09
「じゃ、俺はあれでも作るかな」
お茶を飲んだばかりであれだが、あれは冷めても美味いからな。
「あれ?」
文香が林檎の手を握りながら聞いてくる。咲はそんな姿を見て、自分も林檎の手を握ろうかどうしようか手を出しては引っ込めるを繰り返し、迷っている。
「ほら、この前買い物行った時に買った酒粕」
「確かにダーリンが買ってたのは知ってるけど」
それがどうかしたの? と問いかける文香と、そもそも酒粕がなにかわからない咲は首を傾けている。林檎は文香に何を作るか耳打ちすると、文香はそれを聞き納得した様子で流し台の下にある棚から雪平鍋をとりだした。
「なにを作るの?」
「甘酒、飲んだことあるか?」
横から空鍋を覗き込む咲に聞いてみると、首をフルフルと横に振った。文香は缶では飲んだことはあるが、出来立てを飲んだことがない様子で、どんな味なのか、缶とは味が違うのかと、楽しみにしている。
「じゃ、作ってくるわ」
「私たちは居間で待ってるね」
行平鍋を林檎に渡す文香は、鼻歌を歌い上機嫌だ。
「私、泊めてもらう立場だし、お礼として手伝わないと」
文香と違い、咲は林檎の手伝いをしようと申し出ると、行平鍋を持った林檎の隣に立とうとする。けれど文香が咲の腕を掴み、一緒に居間で待っていようと台所から退場させる。
「貴女はここにいるの。いいわね?」
まるで母親だなと林檎が言うと、文香は「誰が母親ですって?」と笑顔で林檎に問い直す。笑顔のようだがその背景に夜叉が見えた林檎は「なんでもない、すぐ作る」とだけ言い残し、台所に引っ込んだ。
「でも……」
文香の命令に、咲は少し渋ったような顔をしている。けれど文香は甘くない。
「言うこと聞けないなら、ここで消すよ」
真剣な面持ちの文香に気押されたのか咲は素直に頷いた。そして台所へ向かうのはやめ、先ほどまでいた座布団にちょこんと座りなおした。
「よろしい」
満足そうに文香は咲の頭を撫でている。
「あ、待ってダーリン」
文香は居間にある木製のチェストから林檎を居候させると決めた時に買った男性用の紺色のエプロンを取り出し、林檎に渡した。それを受け取った林檎も素直に礼を言いエプロンを着用した。
「ほら、後ろ結んであげる」
子供のように扱われて恥ずかしそうにする林檎だが、気にせず文香は林檎のエプロンの紐を結んでいる。まるで自分が彼の嫁だとアピールするように。
「楽しみにしてますね、ダーリン」
結び終えた文香は林檎と向き合い、ちゃんとエプロンを着たかどうか確かめる。そんな様子を居間から覗いている咲は、どこから用意したのかハンカチを噛んでいる。すると林檎は文香の頬がほんのり赤くなっているのに気が付いた。今になって文香も恥ずかしくなったと思った林檎は礼を言うと、文香は恥ずかしそうに林檎の腰に腕を回し抱きついてきた。
「お、おい」
「いつものことじゃないですか、ダーリン」
少し力を込め、右腕を腰に、左手を林檎の背中に当て抱きつく文香。セーター越しのせいか、綿毛の様にふわふわと柔らかい胸の感触にドキドキとする林檎。反射的に自分も文香のくびれのある腰に手を添える。すると文香はそのまま少し背伸びをし、林檎の唇にキスをする。
突然のキスに、林檎は目を見開いた。反対に文香は目を閉じており、少し余韻を持たせゆっくりと唇を離す。
「ふ、文香!?」
「料理が成功するおまじない、です」
予想外のキスに、林檎の顔は名前通りリンゴのように真っ赤になってしまう。なぜなら二人が共同生活を送ってから数日経つが、キスをすることがなかったからだ。事実驚きを隠せない林檎。
「くっ」
居間から悔しそうな声が聞こえ、声のする方向を見る林檎。
「なんでもない、仲良いんだね」
一瞬咲が舌打ちをしたような気もしたが、表情は笑顔のままだ。咲の顔を見ていると、頭の中に、突然女性の声が聞こえてきた。
『林檎さん、林檎さん』
