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31 無力な者達~天使編~

 ――遡ること数日前、世良宅。

「いただきます」

 両手を合わせ、朝餉をとるのは文香だ。

 林檎が魔界に連れてかれてから早三日、文香の生活は今までの生活を取り戻しかけていた。朝食はいつも通りの和食でご飯、味噌汁、魚にお漬物。それらを居間のテーブルに置くと礼儀正しく一人両手を合わせ、食事をとっていた。

 ――けれど簡単に元に戻れるはずもない。

「ダーリン、醤油とって」

 魚に箸を伸ばし、無意識にそう告げる文香。でもその返事は帰ってこない。

「そっか、そうだよね……」

 ――ここにはもう、二人はいないんだ。

 あと少しで無くなりそうな醤油さしを手に取り見つめていると、文香のセーターに包まれた大きく柔らかな胸に、ナイフかなにかで刺されたような痛みが走った。勿論実際に刺されたわけではない。消化不良でやりきれない。どこかムカムカとし、落ち着いて食事をとれない文香は苦しそうに胸を抑え、一瞬面白くなさそうな表情を浮かべていた。

「だめだめ。立ち直らなきゃ……よし!」

 力強く持っていた箸ごとこたつテーブルに叩きつけ、勢いよく立ちあがる。けれど立ち上がってからの姿はどこか覇気がなく、フラフラと危なっかしい。本人は気付かないが、どこか抜けている様子でキッチンへ向かい、空いた醤油さしに戸棚から取り出した大容量徳用ボトルの醤油を移し替える。

「はぁ……」

 いつもの癖で三人分の朝食を作ってしまったことを反省しながら、ボトルから醤油さしへ醤油を移し替え、ぼおっとしていたせいであふれそうになった醤油さしを見て一瞬焦るも、移し終えれば何事もなかったように徳用ボトルを戸棚に片付ける。けれど文香はそのまま炬燵に戻らず、居間にあるダイニングテーブルと共にある椅子に腰を下ろしてしまった。

「咲ちゃんがいた時、お醤油の減り早かったなあ」

 ふと並々と補充された醤油さしを見ながら、三人で食卓を囲んでいた時のことを思い出してしまう。醤油をたっぷりかけて食べる咲と、自分が作る料理を美味しそうにお代わりをして食べてくれる林檎。作る量が増え、献立に悩んだことは多々あったけど、作りがいがあったなあ、と文香は懐かしんでいた。

 けれど、それはあくまで異質、イレギュラーな状況。一人でいることが本来の文香の日常。今まで慣れていたはずの一人暮らしがどうしてこうも空しく、物足りなく感じてしまうのか。文香はテーブルにもたれながら、ぼんやりと懐かしみ始める。

『林檎、私もおしょーゆ』

『ほれ、かけすぎんなよ』

『その時は砂糖で中和する』

 そういいながらドバドバと皿にプールを作る勢いで醤油をかける咲。

『咲ちゃん。これ以上かけたらお魚の味、わからなくなっちゃうよ?』

『平気。おしょーゆ好きだから。あっ』

 咥え箸のまま醤油をかけ続ける咲から醤油をとりあげ、微笑む文香。

『それって私の料理が下手ってことかな? かな?』

 笑顔を続けるが、よく見ると文香の額はぴくぴくと動いており、怒りが隠しきれていない。

『冗談、ごめんなさい。顔怖い、うん』

『それちょっと同意』

『ダーリン、ご飯のおかわりいる? たっくさんたべるよね? ね?』

『ほ、ほどほどで頼む』 

『わかってるって。私の美味しいおかずに見合うくらい、ほどほど、でしょ?』

『なら私がつぐ。それが一番、うん』

 と鼻を鳴らし私の出番と、米粒の付いた林檎の茶碗をよこせと手を伸ばす咲。

『ダーリンのことは私がやるからいいの』

『ぶ―、ずるい……』

 文香は林檎の茶碗を受け取り、ご飯をよそう。それをふくれっ面になりずるいと文句を言う咲と、それをハイハイと返事をしながら軽く流す文香。

『はい、ダーリン』

『お、ありがと。多くない?』

『ダーリンは私の料理好きだし、これくらい食べるでしょ? 食べるよね?』

『お、おう』

 山のようによそわれた白米を見て苦笑を浮かべ受け取る林檎。さすがによそいすぎたと文香は林檎に『残してもいいよ』と言ってみるも、『男だから平気』と返事をし勢いよく『うまいうまい』とおかずと共にかっ込む林檎。

 つい三日前までの日常、騒がしく、悪魔と一緒のため神経がすり減ったこともあったが、複数人での食事は楽しかった。笑顔で文香の作った料理を食べる二人。醤油をいつもかけすぎる咲ちゃんを怒るのは大変だったけど、残すことは無くて嬉しかったこと。自身の手料理を毎回飽きることなく笑顔で、嬉しそうに完食してくれるダーリン……林檎君。

