再生 29 呼び覚ます声
そこは夢の中だった。
それに気づいたのは、日常の景色の中で自分の足で立っている感覚が無いと思ったからだ。
大野はゆっくりと辺りを見回す。自分は高等部の校庭の中心に立っている。目の前には高等部から大学部に繋がる並木道がある。
「ここは…校庭?」
「大野ちゃん」
自分の名前を呼ぶ声が聞こえ、大野は誰の声か考えるより先に振り返った。そこには、地の精霊ノームが立っていた。
ノームは以前、大野達に見せた藤堂渉という人間の姿をしていた。
「地の精霊…ノーム?」
「嫌だなあ、渉って呼んでよ」
人間の姿をしたノーム、藤堂は気怠そうな様子で笑っている。
「夢に出てくるなんて…」
大野は目の前でくすくす笑う藤堂を見て、一歩下がった。
「そう、大野ちゃんの夢の中だよ。僕がいたからびっくりした?」
どうして藤堂が夢に出てきたか疑問に感じたと同時に、藤堂の考えていることが分からず、問いかけられた言葉を否定した。
「いいえ」
「そう」
藤堂はそっけ無く答えると辺りを見回した。
「ねえ、大野ちゃん。ここ、覚えてる?高等部の校庭…大野ちゃんは校庭の中心に立つ僕を見つけた」
「五階の階段から校庭を見た時に、とても強い魔力を感じただけです。そしたら、急に貴方が後ろに立っていて…」
ある日、五階の資料室にいた大野は、移動しようと階段を下りようとした。その時に校庭に立つ誰かを見つけ、次に気づいた時には自分の後ろにその人物が立っていたのだった。
「能力者である君は瞬時に答えを出した、そう思っただけだよ」
夢の中と分かっていてもいつもより自分の思考が鈍っているのかもしれない。それでも、藤堂の話は急に変わり、繋がりが無いものだと大野は思っていた。
藤堂は後ろを振り返り、校舎の二階を見ながら思い出したように話を続ける。
「君を追いかけていたら、相良君と有翼人の能力者に会った…」
藤堂は再び大野の顔を見ると困ったような顔をした。
「君は本当に相良君の事が好きなんだね?」
「好きというか…」
その言葉を聞いた大野は少し考えると口ごもり、逃げようと後ろを振り向こうとしたが、藤堂は大野の右手首を掴んだ。
去年、図書室で本を見つけ、自分が物語に出てくる人物と同じ力を持っている事を知った。それと同時にスーマという人物に惹かれ、スーマとそっくりな人物を見つけた時には、衝動的に涙が溢れて膝をついていたのだった。
顔を反らし困ったように考える大野を見て、藤堂は一瞬、むっとした表情を見せるが、すぐに微笑して小さく首を傾げる。
「でも、相良君達を助ける為に僕に応えた。それは僕のものだっていうことでしょ?」
「………」
「僕の力を手にして力は驚くほど増幅したけど、力を維持する為に身体に負担がかかって疲れたり眠くなったりする。それでも、君は相良君の為に動いた。……妬いちゃうなあ」
「えっ?」
藤堂の言葉を聞いて大野は驚いた。
あの出来事の後、一人で校内を歩いていると、突然、異形な怪物の群れに襲われた時があった。
大野は覚醒して力を使ったが、普段と違う自分の力に素直に驚きを隠せなかった。それと同時に、寝ても疲れが取れない日が続いていたのだ。
そして、人の形をしているが精霊が自分に嫉妬していることにも驚く。そもそも精霊に嫉妬という感情があることさえ分からなかった。
大野の中で色々と考えていると、藤堂は微笑したまま大野の頬に触れる。
「何をするんですか!」
大野は驚き、また一歩下がろうとしたが、藤堂は大野の手首を掴み自分の元へ引き寄せた。
「大野ちゃんが僕の魔力を手にして、もっと強くなったとしても…」
藤堂は顔を近づける。藤堂の右手は大野の頬から首筋を撫でていく。
藤堂は楽しんでいるような声で大野の耳元で囁いた。
「君は闇に屈する」
「……!」
ベッドから飛び起きた大野は大きく息を吸うと、ゆっくり吐きだした。まだ意識がぼんやりしてる中、夢の中の出来事の思い出す。
「地の精霊が夢に。それにあの言葉…」
藤堂は大野に、君は闇に屈すると囁いた。
大野は左耳を押さえたまま俯いている。
大野の中で僅かに不安が生まれる。
「もしかしたらトウマ様に何かが……」
