイドがいなくなり、何も起こらないと思っていたが、神崎は以前とは違う空気に胸を押さえる。
「…身体が重くのしかかる感じがする」
貧血ではないし体調不良でもない。
もし調子が悪いなら、生徒会室に入る前に気づいているはずだ。
けれど、何か形容しがたい違和感がある。
それが何か気づくのは、もう少し先のことである。
「………」
職員室に戻った結城は、突然、後ろを振り返る。
急に名前を呼ばれたような気がして振り返ったが、そこは見慣れた壁しかなかった。
「…前にもこんなことがあったような気がする」
以前も自分を呼ぶ声が聞こえて振り返り、何もなかったことを思い出す。
特に気にする様子もなく、結城は自分の机がある場所に歩いていった。