脳内に聞こえてくるのは優しく柔らかいウィスパーボイス。林檎はそれに耳を澄ませると、その声は徐々にはっきりと聞こえてくることに気が付いた。
『文香です。ふ、み、か。もし聞こえていたら、頭の中で返事をして下さーい』
頭の中で返事と言うのも変な言葉だが、林檎はとりあえず言われたとおりにしようと、頭の中でイエスと念ずる。
『ああ、俺だ、林檎だ』
『良かった、聞こえていたんですね』
『それより、さっきのき、き、キス……あれなんだったんだ?』
『あれはこれをするための儀式みたいなものです』
この脳内での会話、いわゆるテレパシーだが、これは天使たちが秘密裏に会話を行う際の会話手段らしい。通常なら死期迫る人を看取る際に、声を出し死にゆく者を安心させ導くのだが、咲のような悪魔との集団戦闘に入った場合、地獄耳を持っていることが多い悪魔たちを相手にする天使たちは作戦内容を聞かれないよう、テレパシーで会話を行うのだ。そうすることで作戦の漏えい、妨害を防ぐと林檎に伝える文香。
そして話は少々逸れるが、テレパシー以外の天使同士の声に出す会話も基本的には死にゆく者や天使同士、悪魔相手でした聞こえないし会話手段になりえない。しかし稀にこの会話を生きている状態で聞ける人間がおり、それを『天命』『インスピレーション』と勘違いして行動する者もいる。
天界で流行っている歌や、何気なく天使や悪魔が口ずさんだ鼻歌を聞いたミュージシャンがその曲を元に名曲を作ることや、天使たちが下界の諸事情や問題解決法を何気なく口にしたり考えているのを聞いたことで、今まで解けなかった難問をある朝突然目が覚めると、熱したバターナイフをバターに当てたように、見る見るうちに解けるようになるのがその最たる例だ。
『なるほど……』
しかしテレパシーなら聞かれる心配はない。個人情報保護完璧! と文香は林檎に伝える。しかし林檎は居間の説明を聞き納得する部分も多々ある中、気になることがあった。
『どうです? もしかして、気分が悪いんですか?』
考え込み黙る林檎に文香はテレパシーで心配そうに語りかける。林檎としても天使の会話手段について正直知りたくは無かった。聞かなければよかったと後悔していたからだ。
なぜなら、もしかしたら俺の好きなアーティストの曲や、パンクバンドの疾走感あるリフ、熱狂的信者の多いデスメタルの名曲が「実はこれ、天使の歌が元ネタでーす」なんてことだったら、ショックすぎる……。
『あ、あのー』
『すまない、何でもないんだ』
心配そうな文香に気にしないでくれと返事をする。
『ところで、そのテレパシーってやつはキスをする必要があるのか?』
林檎のふとした問いかけに、文香からの返事が途切れてしまう。テレパシーが切断されたと思った林檎は、脳内で何度も文香の名を呼んだ。すると上ずった声が返ってきた。
『そっそそそ、そうなんです! 本来ならしなくても別にできるんですけど、念には念をいれて、キスすることで二人の意思がはっきりつながるんですよ。本当ですよ! 天使は嘘言いませんから! あ、信じてませんね? 言っときますけど、私だって男性とのキスは初めてで……あ、相手がいないってわけじゃなく、そりゃあ私だってもう結婚適齢期ですよ。でも誰かれキスするなんて破廉恥な真似はしません! 今回だって……って、何言わせるんですか!!』
テレパシー越しでもわかる喜怒哀楽、文香の心情がよくわかる声と、最後には『本当ですよ。信じてよダーリン』などと泣きそうな声が脳内に伝わった。なので林檎も話を変えるべく、『気にしてないし、信じてるよ文香』と声をかけ、逆に「文香とキスできたなんて幸せだよ」と我ながら恥ずかしいセリフだと思いながらも林檎は文香に礼を言った。
このことで今度は焦った様子で林檎の名を呼び、それ本当なの? と何度も問う文香に本当だと伝え、話を本筋に戻そうと提案する。