大野はベッドから起き上がり、背伸びをすると閉めてあるカーテンを開ける。朝日のまぶしさで咄嗟に目を細めて、手をかざした。
七月の日差しは強く眩しいくらいだった。
梅雨が明けて、暑さが厳しくなり、本格的に夏がやって来た。
高等部では期末テストが終わり、夏休みまで後一週間、生徒たちはすでに浮き足立っていた。
「はぁー…やっとテスト終わったー」
三階の廊下では、麗、悠梨、梁木の三人が二つ折りの白い紙を見直しながら顔を見合わせていた。
「テストも終わりましたし、後一週間で夏休みですね」
梁木は二つ折りの白い紙を足元に置いていた鞄の中に入れて、ほっとした表情で微笑んでいる。
「期末テストは教科も多いし、範囲が広いから大変だったよ」
「覚えていても、思っていたところと違うところが出ましたね」
「そうだねー」
麗も腕にかけていた鞄の中に白い紙を入れると、梁木と同じように困ったように笑った。
「でも、三人とも追試も無いし、来週の終業式が終わったら夏休み!楽しみ!」
「そうですね。来年は受験もありますし、今のうちに楽しんでも良いかもしれませんね」
二人が顔を見合わせていて何かに気づく。
「……ユーリ?」
麗と梁木は悠梨の顔を見た。いつもなら話に合わせて手を上げたりしてくれている悠梨がさっきから口を開いていなかったのだ。
「どうしました?暑さで気分が悪くなりましたか?」
二人が自分の顔を見ている事に気づいた悠梨は、はっとした焦りながら首を横に振る。
「う、ううん!何でもないよっ!」
何かに焦っている悠梨を見て、麗は何かに気づいた。
「まさか…追試?」
麗はおそるおそる悠梨に問いかける。
去年の二学期の期末テストの時に悠梨は赤点を取り、追試を受けていた。
「違ーうっ!今回は赤点取ってない!」
一瞬、ひやっとしたが悠梨は困った顔で大きく首を横に振った。
「良かったー」
「今回はぎりぎり。でも、それも終わったから、夏休みが楽しみだね」
「うん」
悠梨の顔を見て麗は楽しそうににっこり笑った。
麗が目の前の梁木の方を向いた時、悠梨はほんの少しだけ俯く。何かを考え、意を決して口を開こうとした瞬間、麗の声でそれは遮られた。
「あ、中西先生ー」
麗の声を聞いて左を向くと、目の前から中西が近づいていた。
「水沢、風村、梁木。まだ帰らないのか?」
中西は左手につけている腕時計を見て、三人の顔を見た。
今日は土曜日。午前中で授業は終わっていた。
「それとも、テストの結果が良くなかったか?」
中西の言葉に麗は目の前で親指と人差し指で輪を作って合図を送る。
あれから麗は、悠梨や梁木、中西本人が近くにいる時以外は呼び方に気をつけるようになった。
「三人とも大丈夫!」
「そうか。追試が無いのは良い事だ」
中西は安心したように笑っていたが、麗の隣で顔を曇らせている悠梨を見つけると悠梨の方を向く。
「風村」
「……はい?」
中西に呼ばれた悠梨は、少しだけ驚いたような表情で俯いていた顔を上げる。
悠梨の表情が何かを伝えたいように見え、それに困った中西は咄嗟に出た言葉を口にする。
「大丈夫か?」
その言葉に驚いた悠梨は少しだけ驚き、優しく笑って答える。
「はい」
一瞬、風村の瞳の色が変わったように見えたが、中西は小さく首を振った。
「……なら良い」
何かを考えたが、悠梨の笑顔を見た中西も笑顔で返した。
「私も疲れてるかもしれないな」
中西はほんの少しだけ俯いて三人に聞こえないくらいの声で小さく呟くと、すぐに顔を上げて三人の顔を見た。
「さ、授業は終わったんだ、用事が無いなら帰れ。じゃあな」
中西は手を振りながら歩き、そのまま振り返らず歩いていった。
「はーい」
「さようなら」
麗と梁木は軽く頭を下げて声をかけ、悠梨は真っ直ぐ中西の背中を見つめていた。
「私はこれから五階の音楽室に行くけど、二人はどうする?」
中西の後ろ姿を見ていた麗は、悠梨と梁木の方を向く。
「音楽室ですか?」
「うん。音楽の内藤先生が歌を教えてくれるって言ってて…」
「歌うのが苦手なんですか?」
「うーん……歌うのは嫌いじゃないんだけど、何か、うまく歌えないというか、ちゃんと歌えてるかどうかって気になってて。この前、内藤先生に会った時に話をしたら、教えてくれるって言ったんだ」
