05
――文香の話を要約すると、咲は咲の両親に怒られ実家もとい地獄へ帰っていったらしい。なんとも拍子抜けする話だろう。
「咲の両親? どんなやつです?」
「あの子の親、母親は凄い悪魔だったの」
死神の親は悪魔なのか。死神じゃないのか。
「で、無傷で何もしていない人間をむやみに傷つけた咲のことを知った母は、鶴の一声。咲に実家に戻るように言ったの」
実家……文香の話によれば、咲は母親に反論せず、顔色は青くまるで蛇に睨まれた蛙のようだったという。
「じゃあ、助かったのか?」
咲からの開放、これ即ち自由なり。それに文香が堕天使ではなく天使だということに一安心する林檎。
「一時的にだけどね」
「一時的?」
そう相手は悪魔。ただでは帰らない。帰り際に――ダーリンは私のモノ。牛女、手出したら殺すわ。と言い残して帰っていったらしい。「誰が牛女よ」と文香は怒るが、林檎は自分にはめられた忌々しい指輪がまた咲と自分を結びつけるのではないかと、懸念する。しかしそうとは言い切れない。余計な気苦労をかけさせまいと、林檎は指輪について黙っている。
「文香さん……俺、どうすれば」
自衛手段として武道でも習えばいいのか? と安易に考えるも、付け焼刃ではどうにもできないことを先の戦いを見て学んだ林檎である。
「ううん、あの子は死神。ただの人間じゃ勝てないよ」
やはり詰みじゃないか。どうなっているんだ。林檎は八方ふさがりだと頭を抱えると、文香は解決案を提案してくれた。その解決案というのが――
「だから、しばらくここに住んでもらえるかな?」
「は?」
戦い、生きるための話をしていたはずだが、どうしてそんな話に? 林檎の頭に?マークが浮かんでくる。
「だって、家にいると襲われるでしょ? 一緒に暮らそうか」
文香さんはニコニコと紅茶の入った猫の絵が描かれているマグカップを両手で持っている。昨日までの俺なら美人な文香の誘いに喜んでOKしていただろう。と林檎は考えた。けれど『一緒に暮らす』その言葉が、咲が連呼していた『結婚』『実家に連れて行く』『責任』という言葉を連想させる
「結婚?」
の真意を知りたく、無意識に声を出していた。
「ええ?」
結婚という単語に文香は顔を赤くし、俺の質問を聞き恥ずかしそうに下を向いたかと思えば「えっと…したいの?」と問いかけた。。
「え、いや……その、冗談ですよね?」
笑って否定なりしてくれた方が……まさか、文香さんも? 林檎は文香を見つめる。俺のどこが良いのかなどを考えていると、文香は飲んでいた紅茶を一気に飲みほし、マグカップをテーブルに強く置くと、必死に両手を顔の前で振っている。
「そんなんじゃないから、そ、そんな結婚だなんて……私にとって林檎君って確かに家族のようなものだけど、それはえっと……妹、じゃない弟! みたいなものなの!」
「弟、ですか」
だよな、うん。安心した。 林檎はほっとすると同時に、文香からは男として見られていないということに少々肩を落とした。
「あ、でも、しばらく私の家に住むんだから、そういう設定のほうが良いのかな? ちょっと待ってね」
文香は立ち上がりテーブルの上にあった自身のスマートフォンをとり、部屋から出て行った。ドア越しだが「あ、ママ?」という声が林檎の耳に入ってくる。
「うん。え、そう? だよね! ありがと、ママ」
電話先は文香さんのお母さんらしい。……おそらく、年頃の娘の家に男がとかそんな話だろう。一分もたたないうちに、文香は電話を切り部屋に戻ってきた。
「お待たせー」
「お母さんに電話ですか?」
「え、うん。もしかして、聞いてた?」
恥ずかしそうに聞く文香に俺林檎は文香のお母さんの名前が出たところだけ聞こえたと告げる。すると文香はなにやら安心した表情を浮かべている。
「あ、うん。ママに色々聞いてみたけど、問題ないし、そのほうが良いってさ」
「その方が良い?」
「私たちが『結婚』この場合だと『婚約』のほうが適切かな?」
『結婚』『婚約』
その言葉を聞いただけで体中から血の気が引き、背筋が冷え、体が震えてくる。林檎は落ち着きを取り戻そうと紅茶を飲もうとするが、その手は震えマグカップの中の紅茶がカタカタと震えている。
「あ、あくまで振り、あくまで婚約したふりだけだから」
尋常ではない林檎の震えた様子に動揺した文香は、慌てて説明を加えようとする。けれど
「あ、悪魔で婚約……」