『そうだ。こんなテレパシーで会話するからには咲、悪魔がらみだろ?』
林檎が頭の中で文香に聞くと、文香もその通りと、力説する。
『そうなんです! あの咲ちゃん、いえ、彼女は猫を被っています!』
力説する文香に驚きつつも、その理由を聞くべく耳を傾ける林檎。
『で、話を進めるとですね、これは、悪魔の甘い罠です』
『甘い罠? なんだか美味そうだな』
甘いのか。美味しいのかな。と冗談はさておき、林檎はどんな罠か考えていると、文香は咲の狙いを語りだす。
『はい、甘い顔をして、弱い姿を見せ、林檎君の庇護心を揺さぶっているんです。あと美味しくは無いです。悪魔を甘く見てはいけません』
『なるほど、だから文香は俺にキスを……』
『はい。思った以上に気持ち――』
『気持ち?』
気持ちってなんだと林檎が聞こうとすると、文香は慌てた様子で喋り続けた。
『とにかく、油断はしないでください』
これからも演技を続ける。ある程度過剰なスキンシップもするかもしれないから、覚悟してくださいと忠告する文香。
『それは天使の勘なのか?』
『女の勘です!』
――天使じゃないのかよ。とツッコミを入れる林檎だが、文香に『私の第6感、シックスセンスを信じて下さい』と言われたため、また自分の勘より優れているだろうと判断した林檎は文香の忠告に素直に乗ることにした。
『良かった。じゃあこの会話もそろそろ終わりにしますね、ダーリン』
語尾を上げハートマークでも付きそうな言い方でテレパシーを終了する文香。そして林檎はテレパシーを終え現実に戻る。
「はっ!」
夢から現実へ急に引き戻されたかのように、林檎はまわりをキョロキョロと見回していた。時計を見ると時刻は数分はおろか、数秒程度しか経っていない。
「ダーリン、いえ、あなた。んふふ」
目の前には俺を『ダーリン』改め『あなた』と呼びながら、先ほどと同様に抱きついたまま体を摺り寄せてくる文香がいた。
「ね、ねえ、私邪魔なら」
そんな二人を見て顔を真っ赤にした咲。林檎は「邪魔じゃないよ」と咲に告げると、文香の頭をなでてから文香との腰から手を離す。
「もう」
文香は文香で不満げに、残念そうに艶っぽく指をくわえて林檎を見ている。あまりに演技に熱が入っている文香に、林檎も負けてはいられないとお返しする。
「まじないありがとな、マイハニー」
先ほどのお返しにと頬にキスをする林檎。文香は一瞬停止した後、先ほどの林檎同様、顔を真っ赤に沸騰させてキスされた頬を両手で抑えている。その姿を見た林檎は文香も文香で緊張していると知り、それでもなお婚約者役を演じようと頑張る文香に愛しさを感じる。ただし文香からの愛が偽りであることを同時にハッキリと認識し、自身の浮つきっぷりに苦笑する。
咲はといえば、顔を真っ赤にし嬉しそうに立ちつくす文香を「調理の邪魔しちゃだめ」とぐいぐい引っ張り、台所から退場させようとする。そんな姿を見た林檎は咲に近寄り、まっすぐで癖の無い咲の黒髪を撫で、「文香と大人しく座って待っててな」と指示を出す。
「う、えへへ。うん」
予想外に頭を撫でられたことで一瞬驚いた様子を咲は見せるが、すぐにその表情は蕩け、頬を染め、口元が緩み、笑みをこぼしていた。
「じゃあ頼むぞ」
林檎の言葉に咲は嬉しそうに何度も首を振る。
「何か手伝って欲しかったら言ってね……ほら、鉄分とか」
真っ白で簡単に折れてしまいそうな細い手首を見せる咲。甘酒に鉄分なんかいるか。咲へ適当な返事をし、林檎は流し台へと向き合う。
「残念……飲んで欲しかったのに」
咲はそう言うと、いつの間にか持っていた鎌を着物の袖にしまった。見なかったことにしよう。林檎はその鎌と細い手首で何をするのか追及するのをやめた。
「さて、作るか!」
一人残った林檎は大きく背伸びをし気を吐くと、二人のために調理を始める。




