再生 68 忍び寄る闇の手
六月になり、梅雨入りすると、じめじめたした日が続く。
衣替えして夏服に変わったとはいえ、蒸し暑さが変わるわけではなかった。
ある日の放課後、麗は周りの声を聞きながら、机の上に置かれた紙を見ていた。
机の上に置かれている紙には進路希望調査表と書かれている。
「どうしました?」
やや上から聞こえる声に顔を上げると、そこには大野が立っていた。
「去年は進路なんて全く考えてなかったけど、三年生になると、急に進路が近くなったような気がしてさ」
「それまでも口にしなかった人はいると思いますが、確かに、進路や卒業が近づいているような感じはしますね」
一年や二年の時も進路について耳にしなかったことはなかった。しかし、三年生になって二ヶ月しか経っていないのに、進路や卒業について考える人が増えてきた。
「大野さんは進路は考えてる?いつも、礼拝堂にいるから、教会やそれに関することとか?」
麗は机の上に置いてある紙を二つ折りにすると、筆記用具と一緒に鞄の中にしまう。
大野は首を横に振って答える。
「私もまだ考えています。家はキリスト教ではありませんが、神様はいると思いますし礼拝堂に行って十字架の前でお祈りすると気分が落ち着くので、福祉に関することを勉強してみたいとは思っています」
大野と出会った時には互いに覚醒していて、物語に登場するターサのように学園内にある礼拝堂で毎日のように祈りを捧げていた。
宗教の話をしたことはないが、ただなんとなくキリスト教だと思っていた。
「麗さんは何か考えていますか?」
麗も大野と同じように首を横に振る。
「私も何にも考えてない。というより自分がこれから何がしたいんだろうって考えててさ」
麗は椅子を引いて立ち上がると鞄を持つ。それを見た大野は教室の入口に向かって歩き出す。
麗も大野の後を追って歩き出した。
教室を出た二人は廊下を歩き、階段を下りる。
二階に着くと、目の前には佐月と中西がいた。
「佐月さん、中西先生」
二人に気づいた麗は声をかける。
「水沢さん、大野さん」
麗の声に気づいた佐月は振り向いて、普段とは違う呼び方をする。
普段は物語に出てくるフィアのように名前に様をつけて呼んでいる。しかし、人通りが多い場所や能力者以外の人がいる時は苗字で呼ぶことにしていた。
それは、麗や大野達も知っていた。
「あ、話し中だった?」
自分が声をかけたことによって話を中断してしまったのではないか。麗はそう思っていた。
「いえ、もう話は終わりましたから大丈夫ですよ」
佐月は特に気にしていない様子で答える。
「中西先生に進路について話していたんです。実は、別の学校に進学しようと考えているんです」
『えっ?!』
突然のことに麗と大野は声を出して驚く。
「あたしの両親はダンスや踊りが好きで、小さい時からダンスは身近にありました。透遥学園が嫌いなわけではありませんし、大学部に進学しても中西先生の講義はあるみたいですが、あたしはもっとダンスや舞踊について学べる場所に行きたいと考えています」
自分が思っている以上に佐月はしっかりと自分の考えを持っている。
進路について考えている麗は、佐月の言葉にそう思った。
余程の事情がない限り、来年には高等部を卒業する。
何となく、漠然と、皆はずっと一緒だと思っていた。
でも、卒業まで時間は限られているし、時間はあるようでない。学校でも寮でも進学や就職の話は耳にするし、早い人は将来のことも考えてる。
自分がどうしたいのか自分自身に聞いても、何がしたいか分からないというのが一番だった。
この学園が好きだし、大学部も自分が知らない学科や授業がある。これから先、やりたいことが見つかるのだろうか。
「中西先生からダンスや舞踊について学べる学校を聞きましたが、これから学校説明会もたくさんあるし、まだ決定じゃないんですけどね」
佐月は言葉を付け加える。
夏休みになれば、他の学校での説明会はあるだろう。