「――楽しかったなぁ」

 ふと口に出た言葉に、偽りは無かった。思い出していると目頭が熱くなり、視線がぼやけていく。

「咲ちゃんは子供のようにダーリンに甘えて、ダーリンも食事中は寛容でそれを許すけど、私がそれを注意する」

 ――今思えば、自分たちは本当の家族みたいだったな。

 懐かしんでいると、文香の目からほろりと一粒の涙が落ちた。

「だめだめ、アレは夢、夢。もうここにはいないの」

 自身の背中の傷を思い出しセーターで涙を拭い、ぶんぶんと左右に頭を振り忘れようと言い聞かせる文香。初めての敗北。罪なき人間を守れなかったショック、消せない、癒えることは無い傷跡。毟り取られた自慢の翼。夜中になるとあの現実が悪夢となって、幻肢痛として襲いかかり、目覚める日々。ほんの数日なのに、その恐怖で身が竦む日々を過ごしていた。勿論その気持ちを拭おうと何度も何度も風呂に行き体を洗い、清め、全てを洗い流そうとした。けれどその不快感は消えることは無い。忘れようとすればするほど、夢で林檎、ダーリンがゾンビになって自分を怨んでいる夢を見る。文香は恐れていた。自分一人のこのこと人間界へ戻ってきたことを、林檎が魔界で憎しみを力に、自身を燃やそうとしているのではないかと。

「嫌、消えて、消えて……」

 文香の見る夢には林檎だけでなくあの忌まわしい女が現れる。長い爪で翼を切り裂き、羽根を毟った悪魔が笑いながら文香を見ている。それを忘れようと頭を横に振り、食事をしようと居間に戻った。するとそこには誰もいないはずの居間で、漬物を美味しそうに音を立てて食べる音が聞こえてきた。

「おかわりー」

 ご飯のおかわりを要求……もしかして

 林檎、ダーリンが帰ってきたのかもしれないと、持っていた醤油さしを持ち、軋む床をかけ足で進み、居間に戻る文香。急いでいたせいか、持っていた醤油さしが揺れ、お気に入りのセーターにしみを作ってしまった。

「ダーリン?」

 慌てて姿を確認するも、その姿は林檎ではなかった。

 がつがつと自分のためによそったご飯をかっ込み味噌汁をすすっているのは、ブロンドの女性だ。文香より癖の強いウェーブがかった髪の女性。手には空になったばかりで米粒の付いたお椀を文香につきだしながら、二杯目を要求している。

「な、なんで」

 ――なんでいるの。

「ん? 娘が心配になってさ。あれから連絡全然しないんだもん」

 文香の心を見透かし、咲の母はお代わりの要求を続けた。

「ママ!?」

「仕事は?」

「どうしてここに!?」

 矢継ぎ早に問いかける文香と対照的に、文香の母は憮然と椀を突き出してくる

「今は有給。事件も無いしね」

 あっさりとそう言い、漬物をかじる女性は文香の母、サラである。サラはセラフィムの中でも上級。特に対悪魔に関してはかなり詳しく、誰よりも文香に厳しい。そんなサラが、母が何故ここに……。文香はアポなしでやってきた母を見て静止してしまう。

「で、おかわりまだ?」

「は、はい!」

 文香はとりあえずお椀に山盛りの米をよそい、母に手渡した。サラはそれを受け取ると「甘みもあるし、いい米だ。けど水っぽい、あと焼き魚少し焦げてる」小姑のように水分量、焼き加減の間違えを指摘し、文香も頭を下げた。母の言っていることが事実だからだ。あの一件以来、文香は調理の際に凡ミスが多くなっていた。けれどサラは文句は言ってもそれでも美味しいよと、オカズとともにモリモリご飯を食べ進めた。けれど文香は料理を褒められたことより、気になることがあった。

 ――もしかして、ばれた。

 林檎が魔界に連れて行かれたこと、文香が現在翼の欠損が原因で満足に変身きないこと、それら全てばれてしまったのか。文香の心は震え、怯えていた。厳しい母のことだ。負けたこと、見捨てたことを知れば、いかに娘であろうがを躊躇い無く天界から追放し、堕天させるかもしれない。文香の脳裏に絶望と恐怖がよぎる。

「ふう、ごちそうさま。腕上げたね。昔はコメも炊けなかったのに」

「あ、ありがとうございます……」

 親子でありながら畏まった対応の文香を見たサラは、文香の胸を掴んだ。

「こっちも、また成長したんじゃないかい?」

 強く、指をうねうねと動かし揉んでくるサラに身をよじりながら、文香は距離をとった。

「んっ、なにするんですか!」

「親子のスキンシップを」

「だからって」

 そのために来たとは到底思えない。これはあくまでジャブだと警戒する。

「いやねえ、もしかしたら、誰かに揉まれてたんじゃないかと思ってね」

「そんな相手はいません」

 一瞬『誰か』というワードに反応してしまった文香を、サラは見逃さなかった。

「いや、いるだろ一人……あの男の子がさ」

 コレが狙いだったのか。ハッとなった文香をサラはしたり顔で眺め、「あの男の子は何処だい」と文香に問いかけた。けれそどそれに対し文香は口ごもり、「今は出かけている」と嘘をついた。だがそんなとってつけたような嘘、母であるサラにはすぐ見抜かれてしまう。

