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蝉日記  作者: 十匙謎人
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“私”の意味

 やってしまった。失敗した。そんな思いが頭を巡り、口からはその言葉が洪水のように漏れてしまっていた。カエルの声が五月蠅い。頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。携帯電話の充電は切れていたが、音が勝手に聞こえてくるようだった。足元はおぼつかず、胸は痛みを通り越して苦しさしか残っていなかった。家のドアも鍵がかかっていることを忘れ、鍵を入れる手は震えていた。ペットたちにも目もくれず、私は玄関で一度倒れてしまった。


「媛遥さん!どうしたんですか!」


慌てた雨井が駆け寄る。事の一部始終が分かる雨井でも、私の尋常じゃない様子のおかしさに血相を変えていた。死んでしまいたい。そんな思いが体中を埋め尽くしたとき、私の手の感覚が無くなっていた。生きる気力を失っていた。


「ダメだ媛遥さん。死ぬことなんて何の解決にもならない!明日が最後なんでしょう?頑張りましょうよ!」


薄れゆく意識の中、雨井の声だけが聞こえていた。しかし、雨井が何を言っているのか、その鳴き声にどんな意味があるのか、分からなかった。広い壁ばかりが私を囲み、悪魔は私に語りかけ、傍に居た猫や犬も私に向かって吠えていた。私を殺そうとしているのだろうか、私を食べようとしているのだろうか、逃げる気力はもうなかった。瞳は閉じることが出来ず、背中も羽が邪魔で満足に伸ばせずにいたが、ここいらで終わっても、良いように思えた。





私の生に、意味はあったのだろうか。




 地中に居た八年間も、羽の生えた一週間も、腕と足が生えた十何年間も、結局のところ意味はあったのだろうか。深い暗闇の中で、私はそのことを考えていた。あの悪魔は、結局私に何の価値を見出していたのだろう。もしくは、悪魔が勝手に私に押し付けただけなのだろうか。だとしたらこれほど腹立たしく、情けないことはない。私の一生、思えば良いことなど一つもなかった。



いや、あったか。



 どういうわけか分からないが、私の周りには常に誰かがいた。その誰かは怒っている時もあったが、笑っている時の方が多かった気がする。その誰かだけでなく、もっと多くの人間も私に笑顔を向けてくれていた。しかし、その中の、その子の笑顔は、私に時間を忘れさせてくれた。



私は、何がしたいのだろう。



 死にたいのか、生きたいのかと問われれば、死にたくはない。まだ知りたいことがある。まだ行きたい場所がある。まだ見ていない世界がある。死にたくはない。まだ教えたいことがある。まだ連れて行きたいところがある。まだ見せたい世界がある。


 そう思ったとき、私のまぶたは閉じた。まぶたを開けると、そこには木が一本立っていた。それは大学近くの森の中だった。とても懐かしいにおいがする。とても懐かしい色の木が生えている。


「ちょうどこの木でしたねぇ。あなたと出会ったのは」


顔を横に向けると雨井が立っていた。


「そして、ちょうどこのくらいの時間でした」


立ち上がると、雨井は私と出会った頃の姿をしていた。


「しかし、あなたはこれほどまでに人間になった」


そう言うと木を撫でながら、雨井は私に語りかけた。


「悪魔ってね、基本一人なんですよ。ほら、人間助けちゃいけないし、悪魔同士も連絡手段がないし。だから、寂しくてね。何百年も何千年も、友達が欲しかった。『人間にしてほしい』という動物って少なくなくてね、結構沢山人間にしてあげました。でも、みんな、人間が辛くてやめてしまう。あなたが初めてでした。こんなに長く私とお友達でいてくれたのは」


雨井の表情は、見えなかった。


「私は、元々あの時死ぬはずだった。しかし、お前が私を救った。だけどな雨井、それが正しいのか正しくないのか、私は分からないのだ」


「物事の善悪は悪魔や神が決めることではありません。言ってしまえば、全て間違ってるし、全て正しいのですよ」


「私の今までの行動は、正しいと思うか?」


「どうでしょう、少なくとも、間違いではないと私は思いますがねぇ」


「お前らしい答えだな」


雨井の答えは相変わらずどっちつかずだが、私の時計は落ち着きを取り戻した。秒針は一刻、一刻と穿ち、私の頭の中の余計な疑念は少なくなっていた。立ち上がり、ズボンに付いていた土を払い雨井の方を向く。



「帰るか」



私に残された時間は、あと一日。

秒針は、止まらない。


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