再生 26 震える二つの時
心が震えた
何があるか分からない
何をされるか分からない
殺されるかもしれない
どうなるか分からないと気づいていて、俺はその人の側にいたいと思った
その瞳に映りたいと願い
月に囚われた
六月になり、梅雨入りすると湿度も上がり、じめじめとした空気に何となく気分まで下がってしまう。
衣替えも終わり制服のシャツも半袖になったとはいえ、今にも雨が降りそうな空を見て月代は溜息を吐いた。
「蒸し暑い…」
廊下を歩いていた月代はネクタイを緩めてシャツの一番上のボタンを外すと、額から流れる汗を手で拭う。窓から外を見ると空は曇り、雨が降り始めていた。
「土曜なのに学校だなんて面倒臭い…。じめじめするし、やる気出ねえ…」
階段を下りて、三階にある図書室のことを考えると自然に足が止まった。
「来月には期末テストだけど…歌の練習はしたいし、あの物語の続きも気になるし…」
自分が物語に関わっていることは知っていた。
神崎と結城からその話も聞いていた。
「俺に物語の登場人物の力があるなんて…」
誰かに聞こえたら変に思われてしまうのか、月代は考えるように小さく呟く。
「図書室で本を読むついでに宿題もやろう」
考えを変えた月代は、階段を下りずにそのまま目の前の図書室の扉を開けた。
扉を開くと、中から僅かに冷たい風が流れ、それまでじめじめしていた雰囲気も薄れていくような気がした。
「図書室は少し冷房が効いてる…ラッキー!」
月代は嬉しそうに笑い、中へ入っていく。
土曜は午前中で授業が終わるため、図書室の中では本を探す生徒や、教科書とノートを開いて机に向かって勉強をする生徒達がいた。
「やっぱり、皆、テスト勉強してるな」
机と机の間を静かに歩きながら呟いた月代は、奥にある本棚の方へ歩いていく。
「先に物語を読み直そうかな…。確か、この左の奥だったはず」
突き当たりで角を左に曲がると、SF・ファンタジーという見出しのある本棚を見つけた。本のある場所で立ち止まり見上げると、何かが違うことに気づいた。
「WONDER WORLDがもう一冊…?!」
それまで、そこには一冊しか無かった本が今は色違いで二冊に増えている。
月代が読んでいたのは深い緑色の表紙に金色の文字の本、その隣には赤色の表紙に金色の文字の本が並んでいた。
初めて見たはずなのに、その本は少し古く色あせているように見える。
「過ぎ去りし記憶…、なんだ、これ…?同じ大きさで、横にあるWONDER WORLDと似てる感じがする…」
月代は手を伸ばして赤色の本を手に取ると、持っていた鞄を足元に置く。
本の表紙をめくると、題名が書かれていて、また一枚めくると見たことのある名前がいくつか書かれていた。
「レイナ、カリル、スーマ、マリス、ティム…確かこれって、物語に出てくる登場人物だ」
月代はそのページを指でなぞり、一つの場所で指が止まる。
「マリス…。俺はこの人の力を持っている…」
月代はページをめくっていく。
五百年前に起きた翼狩という出来事から逃れた少年は、長老と呼ばれる老婆に言われ魔法の練習をしていた。
魔法の練習も上手くいかず落ち込み、長老が去った後に少年は目を閉じて横になってしまう。
何かを危険を感じて目を開けると、空からガーゴイルと呼ばれる鳥と人間を足したような獣が少年に向かっていた。
少年は急いで起き上がって走りだしたが、三体のガーゴイルは速度を上げて少年の翼と肩を掴み、そのまま持ち上げてどこかへ飛んでいってしまう。
たどり着いたのは少年が暮らす集落の広場だった。
そこには、ラグマと呼ばれる長い白銀の長い髪に黄金色の瞳を持つ男と、集落に住む同じ純白の翼を生やした仲間が鎖で縛られていた。
広場の中心に降りたガーゴイル達は、ラグマという男の前に立ち、一端、少年を離したがラグマに頭を下げると再び少年の両腕と翼を掴んで自由を奪う。
ラグマは少年を見下して笑うと、ガーゴイル達に命令した。
ガーゴイル達によって少年の身体は地面に叩きつけられ、ガーゴイル達が腰に下げていた剣で少年の両腿、両肩、左手の甲に突き刺したのだった。
少年が痛みに叫ぼうとする間もなく、周りにいたガーゴイル達は少年の背中に生えている純白の翼を力強く剥いでしまう。
