プロローグ
夏の終わり、その男は私に向けてこう言った。
「あなたの願いを、三つ叶えましょう」
夏、様々な植物が青々と茂り、太陽はあらゆる生物を無慈悲に照らし、雨は遠慮なく田畑に降り注ぐ。大人は子供との束の間の休日を楽しみ、子は教育からのしばしの解放を謳歌する。そんなありとあらゆる生物が精力を増す季節に、一種類だけ、夏にしか現れない嫌われ者が登場する。日中も鳴き、夕暮も鳴き、あわよくば宵時にも五月蠅く鳴く。
そう、蝉である。
しかし、そんなセミにも、時に思わぬドラマが降りかかってくる
……いや、きた。
私は、モテないセミだった。地中深くで成虫になるのを8年間も待った。まあ、実際は本能的行為なので、もしかするとそんなことを思ってすらいなかったかもしれないが、とにかく、長い間真っ暗な中に私はいた。やっと、やっと地上に出られた。立派な成虫にもなった。しかし、残酷にも私に残されたのはわずかな時間だ。死ぬ前に、なんとしても子孫を残さねばならない。私は鳴いた、自分の存在を誰かに知らせようと。しかし、誰一人として私に近寄らぬまま、とうとう私の寿命は残り少なくなってしまった。
「おそらく、私は朝日が昇るころには死ぬだろう」
死期を悟った私は、鳴くのをやめていた。
もういい、疲れた。鳴いても誰も私には気付かない。
「そんなことないとは思いますがねぇ。少なくとも私は気づきましたよ?」
ふと目線を前にやると、全身真っ黒の格好をした男が立っていた。
「どうも、こんにちは」
その男は紛れもなく私にあいさつをしていた。間違いない、私を捕まえようとしているのだ。
なんとしてもここから逃げないと。
「あぁ、待ってくださいな。私は何もあなたを捕まえようと話しかけたわけじゃない。あなた、何か困っているんでしょう?私でよければ、話してみなさいな」
そう男はにっこりと不気味な笑顔で私に言った。私は、もう自分が死ぬことを察していたので、腹いせに男に話してみた。
「私は、長い間、暗い、狭い、何もない所で待っていた。待っていたんだ。どこで待っているのか、何で待っているのかも分からないまま。ようやく出られたんだ。明るい外に。羽も得た。自由だと思ったんだ。しかし、与えられた時間が短すぎる。もっと、もっと私に自由があれば……。この羽は何のための羽なのだ。この腹の板は、何のために鳴るのだ。
教えてくれ、私のあの孤独は……地上に出てまでも続くのか」
私は思いのたけをすべて語った。どうせこの男は私の言うことなど聞こえない。適当に話しかけただけの、ただの寂しい変人だ。そう思ったのだ。
「ふむ……なるほどね。確かにあなた方蝉は、たった7日間、それもただの交尾のために、8年も生涯を土の中で暮らさないといけない。なんともまぁ酷い話ですよねぇ……、同情しますよ。にしても、私のこと変人扱いするなんて、ひどいなぁ。確かに寂しいのは寂しいですが、せっかく愚痴を聞いてあげたのに、その態度はいただけません」
私は黙った。この男、さっきから私の言葉、頭の中、すべて理解している。そして困惑した。こいつは人間なのか? 人間はこんな風に同種以外の言葉や心がわかる種族だったか? 私の頭の中身は、もうぐちゃぐちゃになっていた。その時、男は言った。
「あぁ、そりゃあ驚きますよね。んんっ、私、実はこういう者です」
男は私に向かって小さな紙切れを渡してきた。今となってあれが名刺であることに気付いたが、当時の私にはただの白い何かでしかなかった。
「おや、失礼。蝉に文字はまだ早すぎましたね。私、悪魔です、たまたま通りかかったね」
悪魔という単語は聞いたことがなかったが、おそらく潜在的な何かだろう、その男が私にとって良い存在ではないことは分かった。
「なんだ、私を殺しに来たのか。もういい、どうせ短い命だ。今絶たれたところで何の影響もあるまい。一思いにやるといい」
「いえいえ、何をおっしゃいますか。私は、あなたを助けてあげようと思っているんですよ?」
「何を言う。お前のような不気味な人間が、私を助けるなど……冗談にしては笑えないぞ」
「冗談だなんてめっそうもない。いやね、確かに本来私は死神の代行としての仕事もありますが、今回はたまたま通りかかっただけですよ。たまたま通りかかったところに、あなたがいて、たまたま話を聞いたら、興味が湧いた。それだけのことです」
「ふん、そんな話信じられると思うか」
「信じる信じないはお任せしますが、できれば信じてほしいものです。では、こうしましょう。私が悪魔であることを信じてもらうために……
あなたの願いを、三つ叶えましょう」
私は男がますます怪しく思えた。と同時に、とても腹を立てた。もしこいつの言うことが嘘なら、どんな仕返しをしてやろうか。私のこの口で目玉を刺してやろうか。願いを三つ叶える?
「そんなことできる訳がない」
私は投げるように言った。
「だったら私を人間にしてみろ!」
「承知しました」
そういうと男はかぶっていた帽子を私にかぶせた。私は暴れた。騙された。この男、やはり私を最初から殺す気だったのだ。私は渾身の怒りを込めて帽子へと突進した。すると、帽子は破け、私は外に出られた。
「なにをする!貴様やはり騙したな!この口でお前の目を突き刺してやる!」
「やめてくださいよ。私、男と接吻するような趣味ありませんよ」
「何を言う!」
「落ち着いてください。あなた、今足何本ですか?」
「そんなこと数えなくてもわかる!ちゃんと6本ついている!」
「じゃあ数えてみてください」
「1、2、3……4」
「でしょう?んで、あなたの胸ぐらいから垂れているその上二本は、足じゃなくて、腕です」
「……待て、待て。私の……羽はどこへいったのだ。すべて見渡せる目も、樹液を吸うための口も……皆……形が……」
「なんなら今のあなたの姿、見ますか?」
男は鏡を用意し、私に見せた。
「おい、なんだこれ……。
これじゃあまるで……」
「だから言ったでしょう?あなたの願いを、三つ叶えて差し上げると」
その男は、本物の悪魔だった。
そして私は、本当に人間になってしまった。