麗と梁木の何気ない会話を聞きながら、悠梨は頷いて答える。
「大丈夫じゃない?音楽の授業の時も、そんな事無かったよ?」
「そう?」
麗は悠梨の言葉を聞いて安心したのか、少しだけ笑った。
「僕は滝河さんと会ってきます。…特訓してくれるみたいです」
梁木は辺りを見回すと、緊張したような表情で声を抑えて話した。授業が終わった後で人通りは少ないとはいえ、誰かに聞かれると良くないと思ったからだった。
「そっか」
「あたしは、特に何もないから寮に帰ろうかな」
廊下を歩き出した三人は階段の前に差しかかると、一度止まり、麗は階段を上り始め、悠梨と梁木は下り始めた。
「じゃあねー」
「また来週」
「また後でね」
三人はほぼ同時に声を出して手を振り合うと、それぞれ歩き出した。
悠梨と梁木が階段を下りて二階を通り過ぎた時、梁木は口を開いた。
「ユーリ、本当に大丈夫ですか?」
「……え?」
「いつもより元気が無いみたいですし…やっぱり夏ばてですか?」
「そりゃあ、暑いけどさー、夏ばてっていう程じゃないよ」
悠梨は困った顔で苦笑した。
一階に着いて、二人は別々の下駄箱に向かい靴を履き替える。
「そうですよね。まだ、これから暑くなりますし互いに気をつけましょう」
高等部から大学部に向かう道と学生寮に向かう道が違う為、二人は小さく頷いて手を振り合った。
「じゃあね」
「はい」
梁木を見送るように手を振り、悠梨は学生寮に向かって歩き出した。校舎裏から寮に向かう道を歩いていると、鳥籠のような形の小さな温室が見えてくる。
悠梨は温室の前で立ち止まり、思い詰めたような様子でそこを見上げた。
「二人とも優しさは変わらない。けど、未来は…」
夏の日差しが温室のガラスに反射して、光が悠梨の顔に当たる。
温室の中で僅かに何かが動いたような気がした。
麗達三人が話している間、トウマは高等部の図書室にいた。
同じ学園の敷地内、大学部に在籍しているとはいえ、用事の無い限り頻繁に出入りするのは気が引けるような気がした。それでも時間があり、高等部の生徒が少ないと思った時には図書室に足を運んでいるのは、本の為だった。
土曜の午後の図書室は人が少なく、トウマは図書室の奥にある本棚に向かって歩いていた。
「(あれ以来、目立った出来事は無い…。が、いつ何かあるか…)」
先月の出来事で何か引っかかるような感じが続いていたトウマは、図書室に入るなり眉間に皺を寄せていた。
「(もっと強くなりたい…!)」
トウマが図書室の奥にある本棚に着くと、立ち止まり本を探そうと見上げた。
すると、何かを見つけてトウマは驚いた。
「本が三冊…っ?!」
図書室だから押さえたが、驚いて思わず大きな声を出してしまいそうになった。
今までそこにあった本は二冊だったが、今、トウマの目の前にあるのは三冊だった。
「最初は深い緑色。それより過去の話は赤色の表紙…」
深い緑色の本の横には、赤色の本が並んでいる。そして、その横には濃い青色の本が並んでいた。
トウマは腕を伸ばしておそるおそる青色の本を取ると、表紙を見た。
「WONDER WORLD 2…」
本の表紙には金色の文字で題名が書かれていた。トウマは息を飲むと本を開いて読み始める。
自分が物語の登場人物と関わりがあり、自分と関わりがある人物はすでに出ていない。死んだのか消息不明かは分からないが、物語を読んだ限り彼が死んだのだろう。
だから、もう自分には関係無い、スーマと同じで自分も死ぬかもしれないと思っていた。けど、自分が物語と関わるようになり、新しい関係が生まれ、その思いは変わり始めていったのだった。
「これは、物語の最後から少し経った頃か…」
物語を早く知りたい気持ちを押さえながら、ゆっくりと読んでいく。
その間にも、トウマは自分がスーマという登場人物の事を考えていた。
「スーマ、あいつは出てくるのか?」
物語は最初から驚く事ばかりで、驚きながらも読み進めていく。
そして、一つの大きな出来事に辿り着いた。
「嘘だろ…」
それはトウマにとって最も驚くべき事だった。衝動を抑え、そのまま物語を読んでいく。
