~七日目、一週間目~
その日の朝は、この一週間の中で最もマシな太陽だった。不安が全て無くなったわけではない。時計も相変わらず私を急かすように動いている。しかし、それに押し潰されていては元も子もない。倒されそうな体を起こして、そらしそうな目を前に向けて、進むしかないのだ。今日、今日を乗り越えれば、後は幸せが待っているか、心が潰れるかだ。それを知ってか知らずか、漱石は今朝は私の膝の上からどこうとしない。しかしそれは私を止めようとしている訳ではなく、単にいつも通り私の邪魔をしたいだけなのだ。ここの皆は、昨日の私のあの姿を見ても、いつものようにご飯をねだりに来てくれた。単純に生き物としての欲に純粋なだけかもしれないが、それでも幾分心が救われた。全員の大好物を用意し、雨井の好物のエッグベネディクトも作っておいた。今日のコーヒーはなぜだか薄い。二階から眠そうな顔で雨井が下りてきた。雨井の寝室は特に決まっておらず、どこでも眠れていた。ちなみに昨夜は二階の廊下で寝ていた。悪魔の癖に眠気があるのかと疑問に思ったこともあるが、おそらくきっとあるのだろう。朝ごはんを見つけた雨井は酷く驚いていた。
「なぜ私がこれを好きだと知っているのですか!というかなぜ作ってくれたんですか!解雇ですか!私解雇ですか!」
慌てる雨井を尻目に一通りの家事を終え、家を出る。
「先に行ってるぞ」
昨日と同じく、いつかと同じく、蝉の声は五月蠅かった。しかし、今はその鳴き声が、私を鼓舞しているような気がした。足取りは軽いわけではない。頭も軽いわけではない。ただ、前に出すことに意味があると、そう言い聞かせていた。うちの大学はあんなに大きかったのか。改めて見てみると、この間のテーマパークほどある大学というのは、田舎にあるべきものなのだろうかとつくづく思う。『天才が集う大学』、私はその天才の中の一人になれているのだろうかと、ふと思った。
研究室の前で立ち止まってしまう。昨日のあの一件はやはり忘れられず、どんな顔をしていいのかわからない。ドアノブを握った手は、ゆっくりと離れてしまう。その時、後ろから手が一つ、ドアノブを勢いよく回し、私の肩を掴んだ。
「おっはよーう、時雨っちー!」
「あ、おはようございます」
「今日もいい天気だねぇ! ね!まどか・・・媛遥!?」
「私はこっちですよー」
円花さんがゆっくりと入ってくる。
「円花さん、今日はなぜ・・・?」
「この度留学が決まりまして、皆様にご報告を」
まず円花さんが学生だったことに驚きを隠せなかった。てっきり立派な主婦かと思っていたが、この年で主婦業と学業と冱露木の世話をしていたかと思うと、この人もまた天才なのではないかと思えてしまった。行先はアメリカの有名私学らしく、期間は半年とのこと。その間誰が冱露木の面倒を見るのかと思ったが、それは次の冱露木の言葉で解決した。
「んで!俺もアメリカでちょっと数字教えてくるわ!」
どうやらこことその大学は提携を結んでいるようで、冱露木は半期特別講習を開くという名目のもと、円花さんについてゆくらしい。まぁ、冱露木ほどの頭があれば、アメリカで数学を教えることくらい造作もないだろう。
「あのー、いつから向こうへ?」
「九月末には到着して家を買う予定なの。そこから半年も時雨ちゃんに会えないだなんてさみしいわ」
円花さんと時雨さんは互いに手を握り合いながら話していた。なぜ女子はこう大事な話をする時は手を握り合いながら話すのだろうか。後ろを見ると冱露木が両腕を広げていたが、見なかったことにした。円花さんと話す時雨君の顔は、先ほど私を見た時の顔とは全く違っていた。よほど昨日のことがショックだったのだろうか、今日ここへ来ることさえ辛かったのではなかろうかと思うと、彼女のその笑顔を素直に喜べずにいた。時計の針は八時三三分。私がここへ来てからまだ五分も経っていない。必要な時間は短いのに、過ぎてほしい時間は長い。彼女の時間は、この時どれくらいだったのだろうか。
「それにしてもお前、この間の女生徒はどうなる。助手としての試験もまだ受けさせてやってないだろ」
「あぁ心配すんな。あの子もついてくっから。あの子の場合はアメリカで論文をその大学に提出してもらう。それで良い評価がもらえれば、晴れて俺の助手になるって寸法だ。まぁ半年俺の元で働きながらってな感じだから、ちょうどいいかなと思ってよ」
「そうか」
「じゃあ、俺このあと向こうの人と話してくるから、少し早いけど出るわ。もうちょい日本には居るから、遊びに行きたくなったら誘えよ~?」
そういうと冱露木は扉を開け、円花さんを先に出して腹の立つ笑顔を最後まで見せてから閉めた。
しばらく扉を二人して見つめていたが、次に何を見ればいいのか分からなくなってしまった。
「あの、教授・・・」
「講義まであと・・・五〇分か。コーヒーを淹れるから、その間準備を進めてくれ」
彼女の言葉を遮るように、私は目も合わせずコーヒーを淹れた。二人分出来上がる頃には、今日の準備は終わってしまっていた。
「教授、あの・・・」
「今日の夜、話したいことがある。今言おうとしているのは、その時まで我慢してくれないか」
「・・・はい」
「よし、それでは行こう」
いつもは前を行く時雨君は、今日は後ろをついてきていた。その光景に驚く学生が多かったことを覚えている。教室に入った際も、我々の普段を知っている学生はその様子に驚きを隠せないようだった。いつも通り前回の復習を彼女に頼んだが、
「前回の講義内容ですが・・・あれ?資料が・・・」
「前回の講義内容だが、多民族国家と単一民族国家では、生活様式や法律の内容の違い、加えて環境の違いなどがあり、それを知ってもらったうえで、ではその国における『民族』という概念はどのようなものなのかを・・・」
私が前回の内容を復習するという前代未聞の事態に、教室内の数名の生徒はどよめいていた。その隣で時雨君の表情はより一層暗くなる。助け舟を出したつもりが、余計に彼女を傷つけてしまっていた。その後も講義中時雨君の様子はおかしいままだった。




