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蝉日記  作者: 十匙謎人
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亀裂

 1限目の講義の時間が近くなり、私はその日の配布物を、時雨君は資料を持って教室に向かった。大抵の移動では教授は一人で、助手のいる教授は教授の後ろを助手がついてゆくが、我々は時雨君が私の前を歩いているため、少し変わったコンビとして周りには見られている。ちなみに冱露木の移動スタイルは女子を4人ほど侍らせて喋りながら移動していることが多い。各教授の移動スタイルはこの大学の名物であり、文化祭ではそのスタイルの違いをクイズ大会にしたこともあった。彼女とこうして歩くのももう4年になるのかと思うと、感慨深いものがあった。私はこの廊下を彼女と四年も何度も往復した。最初は私の方が前を歩いていたが、次第に彼女が並んで歩くようになり、そして今では私が彼女の後を追いかけている。教授としての威厳がないように思えるが、成長とは概してそういう物である。


 教室に着くといつもより生徒が少なく感じた。出席を取るといつもの約3分の1が来ていない。


「あ、そういえば30分くらい前に電車止まったんでしたっけ」


なるほどそれなら納得がいく。遅延の生徒を待つついでに、私は人間の不思議を話すことにした。


「人間の在り方について、考えたことがある人は?」


数人の生徒が手を挙げたので、ためしにどんなことを考えたのか答えてみてもらった。


「人はもっと愛を知ることで、戦争や争いなんて言う惨めなことがなくなると思います」


「生物の中で最も進化した種が人間なら、人間は他の種に対してもっと配慮し、行動すべきだと思います」


「肌の色による差別や人の生まれ持ったモノに対する罵倒は人間しかしない。これは進化した故の悲しい出来事である」


などと言った意見を述べてくれた。どの答えも私が聞いた質問に対する答えではなかったが、意見を尊重し、私は続けた。



「なるほど、ありがとう。今発表してくれた人の意見とほぼ同じようなことを、きっとみんな思ったことがあるのだろう。そしてみんなは今、もう一つ思っていることがあるだろう。『遅れてきたやつはギリギリに家を出たのが悪いのだから早く授業をしてくれ』と。人というのは皆そうだ。人について語れと問えば、何故か人というよりも人類に対する罵倒のセリフしか出てこない。自分もその罵倒されている側であるとは思わずに、あたかも自分は達観しているかのように同種族を貶し始める。『民族』という言葉もそうだ。同じ人類でありながら、マイノリティな生活形式をとっているだけで『民族』という言葉で締め付けている。だが落ち着いてくれ。私は今出してもらった意見に反論したい訳ではない。ただ、なぜかくも人類は他の人間を擁護する言葉を出せないのかと憂いているのだ。


 人間の在り方について、私はこう思う。人は素晴らしい。手がある。耳がある。目がある。足がある。そして何より、人には心がある。他の種族にももちろん心はある。しかし、人間ほどその複雑な心を言葉という音で表現できる種族はいるだろうか。こんなに素晴らしい世界が広がっているのに、どうして人は自身を傷ついてまで他者を傷つけるのか。そこにはやはり心という最大の原因がある。私は、人の在り方とは心の在り方、つまり、趣味ではないかと思う。私の趣味は考えること、つまり私の心の主成分は『探究心』だ。皆の心は何で出来ているだろうか。そしてそれを自覚した時、他者の心が何で出来ているかを考えてみてほしい。それが出来るようになると、きっとどんな学問でも素晴らしく思えるはずだ」



話が終わる頃にはいつもの生徒数になっていた。


「さぁ、人数もそろったことだし、講義を始めよう。時雨君、頼む」


「え?あ、はい!それでは前回のおさらいですが・・・」


 その後一限目は無事終わり、残りの講義も特に遅刻したものはおらず終わった。この日はとても静かで、五月蠅い冱露木も雨井も午後は研究室に来ることはなく、今日の講義のまとめや資料の発注作業なども滞りなく終わった。時刻はまだ一八時、しかし、ディナーにはちょうど良かった。


「時雨君、昨日の約束を覚えているか?」


「約束ですか?」


「ほら、夕食をご馳走しようという・・・」


「え、あれ本気だったんですか!」


「本気も何も約束しただろう」


時雨君は大層慌てている様子だった。本当に冗談だと思っていたのかと、その様子に少し悲しみを感じた。しばらく悩んだ後、時雨君はついてきた。


 夕食の場所を探す最中、私の秒針の音は確実に大きくなっていった。明日と明後日で、私はこの子と結ばれねばならない。しかし、肝心の彼女は一向に分からない。四年も一緒に居て、癖まで分かっていながら、彼女の心の肝心な部分が分かっていなかった。私はレストランを探すというよりも、どうすればいいかという策を探していた。いつの間にか私の歩みは少し早くなり、時雨君の先を歩く。店など、目に入っていなかった。もしかすると、この時計の針から逃げたかったのかもしれない。その時、鈴の音が聞こえた。携帯を見ると、彼女からもらった根付がちぎれていた。それを後ろにいた時雨君が拾い、心配そうな顔で私に近づいた。