「ち、違うよ。私は悪魔じゃないってば。ほら、この目を見て」
文香さんはそう言って俺の頬を掴み、無理やり自分と目を合わせさせた。そしてそのまま林檎に詰め寄ると、布団に座っていた林檎を押し倒した。文香が豊満なバストで柔らかく林檎の顔を包み、視界を塞いでいく。
「や、やめ……」
咲とのやり取りのせいで、今の林檎にはそれを楽しむ余裕はなく、これから襲われ、蹂躙される前の少女のように、かすれた、怯えた声で文香に許しを乞うていた。
「だーかーらー! 違うのー! おーちーつーいーてー」
そんな林檎の顔を両手でつかみ、文香は無理矢理林檎の顔を自分の顔へと近づけた。
「ち、近いです……あと、怖いです」
思わず目をそらしてしまう林檎に、黙って聞いてと語りかける。
「私は天使、天使の子どもなの。だから人間には危害を加えないから安心して」
「て、んし?」
文香の目はいつものタレ目でおっとりとした目ではあるが、その瞳の奥に「必ず守る」そんな決意をしたような目であった。
「文香さん」
「あ、信じてくれた?」
目を合わせた林檎を見た文香はまた笑顔に戻った。その笑顔は疲れた心を癒す、優しい笑顔だ。
「近いです、吐息も」
鼻先数センチ。先ほどから文香の吐息が林檎にかかっていた。
「え?」
「顔が」
あと数センチでお互いの唇が重なる距離。口紅をしているのか、文香のぷっくらとした真っ赤でリンゴの様な唇が、林檎の唇の目の前にあった。
「あ、あはは」
「もう、ませてるんだから」
文香は困ったような表情をしている。けれどそのすぐ後に続けてこう言った。
「したい?」
「え?」
「キ、ス」
文香は自分の唇に左手の人差し指と中指をあてながら、林檎に質問する。セーター越し、セーターを着用しているからこそ強調されている大きな胸も目に入り、目の前の文香さんは天使と言うよりも、人をたぶらかす悪魔のように見えた。
「あ、いえ、その」
「でも今はコレで我慢してね」
言うやいなや文香さんは、先ほどまで自分の唇にあてていた左手人差し指と中指を俺の唇に重ねてきた。
「あはは、真っ赤になってかわいい」
体を起こし、ベッドから立ち上がる文香の姿は天使というより、小悪魔に見えた。林檎もキスをされると思っていたせいか、ぽかんと口を開けていた。
「これからよろしくね、林檎君」
「え、ええ、文香さん」
「文香」
「え?」
「一応『婚約者』なんだから、呼び捨てのほうが自然でしょ? 私もこれから『ダーリン』って呼ぶから、ね?」
一人盛り上がっている文香と対照的に翻弄されっぱなしな林檎はただただ、言う通りに言葉を発することしかできなかった。
「ふ、文香?」
「よろしい。ダーリン」
またダーリンかと、林檎は頭を悩ませる。すると「私がいるからもう大丈夫」と悩む林檎の頭を撫でる文香は、そろそろ夜ごはんだと林檎に告げ「なにが食べたい」と聞いている。林檎はその言葉を聞き腹を鳴らしてしまい、文香にくすくす笑われて恥ずかしそうにしている。
「……シチュー」
「よし。牛乳もあるし、すぐ作るね」
文香はタンスからピンクのフリルが付いたエプロンを身にまとい、林檎にエプロン姿を見せてきた。
「楽しみに待っててね、ダーリン。うふふ」
出来るまで安静にしてて。ただしタンスは漁っちゃだめだぞ。と忠告する文香は嬉しそうに笑い、鼻歌混じりに部屋を出てキッチンへと向かう。
「天使と悪魔の婚約者……」
片方は偽物とはいえ、林檎は自分の生活が着々と非現実的なものへと変貌していくことを実感する。咲が言ってた文香が天使。というのも本当だった。良くも悪くも濃い一日だったと林檎に痛感させる1日だった。
「ま、寝るか……」
起きたら文香さんはただの人間、咲なんて人間は存在しない。目が覚める先は俺の自室ベッドの上。
そうだと良いなと思いながら、林檎は文香の布団で眠りにつく。天使の布団だからか心地よい暖かさ、どこか安心させる香りがする。疲れていたということもあり、林檎はすぐに眠りについてしまった。――自分の左手薬指はめられた指輪が、監視カメラ、盗聴機の機能を果たしていることも知らずに。
「ふーん、随分幸せそうじゃん、うん」
一方その頃、咲は壁一面真っ赤に染め上げられた部屋にいた。その部屋は異質そのもので、ドアノブやタンス、クローゼットの取っ手には小さな子どもや、男のごつごつとした手が生えていた。
「あの泥棒猫、やっぱり泥棒猫じゃないか。私もう戻る! うん、戻ろう」