「…………」
読み始めてからどのくらい時間が経ったのか、一章を読み終えたトウマは動揺を隠しきれない様子で一度本を閉じた。
トウマに一つの不安が襲いかかる。
「あいつ……まさか、これを知ってて…」
閉じた本を元に戻し、トウマは図書室から出ようと出入口に向かって歩き出した。
「二年の教室は図書室と同じ三階…今の時間ならまだ校舎にいるかもしれない!」
図書室を出て左に曲がろうとしたその時、ふと、右にある階段を下りる人物が視界に映る。
「あれは!!」
階段を下りる人物は俯いているので表情は分からなかったが、髪の長さや服装、雰囲気から女性だと分かった。
トウマの脳裏にある一人の女性が浮かぶ。
トウマが気づいた時にはその女性は階段を下り、姿が見えなくなっていた。
「待ってくれっ!!」
トウマは追いかけるように慌てて階段を下り始めた。
階段を下りると、女性は振り返る事なく、下りた先の来客用の入口から外に出ていってしまった。トウマは急いで靴を履き替えて後を追いかける。
「(やっぱり先月見た姿と一緒だ。もしかしたら…)」
来客用の出入口から左に曲がり階段を下りた女性は校舎裏に向かって歩いている。
トウマは走っている自分より先に進んでいる女性に疑問を抱きながら、不安と僅かな希望を胸に後を追いかけていた。
やがて、女性が立ち止まるとトウマはようやく自分がどこにいるか把握する。
女性を追いかけるのに夢中で、どこを走っているか分かっていなかったのだ。
「ここは…黄昏の温室?」
そこは校舎裏から寮に向かう道にあるガラス張りの小さな温室だった。
トウマは意を決して、後ろ姿の女性に声をかける。
「あ、あの……っ」
トウマの声を聞いて女性はゆっくりと振り返り、それと同時に一人の人物が頭をよぎる。
輝く大きな純白の翼に、穏やかな笑み、白いローブを纏う女性…。
トウマは見た事も会った事も無い筈なのに、気づいたら言葉を口にしていた。
「大天使…」
溜息のように呟いた声にトウマ自身が驚いていた。
ゆっくりと振り返った女性の口元がにやりと笑い、黒い霧に包まれると人の形に変わっていく。霧が薄れていくと、そこには黒い髪と尖った耳、左のこめかみ辺りには太い角が生えた男性が立っていた。男性は黒いローブのようなものを纏っていたが、その身体はうっすらと透けていた。
その姿を見たトウマは目を見開いて驚き、瞬時に物語で見た人物を思い浮かべる。
「闇の精霊…シェイド…」
精霊は物語の中で魔法の源といえる存在だった。
自分より強いと分かっていて、トウマは目の前にいるシェイドを前に、驚きと後悔で動く事ができなかった。
「物語の過去で、スーマが同じ手で…」
トウマが何かに気づいた時には遅く、シェイドは笑いながら手をかざすと、そこから黒い触手のようなものが伸びてトウマに襲いかかる。
「ソウ、同ジ手デオ前ハ消エルンダ」
シェイドが楽しそうに笑うと、黒い触手のようなものがトウマの身体を覆い、視界を遮っていく。
「(声が出ない…!!)」
「マサカ、同ジ手ニカカルトハ思ワナカッタ。…サア、我ノ手足トナリ、光ヲ闇デ覆イツクセ…」
黒い触手のようなものはトウマの身体に張りつき、少しずつ身体が動かなくなってしまう。
「(あの後ろ姿…昔、この学園に来た時に何か惹かれるものを感じていた…)」
「神竜…」
シェイドの声が遠く聞こえ、トウマは遮られて真っ暗になった中、ゆっくりと目を閉じていく。
「(能力者として、覚醒して、俺は…あいつが、一番に探していた相手、なのかも…しれない…)」
意識も心も、遠く離れていくような気がする。
「(…………か)」
全ての感覚が鈍くなっていく。
何も考えられない。
やがて、黒い触手のようなものが消えていくと、彼はゆっくりと瞳を開いた。
瞳の色は薄い緑から赤へ変わっていく。
「……器にしては悪くない」
腕を伸ばしたり曲げたりして身体が動くかどうか確かめると、何かを企むように笑った。
「トウマ様ー!」
その時、彼の後ろから声が聞こえる。
彼の元へやって来たのは大野だった。
「何やら不穏な気配を感じたのですが……」
急いでいる様子で来た大野は、振り返った彼を見て言葉を失う。
