第一章 初日―商人ノーム
大陸の西部には沿岸の一部を取り囲むような形で山脈があり、その内側の平野部に位置する国にとって、西の海と同様に天然の要害の役割を果たしている。
人々は山中を走る馬車も通れぬ細い道、獣も出れば山賊も出ると言う、決して安全とは言えない道を通って行かねばならないのだが、その困難さにも係わらず誰もがその国に行きたがる。
その国、ハーフェン、大陸一の秘境と呼ばれるその沿岸都市は、山を越えて少し進み、なだらかな丘を登りきったところで視界に現われる。
穏やかな海の明るい青色と、遠くまで広がる平野の緑の背景の中に、純白の城壁や建物がきらきらと明るい光を反射させている。
その白地の上に、連なる家々の屋根が、鮮やかな青色で不定形な線を描き出す。
それは波のように、あるいは龍のように、太陽と雲の戯れの中で、模様を浮かび上がらせては消えていく。
その光景を見る者は、自分はどこか別の世界に来てしまったのではないかと、自らに問いかけることになる。
そのえも言われぬ美しさは、アッサムの心をも奪った。
晴れ渡る空の下に、まるでその空を一つの磁器の中に閉じ込めてしまったかのような、白と青の高貴なる街並み。
同じく白に統一された港には、巨大な船が何艘も停留し、その周りを子蟻のように小さなヨットが行き交っている。
そこから少し視線をずらせば、色とりどりのテントの張り巡らされた大きな広場があり、おそらくはあそこで市が開かれているのだろう。
そして更にその向こうの、北側の沿岸の高台には、一際輝く純白の城が屹立しており、堂々とした佇まいでこの街の全体を見下ろしている。
「ううむ」
思わず嘆声を漏らす。
「私はもう何度もここに来ていますが、いつ見ても素晴らしいものです」
街の光景に見惚れていたアッサムが突然の声に驚いて顔を向けると、すぐ右手に、腕を頭の後ろに組んで、気持ち良さそうに斜面の木陰に寝そべっている男がいた。
「誰だ?」
アッサムは注意を散じていた自分を恥じると共に、その男への警戒を強める。
「そう睨まないで、怖いです」
男は苦笑しながら顔の前で手を振った。
それから体を起こして草を払い、さっと身だしなみを整えたかと思うとアッサムに近付いてきて丁寧に礼をした。
「ノームと云う者です。商人をやっております」
男はそう言って口元から白い歯を覗かせた。
ずんぐりと小さいながらもがっしりした体格の持ち主で、色の濃い顔はやや大きく、飛び出した左眼が印象的である。
焦げ茶色の髪の上に頭巾を被り、もうずいぶん暖かいと言うのに妙にぼてぼてした緑色の衣服をどうやら二重に着ている。
肩には旅の荷物であろう大きな袋を担ぎ、腰にはいくつかの小さな巾着を下げている。
そのどれもが青や緑といった色合いで、それが不思議とこの男の異国的な雰囲気に合致しているのであった。
「これは失礼した。アッサムだ。テークレンツから来た」
アッサムも礼を返す。
まだ完全に警戒を解いたわけではないが、相手が丁寧に接してきている以上は応えるべきだ。
アールグレイに仕えるようになってから、王都で多少練習してきたこともあって、礼儀作法への意識は植え付けられている。
口調はなかなか直らないが、アールグレイ曰く、西の方では特に問題はないらしい。
「これはどうもご丁寧に。テークレンツとはまた遠い所から、大変だったでしょう。ハーフェンは初めてですかな?」
そんな風にノームと名乗った男は気さくに話しかけてくる。
不思議と嫌悪感を抱かせない語り口で、アッサムも応じている内にいつの間にか警戒を解いていた。
二人は会話を続けながら城門へと向かった。
ノームは南の国――ハーフェンの南であり、ヴァイゼの西にあるヴァルト――の出身で、今はヴァイゼを中心に活動しているという。
「それは奇遇だな、この間まで俺もヴァイゼにいた」
そうなのだ、テークレンツを出発したアッサムは先ずはヴァイゼに訪れた。
勿論アールグレイからの命令である。
王都まで出向いて当地に滞在しているテークレンツの外交官に文書を渡し、その後は王宮でパーティーがあるとかで一週間ばかり滞在していたのである。
どうしてパーティーに参加することになったのかはアッサムにとって謎である。
なおそのパーティーの内容がどうであったかは思い出したくない。
一つ言えることがあるとすれば、その外交官がついていてくれていて本当に良かった、ということだけだ。
「ほう、左様ですか。何か特別な用事でも?」
「ま、まぁ……少しな……」
まさか国の用事で、とは言えまい。
「そうですか。王都には行かれましたか? 中々に素晴らしい所ですよ」
「……」
アッサムは一瞬詰まってしまった。あのパーティーのことが頭を過ったのだ。
とは言えそれを除けば、一週間の内に見て回った、あの雄大な川に抱かれた歴史ある街は、確かに素晴らしかった。
「あ、あぁ、あれは凄かったな。この国には負けるが」
「ははは、さすがにハーフェンには敵いません」
ノームは心底楽しそうに笑った。