「あんた、やっぱり何かあったんだね」

 先ほどのじゃれあう時の目ではなく、サラの目は仕事モード、猛禽類のように目つきが鋭くなった。

「な、なにもないよ……あ、私、お風呂掃除しないと」

 母に背を見せその場から立ち去ろうとする文香を、サラは逃がさなかった。背中に跳びかかり、文香を床に、畳に押し付けたのだ。

「きゃあ!」

 文香の悲鳴が響く。お構いなしに文香の着ていたセーターを捲り、付けていた下着のホックをはずした。

「ま、ま? なにするの?」

 焦る文香にサラは黙って背中をまさぐっている。背中に違和感を覚えたサラは、文香に「元の姿に戻れ」と命令した。

「な、なんで? いまそんなこと」

 文香は棒読みで返答してしまったため、ますます疑いの視線は強くなった。そしてサラは文香の首に裏手に持った果物ナイフをピタリと触れさせる。

「娘と言えども、隠し立てするなら容赦しないよ」

 きつい一言、ナイフの冷たさが文香の喉に伝わってくる。

「さあ、さっさと変身しな」

「ま、ま? こわいなー、そんな危ないもの」

「これでもかい?」 

 母は無言でナイフを少し動かし、文香の首の表面を薄く切り血を流す。翼を失い天使の力が弱まっている文香は苦痛の表情を浮かべた。なおもナイフで首筋を狙う母に――もはやこれまでと文香は観念し、変身を試みた。サラは文香の背中から退けると、変身した文香を見ている。幸い変身は出来たものの、やはり翼はない。それに変身をした途端に背中の激痛で身をよじらせ、悲鳴を上げてしまった。

「あんた……」

 予想以上の娘の惨状に、サラは持っていたナイフを床に落としてしまった。

 娘の姿はセラフィムに就いた際にサラが率先して指示を出し仕立ててあげたあの戦闘服、鎧はボロボロ、血まみれであった。文香が自慢げに見せてくれた白鳥のような真っ白な翼もほぼ無くなっている。

 錆ないはずの鎧が血でどす黒く酸化し、ところどころ黒ずんでいる。天使である証の翼は六枚から二枚になっており、それも血まみれ。翼があった部分は翼と体を繋げる骨だけが無残にも露わとなっている。

 文香もこのため変身後は悲鳴を上げ、涙を流し痛みから逃れようと体を暴れさせている。

「あんた、これ……」

 慌てて変身を解けと告げ、文香に先ほどまでの姿に戻るよう指示を出した。文香も最初は母の声が聞こえていないようだったが、何度も語りかけた結果、どうにか人間の姿へ変身を解除した。

「ごめんね……まさかそこまでとは」

 サラは先ほどまでのきつい口調から少し申し訳なさそうに、真剣な面持ちで文香に謝った。文香もまだ痛みは残るものの黙ってその言葉を聞き、大丈夫と返事をする。

「あんたが地獄でやりあったって本当だったのね。にしても、こんなに酷く……」

 娘をここまでした悪魔を本当ならサラは自らが文香の代わりに代理戦争だと、相手を同じ目にぶっ潰してとっちめてやりたい気分に駆られてしまう。だがそれよりどうしてここまでひどい目に遭ったのかをまず知らなければと、サラは文香から地獄での出来事を詳しく聞こうとした。けれど文香は『地獄』、その単語を聞いただけで体を震わせ「なにもない、私は何も知らない」としか答えられなかった。

「羽が無くなるってこと、堕天が怖いのかい?」

『堕天』その言葉を聞くとますます文香の体の震え、途端に嗚咽、吐き気を催すように床に手をつき「堕天は嫌、堕天だけは嫌」と泣いてしまう。サラとしては娘の惨状、これ以上文香を酷い目に合わせたくはない。けれどセラフィムという役職についている以上、母の優しさで見逃すわけにはいかない。

「林檎君、だったわね」

 サラの問いかけに文香は「知らない、知らない。そんな人、私は知らない」と泣いている。先ほどまで思い出していた男の名を必死に、知らない、知らないと否定する。けれどサラは追求の手を緩めず、「林檎君を地獄に連れて行った悪魔の名前は?」、「どうして悪魔に攫われたの?」と文香に問いかけ続け、答えを待った。文香は堕天の恐怖、叱責の恐怖から泣いてばかりで、有用な答えはおろか、何一つサラに答えられなかった。

 埒が明かない。そう考えたサラは天界と連絡をとり、有給を伸ばしてもらうことにした。幸い際立った事件も少ないからと、延長の申請はすぐ許可が下りた。

「よし」

 ポンと文香の肩を軽く叩き、子どもの様に泣いている文香を優しく包み込むように抱きしめる。その温もりが懐かしく、そして小さかった頃を思い出してしまった文香は温かい母の胸に縋りつき、抱きつき、大きく咽び泣いた。

「よしよし、しばらく一緒にいてあげるからね」

 泣いてすがっている文香の頭を、サラはただずっと一言も文句を言わず撫で、慰め続けた。


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