「今は生徒達は自分について向き合い、何がしたいか、何をしていきたいか考える時期だと思う。周りからの助言だったり、環境から得るものがあるかもしれない。もし悩んでいるなら、叔母さんや妹にも聞いてみたらどうだ?」
麗の反応を見て中西がそう答える。
中西はたくさんの生徒の相談にのってきたのだろう。
言葉に説得力があった。
それに、中西は何度か麗の叔母に会ったことがある。麗が友人以外で誰かに相談するなら、先ずは妹の凛か叔母だと思っていた。
「そうだね」
悩んでいるのは自分だけじゃない。
そう言い聞かせるように麗は返事をした。
その頃、凛は目の前にいる人物に警戒していた。
覚醒したその瞳は目の前にいる結城を映している。
「…何の用でしょうか?」
寮に帰ろうとした時、突然、結界が張られて凛の周りを囲った。
結界が張られたことに驚いて上を向いて、視線を戻すと、いつの間にか結城が立っていた。
自分より結城のほうが強い。それは戦わなくても分かることである。
「確認したい。物語でマリスがラグマ…ディアボロスを召喚した。お前も精霊を召喚できるそうだが、ディアボロスを召喚することはできるのか?」
結城は凛が精霊を召喚することを聞いていた。
自分がラグマの能力を持っているのならば、ディアボロスという悪魔の姿に変身することができるし、凛に力が備わっているなら自分は召喚されるのではないか。そう考えていた。
それに対して凛は、願わくは戦いたくない、神崎のいるところに連れていかれたくないと思っていただけで、結城の質問に驚いた様子だった。少しだけ考えると首を横に振る。
「やったことがないので分かりません」
物語は読んでいるが、単純にやったことがないので分からないという答えは本心だった。
「結城先生はディアボロスの姿に変身するのですか?」
「姿を変えることはできない」
「もし、あたしがそれができるとして、ラグマ様の能力を持つ結城先生が目の前にいるのに、呪文を唱える意味はないと思います」
物語でマリスが唱えた呪文を覚えていないし、仮に呪文を唱えても目の前に結城がいるのに召喚する意味があるのかどうかも分からなかった。
「…そうだな」
結城もそこは考えていなかったようで、凛に言われて自分の質問に意味を見出だせないと気づく。
凛の中では、結城はいつも冷静沈着で落ち着いていて、いつも何かを考えているような難しい顔をしているイメージだったが、今は僅かに困ったような顔をしている。
「用はなくなった。…失礼する」
そう言うと、踵を返して校舎に向かって歩いていってしまう。
「結城先生、本当にそれだけだったのかな?」
結城がいなくなり、緊張していたのがほぐれていく。
しかし、あることに気づくと再び辺りを見る。
「結界が消えてない」
誰が結界を作ったか分からないが、結界が消えていないということは戦いに巻き込まれる可能性があるということだった。
「…周りには誰もいない」
結界は自分が見渡すことのできる範囲だ。狭くもないし、広いわけでもない。
その時、目の前の草むらからガサガサと動く音が聞こえる。
「何かがいる!」
それが何かは分からないが、凛は気になって恐る恐る草むらに近づく。
草むらの上から覗きこもうとした瞬間、それは動いた。
「きゃっ!!」
草むらから黒い何かが飛び出して、凛は驚いて咄嗟に避けてしまう。
振り返った先には、凛より背の高い黒い布のようなもので覆われたものが立っていた。
「誰っ?!」
凛が首から下げているネックレスに触れるより先に、それは地面に消えるように潜り込んでいく。それは這うように素早く動き、凛の真下の影に溶け込む。
「え?!」
凛が下を向くと、凛の影が動きだし、影の腕が地面を突き出して伸びていた。
「がっっ!!」
影の腕は凛の首を絞める。
その力は強く、凛はその手を引き離そうと影の手を掴む。
痛みと苦しみが襲い、必死に手を離そうと力を加えるが、影の手は凛の首から離れなかった。
