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蝉日記  作者: 十匙謎人
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夏の日

 昨日の疲れと夜更かしが祟ってか、いつもの時間より30分ほど遅れて目が覚めた。携帯のアラームもなっていたようだが、どうやら自然と手が動いたらしい。止めた記憶がない。30分ほどなら遅れても準備に問題はないのだが、遅れたという事実には多少の苛立ちを感じた。おそらく当時の私の心境的にもそれは感じざるを得なかったのだろう。


 中庭に目をやると雨井が座っていた。昨日のあの時間からずっと座っていたのかと気になり近寄ってみると、雨井は座ったまま眠っていた。つくづく器用なやつだ。こいつはこういうことをしているから悪魔として見られないのだなと憐れんだ後、自分の分とペットたちの朝食を用意した。


 私は、これは個人的なこだわりでもあるのだが、いかなる料理にも妥協という物が嫌いなのだ。ペットとはいえ好みや気分があり、それに合わせた料理を出すことに私は誇りに似た何かを感じる。犬だからと言って肉ばかりが好きではない、猫だからと言って魚ばかりが好きではない。そしてこれは私の持論だが、そもそもペットフード自体どうかと私は思うのだ。あれは人間でいうところのコーンフレークや缶詰のような物なのだろう。不味いというわけではない、私も稀に使うときはある。美味しいものも確かに存在するが、それが毎日三百六十五日、ほとんど味に変わりがないものを提供されると、さすがに何か憤りに似たものを感じるだろう。


動物によって個性もある。例えば漱石は元野良猫の長なだけあり何でも食べるが、少々肥満気味なため量は抑えねばならない。だが同じネコでも一葉は極度の偏食化で、鳥の胸肉かタイを使った料理しか食べようとはしない。犬のエジソンは野菜が苦手なので食べさせるには肉汁でその匂いを隠す必要があり、テレサは豚の耳が好物だ。一見これらのリクエストにこたえるのは骨が折れるようにも思えるが、ある程度覚えてしまうとその準備を前もってしておけばよいのでそこまで苦ではないのだ。


 さて肝心の雨井の分だが、先日に与えたドッグフードを反省し、今朝はまともな食事を用意してやった。しかし、いつこいつが目覚めるかは分からない。冷えても美味いようにフレンチトーストと、魔法瓶にコーヒーを淹れておいて雨井の傍らに置いておいた。少し急いでいたせいか、起きた拍子に落とすか落さないか絶妙な位置に置いてしまったが、大丈夫だろうか。そんな心配を家を出て公園に差し掛かったころにしていた。昨日の土産を手に下げ、いつもの研究室に入る。そこで気が付いたのだが、以前雨井が言っていた、「いつも大学にいる訳ではない」その理由は、これも含んでいたのだろうか。


 研究室には珍しく誰もおらず、一人でコツコツと講義の準備をしていた。恐らく時雨君も疲れが残っているのだろう。彼女はいつも私より先に来ていることが多いのだが、この大学では本来、助手は正式勤務でも教授より出勤は遅いのだ。私の朝の講義は九時半からで、いつも八時には出勤している。助手は本来九時出勤なのだ。それを彼女はなぜか七時には研究室に来ることが多いそうだ。一人暮らしだからという理由だが、それとこれとがどうつながるのかは不明だ。現在時刻は七時五五分。一時間以内に彼女は来るだろうか。もし遅刻したとしても、咎める気はさらさらなかった。しかし、彼女が私より後に来るとなると忙しい。いつもは大抵のことをもう既にやってくれているので、私がやることといえばミーティングと使用する資料の整理、後はコーヒーを淹れてやるくらいだろうか。その他は基本的に冱露木が来たり来なかったりくらいだ。


「今日は晴れか」


資料を抱えて窓越しの朝日を見ていると、後ろから大きな扉の音がした。


「おはようございます!」


「あぁ、おはよう」


「すいません!遅れてしまって!」


「あぁいや、一切遅れていないぞ。君は本来九時出勤なのだから、もう三〇分ゆっくりしてもよかったのだぞ」


「いやいや、だって教授一人でその日の講義の準備できるわけないですもん」


バカにされているのかそれとも気を使ってくれているのか、彼女の場合それが分からないから困る。朝の会話も草々に彼女は準備の手伝いを始めてくれた。彼女の行動の速さは毎度目を見張るものがある。歩く速さ、タイピングの速さ、ミーティングの時のメモの速さ。すべてを速く感じるということは、私自身少し年を取ったのかとしみじみしていた。そして今日はハズレの日らしく、後ろから扉の音とともに腹の立つ声が聞こえた・・・が、


「ごめんなさい冱露木さん、今構えない!」


という時雨君の声を聴き、扉は静かに閉まっていった。強いのか弱いのかわからんやつだ。


準備はすぐ終わり、授業開始まで二〇分ほど暇ができた。いつもはコーヒーを出すのだが、昨日の疲れが残っているだろうと思い、今日は冷蔵庫から栄養ドリンクと牛乳を少し常温に近づけたものを出してやると、ほっとした顔で


「さすが教授分かってらっしゃる!いただきまーす」


と両手で飲んでいた。この両手で飲む動作は実は彼女の癖であり、一息ついた時に彼女は冷たい飲み物でも両手で飲むのだ。ちなみに私は考え事をしている時は左手で飲むという癖がある。これは私のもう一つの癖が理由なのだが、特に何もすることがないときやそれこそ考え事をする時、私の右手はあちこちに行くのだ。後頭部、鼻の下、左肩、基本的にはこの三点のどこかへ向かう。人の癖を見るのは楽しいものだ。例えば冱露木は嘘をつくときは右手の人差し指が二回動き、焦っているときは目をこする癖がある。八足は何か行動を始めるとき唇を噛み、手持ち無沙汰な時は太ももを軽く叩く癖がある。雨井にも手持ち無沙汰な時は指をはじく癖があり、何か行動するときは手首を握り、反対の手で握り拳を作る癖がある。そう言うところを観察しておくと、相手とのコミュニケーションに役に立つことが多くて助かる。言ってしまえば癖のある人間ほどわかりやすくて助かるのだ。


 さて、ここで不思議に思うだろうが、この大学は夏休みでも講義がある。これは就職活動を講義などを気にせず集中したい学生向きのプログラムで、大学特有の長すぎる長期休暇中に希望者は講義を取り、単位を修得することが可能だ。課目によっては希望者がいないものもあるが、私の講義は毎年希望者が現れる。ただ、それでは教授や助手に休暇がなくなってしまうため、夏季休暇中の講義は1ヶ月間に、週4回の講義となる。そのため教授サイドも少しいつもの講義より準備が忙しくなるが、講義を受け持った教授には特別ボーナスが発生し、教授は助手にその労力に応じた給料を大学側に要請することが可能なのだ。時雨君はそれに加え正式な助手としての給料も入るため、よく準備している最中に「がっぽり、がっぽり」と小唄を歌っている。


 夏季休暇中の学生は特に意識が高いものが多く、通常よりも講義の質を上げないといけないため使う資料にも気を使う。そのため時雨君の助けは非常に重要だった。しかし、この時期になるとよく思うことがあるのだが、冱露木はどんな準備をしているのだろうか?今朝も準備するはずの時間に我々を訪ねてきていたが、奴は助手を雇ってはいなかったはずだ。かといって講義がないわけではなく、あいつも毎年参加者がいる。深く穿鑿はしなかったが、恐らくその辺もやつの才能の一部なのだろう。


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