32
あれからサラは文香と共に過ごしていた。文香が一人でいるのが怖いと言えば、一緒に入浴し、悪夢を見るのが怖いと言えば一緒に寝る。その間文香は小さな子供のようにサラの腕にくっつき離れなかった。作りすぎたオカズを味付けに一々アドバイスという名の小言を言いつつも平らげるサラと、それに対し「ママは年だから薄味の方がいいかな?」と言ってはたわわな胸を揉まれ身を捩らせ笑う文香。親子二人の生活を楽しんでいた文香とサラだったが、サラはその生活の中でも事件の真相を数度聞こうと試みていた。
けれど毎回文香は一時間ほど泣いては答えなかった。けれどやっと、やっと落ち着いたのかサラに心を許したのか、目を腫らしながら文香は事の顛末を少しずつ話し始めた。そしてその日が林檎と咲が奇しくもメフィストから逃げよう、立ち向かおうとした日であった。
サラとしても精神状態が不安定な娘に何があったかを聞くのは酷、本来なら見ないふりをした方が良いと思いながらも、せっかく話そうと決めた文香の一言一句を黙って聞き、顎に手をあて何か考えているようだった。
「男を攫ったのはメフィストフェレス。過去にも天界に逝けるはずだった功績ある人間を生きたまま誘惑し、誑かし、魔界へ攫って行った前科を持っている。いくら私の娘とはいえ、ヒヨッコのセラフィムじゃ、勝てないわね」
セラフィムになりたて、何十年もセラフィムをやっていると言っても、人間界と天界では時間の流れが違う。熾天使は特に戦闘特化、場数を踏んで何ぼの世界でもある。何十年も続けていたとしても、大規模な戦争を経験しなければルーキーのまま、人間界で言う3年にも満たない奴と同様だと、サラは自分の持論を持っていた。
「ま、ここは獅子の気持ちで頑張るしかないわよね」
話を聞きサラは文香の処遇をどうするか考え、一つの結論に至った。膝の上には事の顛末を話し終えたためか無き疲れたせいか、母と一緒にいることで安心し、胸のつかえが取れたように世良の足を枕にし、寝息を立てている。今は母であるサラがいるから安心でき、悪夢も見ずに眠れているのだろう。けれどサラは寝ることを許さないと言うように、文香の頬を強く叩いた。
一発で起きないなら二発、三発と間髪入れずに叩き続けるサラの手に、一瞬何が起きたかわからなかったものの、あとから来るジンジンとした痛みで文香は叩かれたことに気が付き慌てて目を覚ました。叩かれたことに対し文句を言おうとする文香だったが、サラの刺さるような視線に怯み、言葉が出ない。
「文香、あんた堕天使の素質があるんじゃないかい?」
母からの信じられない一言。
文香たち熾天使は人間界や天界に迷惑をかける堕天使、悪魔を倒すことを生業としている。そのセラフィムである母から、娘である文香に信じられない言葉が発せられた。
「や、やだ」
やっとの思いで言葉を発する文香に対し、何が嫌なのか問いかけるサラ。
「なんで? だって人間を助けるそぶりを見せない今のあんたじゃ、堕天使はぴったりだと思うよ?」
話をしただけで安心した、これで自分の心の靄が晴れたとして寝ていた文香の行動を、サラは指摘した。
「ぜ、絶対嫌。だって堕天したらもう」
「堕天したらどうだい? そうすれば、羽の痛みからも解放されるよ」
「痛……み?」
――あの痛みから、ノガレラレル? けれどそれは即ちセラフィムからの除名。同級生や先輩、母達の敵になることを意味している。
「楽になりなよ。今のあんたは自分の保身しか考えていないただの豚と同じだよ。いや、その大きな胸だとホルスタインがお似合いさね」
「ま、マ?」
先ほどまで優しかったサラは矢継ぎ早に毒を吐く。文香は状況に追いついておらず、ママはどこ。どこなのとサラに問いかけては、現実を見ろと頬を叩かれる。動揺しおろおろとする文香を見たサラはめ息をつくと、更にハンマーで叩きつけるような言葉の暴力を続けてきた。
「挙句なんだい。男を見捨てて自分だけ助かろうなんてさ……やっぱりあんたはセラフィムなんて上級職、相応しくないわ。堕天しなさい。当然我が家からも除名するわ」
文香は一方的に告げる母の信じられない言葉が、ほんの少し前までの悩みから解放された幸せで、癒された時間を音を立てて崩壊させた。そして今度は先ほどまでのことが夢であると言うように、責任を追及された文香は夢から現実に戻されてしまう。文香を優しく撫でた手は文香の顔を叩く手に変わり、文香を慰めていた声は文香を非難、罵倒、糾弾する言葉の矢となり、文香の心に次々に突き刺さる。
「あんたには天使の上等な翼なんて相応しくないんだよ。あんたにゃ真っ黒な翼がお似合いさ」
その言葉を聞いた後、文香はサラの手によって強制的に天使の姿へと変えさせられた。再び激痛が背中から体中に走り、文香は起き上がれず床に突っ伏してしまった。そのまま叫び、苦痛に顔を歪ませる。
「アンタが堕天するのはもう決定事項さ。ほら、コレでもくらいな」
サラも文香のような純白の鎧を身に纏い、腰に携えたグラディウスのような両刃の剣を右手で抜いた。良く研がれたその刃は蛍光灯の光を受け、鋭くきらりと輝いている。
「や、う、嘘だよね……ママ?」
「何がだい? アンタが男を守れずここで引きこもっていることかい?」
笑いながら言うも、サラは剣を鞘に納めることはしない。
「私……娘だよ?」