少年は全身を引き裂かれたような痛みに力の限り叫び、流血しているのが解るくらい痛みに支配された。
意識は薄れて力が入らず、身体が動かす事が出来ない中、少年が必死に頭を動かしてラグマを見るとラグマはガーゴイル達に合図を送っていた。
少年は一目見た時から、あの瞳が気になって仕方なかった。
黄金色に光る瞳が目に焼きついて離れない。
少年は集中力を振りしぼり、小さく呪文を唱えると風の魔法を放つ。少年の頭上に生まれた無数の風の刃は、宙を舞うと目に見えない速さでガーゴイル達とラグマを狙う。無数の風の刃はガーゴイル達を切り裂き、避けようとしたラグマの左目に当たり、ラグマの左目から血が噴き出した。
突然の出来事に怒りだしたガーゴイル達は、腰に下げていた長剣を抜いて少年に切り掛かろうとしていた。
しかし、ラグマはガーゴイル達の動きを止め、傷ついた瞳で少年を睨みつける。
少年は何故か目を背ける事が出来ず、その瞳に魅了されたように見ていた。
ラグマが哀れむように嘲笑すると、自分の元について来いと命令する。
その時、何を言っているか理解できなかったが、ラグマの瞳と強さに好奇心を抱いて答えを出す。
動けない少年を見たラグマは懐から黒く光る宝玉を取り出し、それを少年の前に差し出して呪文のようなものを呟いた。黒い宝玉が光を放ち、まとわりつくように少年を包み込む。
黒い光が少年の視界を遮り、再び全身が引き裂かれたような痛みが全身を襲うと、少年の背中には漆黒の翼が生えていた。
少年はラグマによってマリスという名前と悪魔にも似た漆黒の翼を与えられ、傷口は塞がっていない身体を動かして立ち上がるとラグマの前で跪ずいた。
その時、それまで様子を見ていた少年の仲間は悪魔が少年を操っていると思い込み、口々に叫ぶ。
少年の好奇心は変わらず、少年は仲間を睨むことによって意思を示し、何事もなく立ち去ろうとした。
しかし、ガーゴイル達が一斉に魔法を放ち、辺りを炎で包んでいく。
驚きを隠しきれず、何故、殺したかを問いかけようとしたが、ラグマの声を聞いた少年は後を追うように、灰の山に背を向けて歩いていった。
それはルマからマリスへと変わった少年の過去であり、夢を見てうなされていたマリスは不安に襲われ、ラグマに自分の存在理由を問いかける。
しかし、答えは無く、代わりに無言でマリスの頭を軽く叩いた。一瞬だけ優しく笑っているように見えたが、すぐにいつもの冷たく凛とした表情でマリスを見ていた。
マリスの背中には漆黒の翼が生えていた。
「そんな……」
本を読んだ月代は、本を開いたまま動くことができなかった。
「これはマリスの過去の話だ…。マリスは元から漆黒の翼じゃなくて、白い翼があったんだ…」
眉間に皺をよせて苦しそうに呟く月代は、自分が驚いて微かに身体が震えていることに気づく。
「俺が覚醒した時も、結城先生の目が離せなくて…結城先生はラグマ様の力を持っているって言ってた。あの黄金色の瞳…マリスは仲間と離れてまでラグマ様についていこうとした。一体…マリスに何があったんだろう…?」
自分でも何を言っているか分かっていなかった。
「それにラグマ様の左目の傷はマリスの魔法によってできた…。けど、どうして治さなかったんだろう…?」
本の中の出来事が自分の記憶のように感じる。初めは本の中の登場人物のように魔法が使えたり、翼が生えるなんて考えられないと思っていた。しかし、それは自分が感じていてきたことのように思え、瞳の色が変わり、マリスという人物が自分のことのように感じてきていた。
「俺に漆黒の翼があるのは分かった…。でも、本当に魔法なんて使えるのかな…?」
月代は覚醒してから今までマリスのように魔法を使ったことは無かった。
目を閉じて大きく息を吐くと、少し落ち着いたのか本を閉じて本を元の場所に戻そうとした。
その時、どこからかはっきりとした声が聞こえる。
「マリスがその後、どうなったか気になるか?」
どこからか聞こえた声に驚き、本を戻そうと手を伸ばしたまま声が聞こえた方に顔を向ける。
声がした方を向くと、そこには神崎が立っていた。
月代は自分が夢中になっていて、神崎が側に来ていたと思っていた。
「神崎先生…?」
月代は本を本棚に戻すと、神崎の方に身体を向けて小さく頭を下げる。
「気になるか?」