「教授、どうかしたんですか?」


「あぁ、いや、なんでもない。そこの店に入ろう。よく知っている店でな、人気なものだから客でいっぱいになっていないか心配だったのだ」


落ち着きを取り戻し、時雨君を連れてイタリア料理店に入る。


 見たこともない店内が、私の不安を少しぶり返させた。内装は大人向けの色彩で、恐らく気軽に子供が来られる場所としては開けてないのだろう。厨房にはピザ釜が見え、料理人が熱そうに中の様子を見ている。料理は一部バイキングの形式をとっているのか、野菜やポテトフライ、デザートなどを盛りつけた大皿が中央に広がっている。パスタやピザはオーダーしてからの調理のようだ。店の様子を見つつ、自然と奥の方の席に向かう。時雨君をソファ席に腰掛けさせ、彼女の斜め前に腰掛けた。しばらくするとウェイターがバイキングの形式とその他メニューを持ってきた。メニューの中に酒があったので、私は白ワインを、時雨君はシャンパンを頼み、マルゲリータを一枚とそれぞれパスタを注文した。


「さぁ、では取りに行くか」


「はい!バイキング大好き!」


どうやら私の咄嗟の策は功を奏したようだ。バランスよく全てを食べたい私に対して、時雨君は好きなものを好きなだけ取っていた。ピザとパスタを注文したことを忘れているのか、皿には山盛りの偏った料理が積まれていた。テーブルに帰ってきてハッとここはそういうところではないと思ったのか、私が戻ると彼女は酷くおろおろしていた。


「ははは、気持ちは分からんでもない。次から気を付けるといい。もしこれから食事に行く時は、私の行動を見てどんな店か判断すればいい」


知らない店に入っても周りの客を見て店の立ち回りが分かる私には、それしかアドバイスが出来なかった。時雨君は小さくうなずくと、少しずつ料理に手を付け始めた。食が進むにつれていつもの時雨君らしく、「おいしい」と連呼しながら頬張るようになっていた。注文したパスタとピザは、一枚目が終わる頃にやってきた。パスタは一人前程、ピザは二人前ほどと、丁度良かった。ピザは白ワインとよく合い、時雨君もシャンパンとカルボナーラの相性が良かったようで目をぎゅっと閉じていた。私がパスタを食べ終わる頃に時雨君は二枚目のバイキングへ向かっていた。相変わらずこの子の胃袋はどうなっているのかと疑問に思う。ドリンクコーナーがあったおかげで時雨君の二枚目を待つことに暇を感じることはなかった。


 デザートに手を付けた時、話は彼女から切り出された。


「教授、今朝のことなんですけど」


「電車の事故のことか?」


「あぁいえ、それじゃなくて、教授のお話の方」


「あぁ、あれか。気にするな、単なる戯言だ」


「そうじゃなくて、教授があんな話するのって、初めてだなぁと思って」


「そうだったか?」


「はい、でも、なんだかとても悲しそうに話してました」


「はは、そうか。まぁ、肯定的な意見を聞くつもりが、皆否定的だったからな」


「みんなでも教授の話聞き入ってましたよ」


「耳触りの悪い話だったのだろう。すまなかったな」


「いえいえ!あの…教授、何か悩んでます?」


 その言葉を聞いた時、秒針がとても速く動いた。店に入ってからゆっくりとした時間が過ぎていて、その時間が続けばいいと思っていたが、やはり止まってはくれなかった。しかし、今ここで彼女に打ち明けては、断られるだろうと思った私は、必死に取り繕った。


「ないと言えば嘘になるな。なんだ、私はそんなに可笑しい顔をしていたか」


「ほら、教授毎年夏になったら蝉を口説いたり木を選別してたり奇行が目立つのに、今年はそれが無いし、最近教授色んな事に目を向け始めたし」


「だめなのか?」


「だめじゃないんですけど、なんだか、無理してるみたいで心配になったってだけです」


まるで私の心の上側を見透かしているようだった。核の部分は見抜かれていないが、それでも十分に針は速くなる。針は高速で回転し、私の時計にひびが入る。


「時間が・・・なくてな」


唇から欠けたケースの破片がこぼれる。真意はきっと伝わっていないだろうが、それでも洩らしたくはない言葉だった。彼女のテーブルを見るともう料理も飲み物もきれいになかったので、私は席を立ち、伝票を取った。


「帰ろう」


それしか言えなかった。


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