文香は痛みに堪えサラにそう告げるも、サラは「ああそうだ」と何かを思い出したように文香を見た。その顔が先ほどまでの冷たい表情から、忘れ物をした、買い忘れをした。というような日常、天界でも良く見たいつもの表情で文香は一瞬安堵し息を吐いた。
――助かった
そう思うもつかの間、サラはしゃがみ、井戸端会議をするように噂話をするように、淡々と文香に話しかける。
「私、娘なんていないわー。人間を守れない、見捨てるような、悪逆非道な娘なんていないわー」
棒読みのセリフに文香は思わず反論とまではいかないものの、やっとの思いで言葉を発っし、自分はサラの娘であると主張する。けれどサラはその言葉を聞き、すぐに言い返した。
「だから安心して堕天しなさい、世良文香」
残りの二翼を片手でまとめ掴みあげると、雑草を鎌で刈るように横一線にグラディウスでぶった切った。その瞬間翼が全て切られたことを文香は分かった。鈍痛、激痛、様々な痛みが一気に津波のように押し寄せ、襲い掛かったからである。その迷いなき研ぎ澄まされた刃なのだと、苦痛に満ちた表情で理解した。文香が幼いころにサラからよく聞かされていた悪魔を何匹も切り伏せてきたその刃。切れ味鋭く、弱り切った天使の翼を骨ごと切り裂くには十分な武器だった。
「あ、あぁ、あああああああ」
――信じられない、ママは本当に私の羽を、天使の証を切ってしまった。
――信じられない信じられない信じられない信じられない。信じられない信じられない信じられない信じられない。信じられない信じられない信じられない信じられない。信じられない信じられない信じられない信じられない。
文香の頭の中はサラの行動の意図が分からず混乱し、色々な思いが混濁する。堕天した気分はどうかと問うサラの言葉も、今の文香には天使であった時には感じなかった思いが、恨み、憎しみ、殺意として心の瓶にあふれるように注がれる。
――サイテイ……シンジラレナイ
――ウランデヤル、ノロッテヤル、ゼッタイニユルサナイ
負の感情が文香の傷の痛み、苦痛をマヒさせ、忘れさせる。
「なにするの……ママ」
翼を失った文香は憎しみをこめ呟くと、操り人形、マリオネットのように不自然にゆらりと立ち上がる。立ち上がれた、痛みはない。むしろ快適だと不敵に俯き笑っている。これで良い、これで良いと。
――これで先ほどまでママと呼んだいた相手を、思う存分叩き殺せる。
そう心の中で呟くと、文香の体が心の意を酌んだように動き、サラにトゲつき棍棒を向けている。
「あら、立ちあがれるのね」
さして驚く様相も無く、サラはグラディウスをを肩に担いだ。
「イタイナア……信じられない、体に傷がつく時って、人間だって麻酔とかするんだよ?」
痛いと言いながら笑う文香の目は生気が無く、泥が清流に流れ込んできたように濁っていく。
「水清ければ魚住まず。良い言葉」
天使であった時の使命感に燃えた目はなく、ただケラケラとそう、咲の瞳のように死んだ魚のような瞳でサラを見ては笑っている。今の文香は妙に気が高ぶっており、気が楽だ。快適だと笑いが出るのを止められない。止めようとはしない。
「あ、ママが切ってくれたおかげで、見てよ」
母に向けていた棍棒を降ろし、少しサラから離れ軽く一回転、円を描くようにターンをする文香。すると、先ほどまで血を流していた背中の血は止まり、新たにバサバサと烏羽色の六枚の翼が生え、突風に吹かれた木のような音を鳴らし羽ばたかせている。
その翼はあの美しく、清らかな白鳥のようではない。醜いあひる、いや不吉の象徴である烏のような禍々しい、人々を不安にさせるような、闇に包み込むようである。
「あは、白じゃないけど、これもいいよね? セクシーって感じ?」
生えたばかりの翼を優しく撫で、嬉しそうに翼を顔に触れさせ、その感触を楽しんでいる。
「あんた、この後どうするんだい?」
サラの問いかけに文香は少し悩んだふりをし、無邪気そうに笑っている。
「うーん、まずは酷いことをしたそこの女を、死ぬほどいーっぱい叩きたいな。こうやってね!」
いつもより早く動ける。
快適快適。背中の痛みは無いどころか熱く、まるであの女を叩き潰せ、殺すのだ。と後押ししているようだ。わき目も振らずにサラに突進した文香はモグラ叩きのように棍棒を顔面に打ちつけようと振るも、サラはこん棒をグラディウスの幅広で平面な刀身を盾にし、受け止めた。
「あれ? じゃ、もう一発」
モグラたたきをするように、けれどやるからには全力だと力を入れ、両手で棍棒をしっかりと握り、何度も何度も相手の頭に兜割りの要領で棍棒を叩きつける。部屋の中に鈍い音が響き渡るも、サラの頭にこん棒が落ちることは無い。全ての猛攻はグラディウスでガードされったからだ。
「もう、一発くらいいいじゃない」
ぷんぷんと怒っていても口元は無邪気に笑い、再度棍棒を振りかぶる。その姿を呆れるように見るサラは反撃することも無く、あろうことか手に持っていた、先ほどまで盾代わりに使っていた剣を、その場に捨てた。
「あんた……はあ、いいよ。そんなにやりたきゃ幾らでもやらせてやるよ。来な」
手招きをするサラを見て文香は戸惑い一瞬動きを止めるも、玩具を与えられた子供のように嬉しそうに笑みを浮かべた。
「おっ、ボーナスステージ? やったね!」
それだけ言うと今度こそと思いっきり棍棒を強く握り、振り降ろした。
――それをサラは避けもせず仁王立ちで、頭で受け止めた