神崎の企むような不敵な笑みに、一瞬、背筋が凍るような感覚になったが、教師と生徒という立場だと思っだ月代はゆっくりと小さく頷いた。
「はい」
それを聞いた神崎は、月代に近づき右手を出して月代の左手首を掴む。
「冥刻使ラグマによって闇王ロティルのいる城に連れて来られたマリスは、城での位をつけるテストを受ける。結果、蒼飛という称号を与えられる」
「マリスの称号は蒼飛…」
月代は突然、神崎に手首を捕まれたことに疑問を抱いたが、神崎の言葉は続く。
「そして、特殊な力によって動けなくなったマリスは…」
神崎の顔が月代に近づく。
「ロティルに襲われる」
それを聞いた月代は驚き、それと同時に再び背筋が凍るような感覚に陥る。
「離してください!」
月代は力を込めて神崎の手を振り払おうとしたが、神崎はぴくりともせず右手の力を強める。
「痛っ!」
月代が思っていた以上の痛みに目を閉じて顔を背けてしまう。
「何を……っ!」
月代が目を開いて神崎に向かって何か言いかけたが、目の前の出来事に驚いて言葉を失う。
「え………」
今まで図書室で本を読んでいたはずだった。
しかし、一瞬だけ目を閉じた間に、目の前の景色は変わっていた。
「生徒会室…」
「そう、生徒会室だ」
突然の出来事に驚いたが、神崎も能力者であり生徒会室に強い魔力を感じていた月代は、神崎が魔法を使い、一瞬で生徒会室に移動したと考えた。
月代は辺りを見回し、自分の手首を掴む神崎に違和感を覚えた。
「神崎先生、瞳の色が違う…」
いつの間にか、神崎の瞳の色は赤く変わっていた。
「お前も変わっているぞ」
突然、生徒会室に来た時から自分でも覚醒していることには気づいていた。
月代の瞳の色は青くなっていた。
「私もロティルの力を持っている。それが何を意味しているか分かるか?」
「………」
月代が何かを考えていると、神崎は突然、月代の手首を強く引っ張り、驚いた月代は足元に横になっている鞄に気づかずによろめいてしまう。
「………っ!!」
よろめいた月代は思わず目の前の机に両手をついた。
その時、神崎は後ろから勢い良く月代の首の後ろを掴み、そのまま机に押しつける。
「!!」
「物語には書かれていないが、本当にロティルはマリスを襲ったのだろうか……?」
神崎は顔を月代に近づけ、笑いながら左手で月代の背中を撫でる。
「何するんですか!離してください…!」
自分の目で確かめていないのに、神崎の言葉と背中を撫でる手が怖くなり、月代は起き上がろうとする。
しかし、神崎の力は強く、机に頬をつけたまま動くことができなかった。
月代の背中を撫でる手は腰をなぞり、再び背中を撫で回す。
「最近、逃げられてばかりだったからな…。動けない相手を見ていると、もっとその顔を見ていたくなる…」
神崎は何かを思い出しつつ、目の前で抵抗する月代を見て口角を上げて笑いだした。
「や、やめてください……」
背中に突き刺さる神崎の視線と、自分の背中を撫でる手に月代の身体は小さく震え、恐怖が増していく。
その様子を見た神崎は鼻で笑い、月代の背中を撫でる手を止めた。
「…隠された真実よ」
神崎が呟くと月代の背中は黒く光り、背中から漆黒の翼が現れる。
「ほう…マリスの力を持っているのは本当だったんだな」
月代の背中に生えた漆黒の翼を見た神崎は少し驚いたように見えたが、月代の首を押さえつけている右手の力を強める。
「痛っ………!」
背中を撫でていた神崎の左手が再び腰を撫で、ズボンのベルトに触れるとベルトを外そうとする。
「ち、ちょっと…何するんですか……?!」
「さあ、ロティルのようにしてみようか…」
ベルトは外れ、そのままズボンのホックを外していく。
「やめてください!!」
月代は必死に身体を動かして抵抗するが、力の差は大きく身動きがとれなかった。
悪寒が走り、理解できない恐怖が強く突き刺さる。
神崎は月代の表情を見ながら笑っている。
神崎の左手が動こうとした瞬間、月代の身体から黒く光る衝撃波のものが勢い良く吹き出し、神崎は驚いて力を緩めてしまう。
彼の首には呪印のような古代文字が浮かび上がる。
彼はその手を力強く振り払って立ち上がると、人が変わったように怒りと嫌悪を表した顔で神崎を睨む。
瞳はどこか虚ろだった。
「我に触れるな…!」
