時には昔話を
昼休み、時雨君はこの間の女学生と外へ食べに出かけ、私は大学に就任してから初めて、一人で昼食を食べていた。誰もいない研究室は静かで、遠くの方で学生たちのにぎやかな声が聞こえる。彼女はその中に入れているのだろうか。ここで二人で気まずく食べるよりも、この方が互いにとって今は良いように思えた。窓から見上げると、雲一つない青空が広がっていた。蝉は五月蠅く、花にはミツバチが花粉を集めに来ていた。時刻は一二時半。今日が終わるまでもう半分以上が過ぎていた。
「さて、読むか」
余った時間を使い、既に提出されたレポートに目を通す。どの学生もオリジナルのアプローチをしてくるが、大抵は結局ほとんど似たような結論になる。それでいいのだが、個人的にはその上を行くようなレポートをいつか読んでみたいと思っている。
「そういえば・・・確か彼女も生徒だったな」
提出記録を調べると、彼女の名前が見つかった。当時三年生の彼女が出したそのレポートは、私がなかなか出さないA++がついていた。その当時の記憶は残念ながらもうあやふやなものになってしまっているが、レポートの書き方は彼女の性格をそのまま表しているようだった。ネガティブをポジティブに、ポジティブな部分はネガティブにならないようにするための考察が書かれていた。当時の彼女はどんな生徒だったのだろうか。一過性の女子生徒が、まさかこんなにも長く一緒に居るとは、当時の我々は思いもしなかったことだろう。そう思いながら、私は昔の時雨君の書いた文を読んでいた。そこへ、今の時雨君が帰ってきた。
「おかえり」
「戻りました。教授、それって・・・」
「あぁ、君が学生だった頃に出してくれたレポートだ。そう言えばと思って探したら見つかってな。・・・そうか、ということは、私は君からレポートを二つ貰ったことになるのか」
「そうなりますね。まぁ、一つは理事長に提出したやつですけど」
「あぁ、そうか。知ってるか?理事長のやつ、時雨君が出したレポートを一週間かかっても三分の一も読めていなかった。最後は泣きながら読んでいたよ」
「えっ、そうだったんですか?」
「あぁ。時雨君、今だから言えるが、あれはちょっとやりすぎだ」
「へへへ、ごめんなさい」
張りつめていた空気が、なんとなくではあるがやわらかくなった気がした。時計の針は午後一時を指していた。
「行こうか」
「・・・はい!」
午後の我々はいつも通りだった。時雨君が前を歩き、私がその後ろを歩く。その後の講義は支障もなく進めることが出来たが、私の後ろを歩く時雨君の様子は、後日生徒間でかなり話題に上がっていたようだ。
午後の講義も無事終わり、残る作業に加えて今日から提出されたレポートの評価を始めていく。私の評価はまず可か不可から始まり、可であればそこからまたB、A、A以上二つと評価が上がってゆく。大抵不可はないのだが、まれに何を勘違いしたのか、意味不明なことを書けば天才っぽく見えるだろうという考えなのか、タイトルから何から何までさっぱりなものを提出する生徒が毎年一人か二人ほどいる。大抵の場合新入生で、その年のうちに挫折している。時雨君も初めは各レポート内容をまとめて文章にして私に評価を伺っていたが、今は私の評価基準をよく理解し、もう一人私がいるかの如くレポートを捌いてくれる。作業は各業務が終わってからとなるので、レポートを見始めたのはもう一九時になっていた。レストランの予約は二一時、二〇時にはここを出る必要があったため、今日は読む人数のノルマを少なく設定した。
「さて、そろそろ行くか」
「えっ、もうですか?」
「あぁ、二一時に予約を取ってある。なかなか夜遅くまで開いている店がこの辺になくてな、少し遠くの店になってしまった。行こう」
「えっ、は、はい」
時雨君は慌てて準備すると、私の後ろをついてきた。道を歩いているとき、昨日のような極度の不安はなかったものの、焦りはどうしても消えなかった。店に着く頃には、残された時間はもう三時間と五分しかなかった。
「ふぅ、意外と疲れたな」
「はい」
「・・・意外と高い場所にあるレストランだな」
「はい」
「一応コース料理を予約したのだが、嫌いな食べ物はないか?」
「はい」
恐らく彼女が今話したいのはこんなことではないのだろう。しかし、私は急にそれを話す気分にはなれなかった。
「覚えてるか、初めて私の助手になったとき、君が私に向けてなんと言ったか」
「いいえ、覚えてないです」
「『杉下時雨と申します。よろしく今日から願いします』だ。なんだ『よろしく今日から願いします』は?と思ったのを覚えているよ」
「私そんなこと言ってたんですか?」
「あぁ、後はそうだな・・・あぁ、それこそ君が働き始めて最初の講義で復習をお願いした時だ。復習だけでよかったのにその日の講義全て自分でやってしまってな。あれには驚かされたよ」
「あはは、ごめんなさい」
「それに君がふざけてアフリカの民族の仮面を被って取れない振りをした時、数人の生徒がそのあまりの演技力に失神してしまったのをよく覚えている」
「もう、やめてくださいよ」
彼女の顔に、少しずつ笑顔が戻ってきた。そのタイミングを店が狙ってくれたのか、彼女の表情は料理を食べるたびにいつもの明るさに戻っていった。そこからは他愛もない思い出話ばかりしていた。大学時代の私の話、教授になってからの話、一緒に行った研究旅行の話。その中に八足との話もあった。話をする度、懐かしさが募った。四年とは、そんなに長いものだったのかとしみじみと感じることが出来た。
しかし、彼女との会話は怖い。時間はまた忘れられ、時刻はもう二三時を過ぎようとしていた。
「そろそろ出よう」
そう言うと私は会計を済ませ、表へ出た。