「…!!」
彼が振り向いた時、彼の後ろに黒い髪と尖った耳、左のこめかみ辺りに太い角が生えた男性が見えた。
そして、瞳の色が赤に変わっていた事が大野にとって信じがたい事だった。
目の前に居るのは自分が知っているトウマではなかった。
「…闇の精霊、シェイド?!」
大野も物語を読んでいて、スーマの身体が闇の精霊シェイドに乗っ取られていたのを知っていた。
「我に気づいたか。流石は巫女の力、いや、地の精霊を取り込んだだけの事はあるな」
彼の言葉を聞いて、大野は驚いた。あの場所にシェイドはいなかったはずだった。
「どうしてそれを?!」
「我ら精霊はそれくらいのこと容易く見ている」
彼は淡々と答え、大野を上から下まで睨むように見つめた。
大野の瞳も琥珀色に変わっていた。
「闇の精霊がトウマ様の身体に……?」
大野に悲しみと怒りが混ざったような感情が生まれる。
「そう、この身体はすでに我のものだ!」
シェイドはトウマの身体にとりついたのだった。
「…………」
大野はシェイドを睨みつけ、虚空から生まれた厚い本を両手で受けとめた。
「巫女の力を持つ者よ、我の駒になれ」
シェイドは大野が睨んでいる事を気にせず、余裕のある表情で大野に問いかける。
「…え?」
シェイドの言葉を理解できず、大野は何かしようとした右手を止めてしまった。
「我はこの身体に呪印を刻んだ者を知っている。我の駒になれば教えてやろう」
シェイドの言葉を聞いた大野は追い込まれるような間隔に陥ってしまう。
自分が物語と関わりがあり、自分が慕う者に刻まれた呪印を解く為に、能力者が集まる生徒会に所属していた。
生徒会から離れても、トウマの呪印を解く為に手掛かりを探していたのだった。
ここで答えれば手掛かりは見つかる。けれど、それでトウマが納得すると思わなかった。
大野ははっきりと答える。
「お断りします」
大野の答えを聞いたシェイドは溜息を吐き、腕を肩の辺りまであげると、その場所からトウマが戦いに使っている短剣が現れた。
シェイドが短剣を握ると、突然、左腕に刃をあてて切りつけた。
「!!!」
躊躇うことなく力強く切りつけた腕からは勢いよく血が流れ出した。
それを見た大野は驚き、身体が震え、全身の血の気が引いていく。
「これは交渉では無い、命令だ」
シェイドは大野の言葉に眉をひそめ、左腕の別の場所を切りつけた。切った場所から血が流れて滴り落ちていく。
「お前に拒否権はない」
大野は目の前で起きている光景が信じられずに驚き、何もできずに震えていた。
大野にとって、トウマが傷つけられるのは自分が傷つくより辛いことだった。
シェイドは何をすれば大野が苦痛を感じるか知っているかのようだった。
大野の様子を見たシェイドは短剣を手首に移し、刃をあてる。
シェイドが笑い、力を入れようとしたその時、大野が制止するように声をあげた。
「止めてください!!」
自分でも今までこんなに叫んだことがないくらい、大野は声をあげていた。身体の震えは止まらず、大粒の涙を流しながら力を無くしたように両膝をついて両手で顔を覆った。
大野は力を振り絞り、右腕を上げて震える口唇を動かし何か呟くと、傷だらけのトウマの腕が淡く光り、傷が癒えていく。
それを見て、シェイドは大野の力に驚き、それと同時に滑稽なものを見るように笑った。
「最後だ。我の駒になれ」
少しだけ笑うと、目の前で膝をついている大野を冷たい目つきで見下した。
大野は涙を流しながら、今にも消え入りそうな声で答えた。
「………はい」
シェイドは満足した様子でにやりと笑う。
「お前が何か良からぬ事をしようものなら…次はこの身体…心臓に刃を突き刺してやる」
その言葉は大野にとって恐怖しかなかった。
大野は膝をついて俯いたまま動こうとしなかった。
「鍵を手に入れ、光を闇で覆いつくせ」
シェイドは振り返ると校舎を見上げ、中央にあるそれを睨みつけた。
恐怖と後悔に苛まれる中、大野の脳裏にノームの声が聞こえる。
「…だから、僕は言ったよ?」
身体の震えは止まっても、涙は止まらなかった。
「君は闇に屈する、って」
その声はほんの少しだけ悲しみと怒りが混ざっていた。