「(…どうしよう?弓矢を出すのにも、ネックレスに触れないし…首が、苦しい!!)」
必死に手を離そうとするのに、苦しくて意識を集中させることができない。
意識がどこかにいってしまいそう。
そう思った時、凛はある言葉を思い出す。
「困ったら、ちゃんと名前を呼ぶんだぞ!」
凛は力を振り絞って影の手を少し離すと、その名前を呼ぶ。
「ケットシー!」
「おうっ!」
凛の声に反応してネックレスが強く光り、応える声が聞こえる。
その強い光に、凛の首を絞めていた影は驚いたように小さくなり、動かなくなる。
凛の影から黒いものが動いて、地面から這いあがると、再び黒い布のようなもので覆われたものが現れる。
自分の首を絞めていた影の腕が消えると、息ができるようになった凛は咳き込んでしまう。
ネックレスから光が飛び出して、茶色の毛並みの猫、ケットシーが現れた。
「大丈夫か?」
「…うん」
ケットシーは後ろを向いて、まだ咳き込む凛を気遣う。
「草むらから黒いものが飛び出したと思ったら、あたしの影の中に入って、影があたしの首を絞めて…」
凛は目の前に佇む黒い影を睨む。
「あれはファントムだ」
「ファントム?」
聞いたことない名前に凛は聞き返した。
「ファントムはおいらとは正反対の闇の眷属。こいつは動きがやっかいだし、捕まえることは難しい」
ケットシーは眉を動かすと、地面を叩くように尻尾を上下に動かす。
「あたしの弓矢なら…!」
そう言うと、ネックレスは弓矢の形に変わり、凛は素早く構える。羽を持って引くと、矢を放った。
放たれた矢は風を帯びると、加速して黒い影を狙う。
黒い影の足元に矢が突き刺さるが、黒い影は矢をすり抜けて素早く凛に向かってくる。
「そいつは物理的な攻撃は効かないぞ!!」
ケットシーは襲いかかる黒い影を避けながら凛に近づく。
「じゃあ、どうすれば…」
物理的な攻撃が効かないと言われて凛は考える。
動きが早くて捕まえられないし、自分の影に潜り込まれたらまた首を絞められるかもしれない。
「(動きを止めるには…)」
何かできないか考えていると、黒い影は凛に向かって動きだす。
「凛!!」
気づいたら目の前に黒い影が迫っていた。
避けようと考え、凛は声をあげる。
「ゴーレム!」
声に呼応するように凛の目の前の地面が盛り上がり、岩が人の形に変わりゴーレムが現れる。
ゴーレムは迫りくる黒い影を両手で掴むと、そのまま地面に叩きつけた。
地面に叩きつけられた黒い影はピクピクと小刻みに動くと、地面に潜り込むように消えていってしまう。
「…消えた」
「恐らく、一時的に逃げたんだと思う。また出てきたら、おいらを呼ぶんだぞ」
「分かった」
ケットシーは凛の真下に近づいて顔を見上げる。
ファントムが闇の眷属というのは分かっても、精霊かただ自分に襲いかかる敵なのかも分からない。
凛はケットシーがいたほうが何かできるかもしれないと考えて頷いた。
「(それにしても、二体同時に召喚するのはまだきついなあ…)」
初めてシルフを召喚した時、意識を失って倒れてしまった。
あの時より力がついたのか、二体同時に召喚しても意識はあるが、身体から汗は流れるし、意識を集中していないと立っているのが辛かった。
ゴーレムとケットシーが消えていくと、周りの結界も消えていき、凛はようやく一息つく。
まだ、力をつけなきゃいけない。
そう考えると、地面に落ちている鞄を拾って寮に向かって歩き出した。
「はあ…」
溜息が出るのは梅雨の蒸し暑さだけのせいじゃなかった。
学生室から出てきた月代は、無意識に溜息を吐いていた。
「進学とか就職って言われても全然思い浮かばない…。そりゃあ、期末テストも大事だけど…」
月代は進路や将来のことより、もっと歌いたい、自分達の曲を知ってもらいたいと考えていた。
作詞をしたりライブのことを考えているのは楽しいし、時間が足りないと感じるけど、勉強になるとそうとはいかない。
「赤点とったらまずいしなあ…」