実家に強制的に戻された咲はここ数日林檎の生活を、リングを通じて盗み聞いていた。、当初文香が林檎と偽の婚約関係を結ぶと聞いたとき、それはもう憤慨し部屋のモノを壊し暴れた。しかし偽の婚約と聞いた咲は、しょせん偽の契約。何日か経過したら自然と別れると踏んでいた。だが結果は真逆だった。
林檎と文香はあろうことか、一緒の部屋で夫婦のように寝、一緒の時間にご飯を食べ、暮らしていたのだ。この結果咲の怒りはぐつぐつと煮えたぎる。しかし咲はこの部屋から出られずにいた。理由は簡単。
咲が無断で人間界に行ったことを怒った母が、咲を自室に軟禁していたからである。
「何でこの年でママの言うこと聞かなきゃならないのよ!」
私はもう大人である。咲は大人なんだから自由。と考え部屋の少し赤みがかった分厚い黒いドアを蹴やぶり、外へ出ようとした。
「どこへ行くの?」
「どこって、旦那の所に帰るのよ! ……げっ!」
当たり前のことを聞くなと怒る咲の頭を、質問を投げかけた長身の女性は掴んだ。
「失礼な子だね……全く」
部屋から出た先で出迎えてくれたのは、彼女の母親だ。咲と異なり真っ赤な目にワインレッドの長髪をなびかせ、晩餐会にでも出向くような、それでいて男を誑かすような、バスト、谷間が強調した高級な黒いドレスを纏っている。耳には大きなリング状のイヤリングをつけ、真っ赤に染まった尖った長い爪が特徴的である。唯一の共通点と言えば、両者ともに、瞳に光彩が全くないことだろう。カツカツとハイヒールを鳴らし、咲の前で足を止める母の名は――メフィストフェレス。
「貴女、自分が何をしたかわかってるの?」
娘に対し冷たく問い詰めるメフィスト
「なによ、あんたには関係ないでしょ!」
「あんた?」
娘の暴言に苛立ったのか、長く伸ばし、尖らせた爪を咲の首筋に突きたてた。
「ひっ」
思わず声を上げ、体を委縮させる咲。
「まあまあ、君もその辺にしといてあげなよ」
仕置きをしなければと怒りを露わにするメフィストフェレスの肩に気安く触れ、彼女をなだめる男性。首にはペットにつけるような首輪がはめてある。
「あらそう?」
彼に諭されメフィストフェレスは咲の首筋に当てた爪を離す。そのことにほっとした咲は、ありがとうパパ。と、首輪のついた男性に礼を述べた。
「そうそう。私たちの大事な娘じゃないか」
どうやらこの男は咲のお父さんで、彼女の旦那のようだ。
「なら貴方を八つ裂きにしようかしら」
男性が悲鳴を上げる間もなく、五指、両の手を含め十本の爪で、メフィストフェレスは彼を切り裂いてしまった。その証拠に彼女の爪は彼の血で真っ赤に染まっており、男性の脂肪、肉、血が付着している。
「爪が汚れたわ」
そう言い残すと、小指の爪に付着した血をルージュ代わりに唇に塗る咲の母。塗り終わると許可もとらずに、タオル代わりに咲の着ていた黒いローブで指や爪の先についた汚れを拭っている。
「あ、あっ」
文句を言おうにも、咲は母に恐怖心を抱いていた。物心ついたときから冷酷さはわかっていたものの目の前で、しかも、つい先ほどまで笑いあっていた男性を躊躇い無く切り裂ける母。父の死体を見る様子もなく、後悔する様子もない。つい先ほど私を助けようとした父の姿は消え、後に残ったのは、無残な肉片やあたり一面に飛び散った血、のみである。
「それで、話しに戻るわよ」
「ごめ、んなさい」
母の言葉を聞き、反射的に謝ってしまう咲
「あら? どうして謝っているのかしら?」
「勝手に……人間界へ行ったこと」
体を震わせながら、今日行ったことを懺悔する咲。それを見て笑う母。
「おやおや、私の娘がそんな『やわ』な子だとは、思わなかったわ。」
恐怖で母の姿を見れず俯いて答える咲。身内ですら躊躇い無く傷つける彼女に、咲は母性など感じず、恐怖しか感じ取れなかった。
「それに咲、貧相な体のあんたには私の用意した男がいるだろ? そいつで我慢しな」
そう、咲には母が勝手に決めた男、許婚がいた。しかしそれは女顔だが整っている林檎都は真逆の、醜悪で、巨漢で力持ちであるが頭は足りていない一つ目の男。母メフィストフェレスは彼をどこからか、娘の結婚相手として用意したのだ。大方、都合のいい人材。自分が操りやすい男を選んだと言ったところだろう。
「わ、私にだって……男を選ぶ権利がある。」
震える声で反論する咲、けれど母の瞳をは見られなかった。




