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蝉日記  作者: 十匙謎人
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我輩は人である

 それぞれの帰路に着き、私は自宅に帰った。その日は珍しく雨井がおらず、代わりに漱石が出迎えてくれた。帰った時刻は23時半。普段は眠る時間なのだが、ここ最近は眠れず、中庭で月を眺めることが多い。この家の中庭からは夜中に必ず月が見えるようになっている。これは私が頼んだことではなく、雨井の趣味なのだそうだ。よく雨井が一人で月を見ているのを見かける。その雨井の場所に、私はいた。すると漱石が隣へやってきて、丸い体を私にくっつけ座った。


「今日は喋るのか?」


しばらく沈黙した後、漱石の鼻から笑みがこぼれる。話を聞いてもらうからには互いに何かなくてはならないと思い、私はコーヒーを、漱石にはぬるめのミルクに粉末状のマタタビを加えたものを出した。


「綺麗なものだな、空にあるものは」


「あぁ全くだ。我々畜生でさえその美しさに目を囚われる」


「畜生という言い方、前から気になっていたのだが、なぜお前からそう言うのだ」


「我々には名前がない。人間様が付けた『猫』や『犬』といった種族、お前さんやアホタレが付けてくれたような『漱石』や『キュリー』。あれは名前というより、首輪の類だ。聞いたことがあるだろう、名は呪いの一種だと」


「あぁ、いくつかの本で同じようなことが書いてあったな。しかし、畜生はどうなのだ、言ってて嫌だとは思わないのか?」


「ではこう聞こう。『奴隷』はなぜ『奴隷』を嫌がるのだ。それはきっと名のせいではあるまい。名前ではなく、その境遇と自己の意識をその名のせいにしているからであろう。もしその『奴隷』という言葉に、本人が誇りを持っていたらどうだ?人でありながら人の下で働く、しかしそこに誇りを見いだせているのなら、その名を汚いとは思うまい」


「なるほどな。漱石、お前雨井よりも断然頭がよいのではないか」


「はっはっは、あのアホタレと一緒にされては困るな」


つくづく可哀想なやつだ、あの悪魔は。私はコーヒーを酒に持ち替え、漱石もようやく出したものを飲み始めた。


「なぁ漱石、お前は何かを愛したことはあるか」


「私に人間様の恋愛相談はしない方が良い。なんせ猫だからな」


「そうかもしれんが、参考にな」


「つくづく面白いやつだ、お前は。そうさな・・・ないと言えば嘘になる。しかし、我々畜生が何かを愛し始めた時は、もう時間がない証拠なのだ。愛など普通は分からぬからな。しかし、性行為を除く愛が分かると、家族であったり仲間という物を愛おしく感じる。人間様の言う愛と、お前さんの言う愛というのは、もしかすると何か違いがあるのではないか?」


漱石は含みのある顔をしながら私に語りかけた。私の正体を知っているのかと一瞬考えたが、もし漱石が気付いていたとしても、何も問題はなかった。漱石の言う人間と私の考え方の違いは、果たしてなんなのだろうか。私と人間との違いは、多すぎてむしろ分からなくなてしまっていた。


「この世界は、あいつは、私に何をさせたいのだろうか」


酒が入ったせいか、私はふと途方もない悩みを猫に打ち明けてしまった。


「世界が生き物に求めることなど分からぬ。あのアホタレの考えることも、分かりやすいが分かろうとはしていない。考えるだけ無駄というものだ。大切なのは、自分が何を思い、何を考え、何を求めて生きるのかではないか?もし世界が何かを求めて我々を産み落としたのなら、求めていることを伝えぬのは理不尽ではないか。それなら、自分のやりたいように生きてもよかろう。人間様の世界には束縛と責任という物が存在する。それは、人が生きる理由を求めた結果の副産物なのだろう。しかし、それならその枠組みの中でやりたいことを最大限にすればいいのだ。後悔など、どんなに最善の選択をしても出来てしまうものだ。お前は今、私とこうして話している。これは、世界がお前に求めたから、お前が話しているのか?」


漱石もマタタビが入ったせいか、長く話してくれている。


「あぁ、人間様の言葉は口が疲れる。そろそろ黙って猫に戻ってもよいか?」


「あぁ、すまんなわざわざ。ありがとう、漱石」


そういうと漱石はいつもの鳴き声を上げ、私の膝の上にやってきて空を見上げた。長々と話して疲れた割には、漱石の喉からはご機嫌な音が聞こえていた。


「ところで漱石、お前以外のやつらは人語を話さないのか?」


そう尋ねると漱石は何も言わず、目も閉じてしまった。おそらくきっと、そういうことなのだろう。悪魔のことを『アホタレ』扱いできるとは、さすが漱石はここ一帯のボスなだけある。普段は夜でも猫と犬だらけのこの中庭も、今日は私と漱石しかいなかった。しばらく漱石を撫でていると、いつの間にか漱石の喉から音は消えていた。


「おやおや、寝てしまったようですね」


後ろから静かに雨井がやってきた。どうやらこの時間だというのに散歩に行ってたらしく、後ろからぞろぞろといなかったペットたちがやってきた。それぞれみな漱石を起こさぬよう、適当に屋敷に散らばっていった。飲みのこしのコーヒーを差し出すと、雨井は嬉しそうに飲んでいた。確かにアホタレと言われても仕方ない。しかし、雨井もまた、考えることをやめた側の者なのだろう。この男も天使と悪魔という束縛と責任の中に生まれ、悪魔という枠の中で自分のやりたいことをやっている。もしかするとこういうやつこそ、我々が求める理想の姿なのかもしれない。私は雨井に指定席を譲り、漱石を抱えて寝室に入った。漱石の喉が再び鳴り、その音を聞きながら眠りに入る。

私に残された時間は、あと3日。


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