蝉時雨
「時雨君・・・」
「やーっぱり、なんとなーく、くるかなーっと思ってました」
時雨君は足幅大きくこちらへ向かってきた。逃げようとする私を止め、時雨君は私の隣に座る。そこからしばらく、私は地面を見て、時雨君は空を見上げる時が続いていた。何とも言えない静寂が辺りを包む。どこを見ればいいのだろうか、何を言えばいいのだろうか。酷く困惑していた。
「あの、時雨君・・・」
「教授、私、私もこの一週間考えてたことがあるんです。教授がなんだか、急に変わっていくなーって。それがなんだか心配でした。教授、普段そんなことしないから、無理してるんじゃないかなって」
「時雨君、私は・・・」
「でも、その原因が私だったなんて、思いもしませんでした。ちょっとショッキング・・・的な」
やはり迷惑だったのだろうか。今すぐ帰りたくなった私は、立ち上がり、出口の方へ向かうつもりが、杉並木の下に向かい、膝から崩れ落ちてしまった。時雨君は相変わらず空を見上げたまま続ける。小雨が少し降り出していた。
「私、教授は八足さんのこと好きになってたんだと思ってました。そりゃそうですよ、だって私はこの一週間、ちがうな、もっとそれより前から教授に迷惑ばかりかけてて、いっつも偉そうなことしてて、いつ嫌われても仕方がないなって、思ってましたもん」
「それは違う」
私はようやく時雨君の方を見ることが出来た。背中を木に付け、私はゆっくりと、自分の想いを話した。
「私は、元々一人の方が楽だと思っていた。冱露木と親しくなっても、一人の時間の方が私にとっては貴重だった。これまでも、これからも、私は人間として一人で生きよう。それでいいと思っていた。しかし、君が来てから少しずつその日常が変わった。初めは君のこともただの一過性の生徒だと思っていた。だが、いつしか君の声で一日が始まるように思えていた。しかもそんな日々がこんなに続くとは思っていなかったのだ。君と居る時間がどんどん短く感じ、もっとこの時間が欲しいと思えてしまったんだ。しかし、私には一週間しかなかった。一週間で君に好いてもらおうと、様々な迷惑をかけてしまった。すまない、時雨君。すまない」
私の口からは秘めていた感情が漏れ出し、目からも溢れ出そうになっていた。自分のやってきたことが全て水の泡になり、果てはただの奇行になっていたに違いないと、自分を責め続けていた。押さえつけていた感情が、もうそこまで来ていたのだ。
「ねぇ教授、なんで一週間なんですか?」
「それは・・・」
「明日は会えないんですか?」
「それは仕事があるから、大学へは行くが・・・」
「じゃあ、明日も会えるじゃないですか。明後日だって明々後日だって。来月だって来年だって。私たち会えますよ」
「しかし私は・・・もう嫌われても仕方がない」
時雨君は立ち上がり、ゆっくりと私の元に来た。手には私が持ってきていた団子が二本握られており、そこから赤い紐が垂れていた。後ろにあった星が雲で隠れ、逆光だった時雨君の顔がはっきり見えた。とても優しい、いつもの彼女の顔が、そこにはあった。
「私、教授のこと好きですよ。
夏になったら蝉に声をかける教授も好きですし、カツ丼奢ってくれる教授も好きですし、私のこと下の名前で呼んでくれる教授も好きですし、今こうして木の下でべそ掻いてる教授も好きですよ」
そう言うと彼女は私の隣に座り、空を見上げながら続けた。
「教授、いろいろあって渡し損ねちゃったんですけど、これ」
そこにはいつか私が落してしまった根付が、きれいな紐に直っていた。止まっていた私の中の時計の針が、軋みだしていた。しばらく根付に目を囚われていた。綺麗な鈴の音が鳴るその根付は、まるで彼女の優しさを表しているようで、彼女もポケットから携帯を取り出し、私がいつか渡した根付を見せ、軽く指ではじいて鈴を鳴らした。時雨君はニコッとこちらを向いて微笑むと、また優しい顔に戻り、私に体を向け、目を合わせて言った。
「ゆっくり、こういうのはゆっくりやっていきましょ。私は、教授の傍から離れませんから、ゆっくり、教授のこと教えてください。私もゆっくり、私のこと教授に教えていきますから。それからお付き合いしましょ。ね?」