期末テストは中間テストより教科が多い。情報処理の教科は一週間の授業の中で少ない方だが、期末テストだけとはいえ応用問題が多く、生徒達の間では予習をしていても難しいと言われていた。
「あれから、神崎先生も結城先生も近づいてこない」
階段を下りて一階に着くと下駄箱を開ける。
元々、情報処理の授業は多くなく、また月代は生徒会に所属していない。会わないことのほうが普通だが、月代は何か意図があるのではないかと感じていた。
「…とりあえず、追試は避けたい」
追試があれば単位にも関わるし、補習があれば好きなことの時間が減ってしまう。
先の大事なことより、今は歌いたい。
靴を履き替えて校舎を出ると、校門近くの並木道である人物を見つける。
「…神崎先生?」
高等部の教師が中等部や大学部に赴くことはある。並木道にいてもおかしくはない。
「(ちょっとだけ待とう)」
会っても挨拶して走って校門をくぐればいい。
けれど、それ以上にあったら何かされるのではないかと思ってしまい、月代は神崎が並木道を右に曲がるまで待っていた。
並木道を歩いていると、分かれ道で誰か立っている。
それに気づくのと同時に、その人はこちらを向いて歩いてきていた。
「何か用ですか?」
他にも何人かの生徒が行き来している中、こちらに向かってくる神崎に向かって高屋は声をかける。
「聞きたいことがあってな」
神崎は他の生徒ではなく、自分に用があると分かっている高屋の顔を見る。
見計らったように並木道から人がいなくなり、神崎も高屋も誰がいるか分からないという緊張はあるものの、普段通りに話し始める。
「水沢凛を操ることはできるか?」
「…え?」
何を言われるかある程度考えていたが、自分が思っていなかった質問に高屋はほんの少しだけ反応が遅れる。
「高屋家は夢を生業にする一族だ。狙いを定めた誰か一人を標的にして操ることができる。他の一族もお前が同じなのかは分からないが操られた標的はどこかに桜の花びらを模した模様が浮かび上がる」
「…よく調べましたね」
神崎の言葉に高屋は思っていたより驚かなかった。
「(素性を隠しているわけではなかったのですが、やはりこの名前は知られていますね)」
歴史の深さや長さでどう思うかは人それぞれだが、神崎の言葉は間違っていなかったからだった。
「一応、生徒会の顧問だからな。それに注意すべき人物は調べておくべきだろう」
自分の家について調べられている。それは、自分は注意すべき人物に含まれているということを理解する。
「勿論、相良斗真が忍の末裔であり、護影法という力を使えることも調べている」
神崎は言葉を付け加える。
それは、物語の能力を封印して、覚醒してからの記憶を失ったトウマのことだった。
能力を封印されたトウマと大学部内で見ることがあっても、不快な顔をされたり睨まれることはなかった。
「話は逸れたが、彼女を操ることができるのなら、召喚術の力はそれなりの価値があるだろう」
神崎は凛が精霊を召喚するとこを見たことがない。あくまで神崎が予想する可能性の一つだった。
凛の力を見たことがある高屋は思い返す。
今までに精霊を召喚する人物は知っていても、複数の精霊を召喚する人物は知らなかった。
「標的以外を操ったことはありませんが、試してみる価値はありそうですね」
学園内にはまだ能力者が潜んでいる可能性はあるし、大きな力が隠れているかもしれない。
そして、神崎の計画に必要なことなのかもしれない。
高屋は僅かな興味を抱いて神崎に答えを出した。
「決まりだな」
神崎と高屋は互いに人が通りかかるのを目にすると、物語に関する話題を終わらせる。
話しながら誰が別の人物が聞いていないか確認したが、それは杞憂に終わった。
「また改めて生徒会室で話そう」
「はい、神崎先生」
教師と生徒として挨拶すると、神崎は高等部に向かって歩き出し、高屋は校門を抜けて歩いていった。
何かを企むように笑いながら。