彼の周りから魔力の波動のようなものが流れ、月代とは何か違うものを感じた神崎は動けなくなってしまう。
少しの間の後、彼の首に浮かぶ呪印のような古代文字は消え始め、虚ろだった青い瞳に光が戻る。
「今……俺は、一体…」
何が起こったか分からない月代は、身体が自由に動けると分かると、咄嗟に床に落ちている鞄を拾った。
「すみません!失礼します!」
神崎の顔を見ようとせず、月代は俯いたまま翼があることも忘れ、逃げるように生徒会室から走り出して行く。
月代が出て行った後、何が起きたか分からなかった神崎はまだ少し驚いてた。
「今の魔力…月代でもマリスでも無い。しかし、この私が動くことができなかった…。あの古代文字…もしも間違っていなければ、月代は利用価値があるな」
月代に逃げられたことは不愉快だったが、何かを感じた神崎は待ち望むように笑った。
一人の少女は高等部の校舎の廊下を歩いていた。
太股辺りまで伸びた黒く長い髪、高等部の制服を着ていた。俯くように歩いていると、突然、少女の足元から黒い霧みたいなものが吹き出し辺りを包み込む。、
それが結界だと気づいた少女はその場に立ち止まり両手を前に重ねる。
「今度は逃げないのか?」
黒い霧のようなものが揺れ、少女の目の前に現れたのは結城だった。
少女は驚く様子も無く、少しだけ笑うと真っ直ぐな目で結城を見つめる。
「逃げる必要がありません。私も貴方の瞳からは逃れられないのですから…」
少女の瞳の色は青色に変わっていた。
「三ヶ月程前、月代の背中に翼が生えた時、物影から見ていたのもお前だな?」
「…はい」
少女の反応を見た結城は、少しずつ少女に近づいて問いかける。
「お前はマリス…いや、ルマから生まれた片割れだな?」
「はい」
「名前は?」
「高等部二年、橘あやめです」
教師とはいえ、高等部の生徒の名前を全員把握するのは難しい。
結城は少女の目の前まで歩き、思っている事を口にする。
「聞き慣れない名前…恐らく半年前、月代の覚醒と同時に覚醒したな。橘…お前は禁呪を使うつもりか?」
橘と名乗る少女は結城の問いかけに少し考え、首を横に振る。
「使えるかどうか分かりません。私は彼の片割れ、ミスンの能力者みたいですが…禁呪は一度使えば自分も消えてしまうかもしれません」
「みたい…?自覚はしていないのか?」
「……認めるのが怖いです」
「そうか」
結城は興味というよりは疑問に思ったことを淡々と問いかけ、橘はそれにただ答えていく。
橘もまた、突然、本の中の出来事が現実に起こり、自分も登場人物のように魔法を使ったり、戦うことが怖かったのだ。
「自分が能力者だと気づき、その人物がミスンだと自分自身で気づいたのか?」
「………」
結城の問いかけに橘は困り、言葉を探す。
結城は一歩また近づき、睨むように橘を見つめる。
結城の視線に橘は何かを恐れ、身体がぴくりと震え視線をそらしてしまう。
「橘」
「…申し訳ありません」
橘は焦るように表情を曇らせ、小さく呟いた。
「それは答えられない、そう解釈するが良いのか?」
結城の黄金色の瞳は橘を捕らえている。
それだけで橘にとっては身体が震え、視線を合わすのが怖いと感じていた。
「…夢で、物語が自分の記憶のように流れ、私の事をミスンと呼ぶ声が聞こえました」
それでも橘は顔を上げ、小さく震える身体をおさえて答える。
「まあ、良いだろう」
これ以上は無駄だと感じた結城は、呆れるように溜息を吐く。
「あの方の目的には月代は大きな利用価値がある。邪魔をする者は誰であろうと容赦はしない」
結城は威圧するように告げると、橘の横を通り過ぎて去っていく。
「結城先生」
橘は意を決して結城を呼び止めた。
結城は振り返らず、その場に立ち止まる。
「私は……私は、ただ自分の思うように動きます」
橘は振り返り、結城の背中に向かってはっきりと意思を表した。
「そうか」
結城は振り返らず、橘に何かするわけでもなく、ただそう呟く。
廊下を覆っていた黒い結界は消え、結城はそのまま歩き出した。
橘の瞳の色は元に戻っていく。
結城の背中を見つめたまま、橘は制服の胸元のネクタイをぎゅっと掴む。
「私はただ元に戻りたい。その為に戦います…」
それは控え目であるが、橘の意思そのものだった。