彼女の優しい言葉に、とうとう感情が爆発してしまった。それに合わせるかのように、雨は豪雨となり、周りの木々から大勢の蝉の声がした。私の泣き声はその中の一部となった。不思議と雨はかからなかった。杉の木が傘になってくれていたのか、私と時雨君の周りの土は乾いたままだった。
それからどのくらい泣いただろうか、はっきりとは覚えていないが、時雨君はずっとその間私の頭に手を置いてくれていた。雨が止んでもセミたちは鳴き止まず、蝉が鳴き止んでもしばらく私は泣き止まなかった。こんなに鳴いたのは生まれて初めてだった。次第に泣くことも疲れ、落ち着いた頃、時雨君は団子を一つ食べた。私もそれに合わせて一つ食べた。その日食べた団子の味は、初めて食べた頃の味と変わってはいなかったが、人生で一番甘い味がした。公園には大きな水たまりができ、濁っていた水は私が鳴いている間に澄んだ水面となり、美しい夜空に映る星を反射していた。ベンチはもうずぶ濡れになっていたので、しばらく二人して木の下に座っていた。
「教授、思い出話の続き、しませんか」
そこからはまた互いの思い出話が始まり、やはり時間はあっという間に過ぎて行った。初めは時雨君が笑いながら話していたが、次第に私にも笑顔が増え、最後には互いに笑いあいながら話せていた。
随分話した。時計を見ると午前二時五五分を指していた。明日も講義があるので、そろそろ帰った方がよさそうだ。時雨君も時計を見て察したのか、立ち上がりついていた土を払う。そして私に駆け寄り、私についていた土も払ってくれた。公園の出口へ向かう間、何か照れくさいものがあったものの、来る時より足取りは軽かった。分かれ道に着いても、心が苦しくなることはもうなかった。時刻はもう午前三時。
「気を付けて帰るんだぞ」
「はい、教授も」
そういうと時雨君は後ろを向き、まっすぐ進んでいった。私も自分の家へ歩を進めようとしてとき、後ろから声がした。
「教授!」
少し驚いて後ろを向くと、こちらに向かって大きく手を振っている時雨君の姿があった。私が手を振りかえしてやると、彼女は手を下し、
「また明日、研究室で!」
と、深夜だというのに大声で言った。幸いこの分かれ道付近には民家が無いので、私も大声で返してやった。
「あぁ!また明日からも頼む!」
その時、私の秒針は再び動き始めていた。しかし、今度は速すぎず、遅過ぎでもない。おそらくきっと、彼女の中の時計と同じペースで時を穿っていたことだろう。時計の秒針は一周した。時刻は午前三時一分。私の時計は、ようやくまともに動き始めた。
それから家に帰るまでの私の感情は覚えていない。もしかすると何も感じていなかったのかもしれない。ただ一つ、明らかに言えることは、その日の夜はよく眠れたということだ。決して時間が遅かったからだとか、疲れたからだとか、理由の一つではあるかもしれないが、それが全てではなく、この一週間ずっと抱えていた不安と焦りが無い、むしろそれ以上に何かを得た眠りだった。夢を見たかどうかは覚えていない、しかし幸福な気分であったことは確かだ。
彼女との時間は、今日動き出した。それまで止まっていたわけではないが、同じ時を過ごしている訳でもなかったと思われる。自分の中の秒針しか見ていなかった私は、この時初めて長針と短針を見ることが出来た。時間はこんなにもたくさんある。早くしなければならないものもあるが、どれだけかかってでも成し遂げればいいものもある。残念ながらこの世の中には前者の方が圧倒的に多いが、いつだって大切な事には時間がかかるものなのだ。この一週間の私と、この日の時雨君が、そのことを教えてくれていた。雨井の期待に応えられるような人間になったかどうかは分からないが、少なくとも今の自分は嫌いではなかった。これだけでも私にとってはかなりの成長だった。
こうしてセミだった私は、人として生き、生き恥をさらしながら成長してきた。成長とは恐らくそういうものなのだろう。「成功し長くなる」と捉える者もいるだろうが、私には「成して長ける」という意味に思えた。失敗か成功かはどちらでもいい。大切なことはそれを受け止め、消化することだったのだ。
時雨君と私の物語は、今日この日から始まったのかもしれない。




