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 ――天使の目覚めは最悪だった。

 悪臭漂う場所ではなく、目が覚めたのはなぜか自宅の風呂場、バスタブの中。鎧を纏った甲冑姿ではなく、バスタオルのみ。それはまるで、先ほどまでの戦いが夢であると言わせているようだった。

「嘘、どうして……」

 まだほんのり温かい湯船からすぐさまあがり、現状を把握しようと急いで風呂場から出た。脱衣所には自身が風呂に入る前に着ていたセーターと、風呂上がりに着替えであるパジャマ、寝巻。それと同様に、男物の下着、無地のトランクスとスウェットが置いてある。

「そうだ、ダーリン、林檎君!」

 着替える暇はない。文香はバスタオルを抑え「ダーリン、林檎君は何処、無事なの?」と探し、焦る心を「落ち着け、落ち着け」と静め、家中を捜索する。けれど姿はおろか、気配すら感じられなかった。今一度、風呂場の脱衣所に手掛かりはないかと戻る。

「林檎君……」

 自身の体から血の気が引いていくのが分かる。

 失態だ。完全なるミス。自身の技量、力量不足で、罪なき人間を地獄へ置いてきてしまった。追いかけねば、そして、再度連れ戻さなければ……そう決意した文香はバスタオル姿ではなく、甲冑姿へ変身した。しかしその瞬間、彼女の背中に激痛が走った。

「あがぁっ」

 その激痛に耐えきれず、彼女は片膝をつき、脱衣所に倒れこんでしまった。

「な、なんで……」

 しかし、熾天使である彼女は痛みを我慢し、歯を食いしばって、こらえ立ち上がった。そして自身の背中の激痛の正体を確かめようと、風呂場に設置してある縦長のミラーで、自身の背中を視認した。

「嘘、どうして……」

 彼女の背中の鎧は純白ではなく、真っ赤に染まっていた。一部はそれが鎧に付着し酸化し、ワインレッドよりさらに黒ずんでいる。しかし、彼女にとってそんなことは些細なことでしかなく、問題なのは真っ赤に染まった原因、そう……

「どうして、私の翼が、二枚しかないの?」

 鏡に映る自身の背中、自慢であった純白の、白鳥のように美しい六翼が。、無残にも捥がれていたのだ。上段中断の翼がなく、あるのは下段の二翼のみ。だがそれも上部の翼が捥がれた時にしたたり落ちた血で真っ赤に染まっている。メフィストに捥がれた三枚と、人間界に運ばれる際に引きずられたせいで捥がれてしまった一枚の翼が、背中には翼と体を繋げていた骨がむき出しになり、無情にも痛みとともに自身の敗北を認識させる。無事なのはたったの二枚のみ。

「な、何で……捥がれたのは二つのはずじゃ……」 

 鏡を見ているとショックで体が震え、また激痛が体に走る。たまらず彼女は甲冑姿を解き、バスタオル一枚の姿に戻った。

「はぁ、はぁ……」

 息を乱し、状況が飲み込めない文香。

「そ、そうだ、二枚はあのメフィストに千切られた……けど、どうして……どうして残り二枚なのよぉ」

 先ほどの姿が見間違いかと思い、再度変身するも結果は同じ。戦乙女のように美しかったあの威厳ある、神格化された姿ではなく、翼を捥がれ翼があった部分から骨が丸見えな文香の姿は不気味で、天使というより悪魔に近い姿をしていた。慌てて姿を戻し、人間の姿に戻る。この姿なら痛みもなく、翼もないため骨が見えない。

「うっぷ……」

 けれど先ほどの自身の姿を受け入れられないのか、吐き気を催し倒れこんでしまう。

「だ、だめ……早く、林檎君を」

 でもどうやって? 勝ち目はあるの? この状態では返り討ちにあうだけだ。最悪の場合、残り二つの羽も毟られてしまう。そうなっては自身の天使生活も終わり、堕天してしまう。天界で聞いた天使の堕天とは、人間界に落ちて行くことを指すものだが、彼女の場合は少し事情が違う。

 熾天使、対悪魔専用である文香の一族、天使と言いながらも、熾天使は悪魔に最も近い位置にいる天使のため、例外を除けば彼女達の堕天はすなわち地獄を指す。

「堕天……」

 文香はその言葉を良く知っていた。授業でもさんざん聞かされたからだ。地獄の悪魔の中には、元天使が複数いるとことも知っている。天使が堕天することは、どんな理由があっても許されることではないことも、授業で耳に胼胝ができるくらい聞かされていたから。

 文香は震えていた。母親譲りの負けん気と、父親譲りの優しさを引き継いだ彼女は、両親から素晴らしい容姿を、優しい声を賜った。そして代々続いていた天界のエリート中のエリート、セラフィムを複数輩出してきた家系の意思を継ぎ、彼女自身も母の様な立派な天使になろうと熾天使になることを決心した。

 そして、両親は勿論、親友、知人、一族に恥じないように、一生懸命働き、戦った。

 そんな彼女が、今まさに恐怖と対面していた。

 一族に泥を塗ってしまうかもしれない、いや、もう既に泥を塗ってしまったかもしれない。人間の男を守れなかった。その上、自身の自慢の翼も無様で醜い姿に変えられてしまった。

「あははは……」

 思わず笑いがこみあげてくる。人間と同様、あまりの恐怖の前に天使も笑いがこみあげてくるのだと知った文香は、ますます自分の弱さに耐えきれなくなってしまう。

「ママ、私どうしたら……パパ」

 仮の姿であるこの姿では、天界へは入れない。かといって、天使の姿になればあまりの激痛、醜悪な姿を見せたくないという羞恥の心が、彼女の思考を停止させる。

「たった人間一人……だー、林檎君一人」

 そう、ただの人間一人、大勢に影響は無い。そうだ、割り切ろう。黙っていれば……「バレナイヨネ」彼女の心の中に、黒い靄がかかっていくのに、大切な記憶を隠そうとする靄に、彼女は一切気付かなかった。

「そう、そうだよ、うん」

 次第に暗かった声が、明るくなっていく。ただしその笑いは幸せを感じるような笑みではなく、乾いた笑み。まるで心無い、何か自身の気持ちを誤魔化すように、文香は笑った。

「そう、寝よっと、お風呂を沸かし直して、再入浴してさっぱりして寝ないとね」

 自身にそう言い聞かせ、文香は体に巻いていたバスタオルを床に落とすと、そのまま自身の姿を鏡に映し、まじまじと見ている。

「うん、人間の姿でも、十分かわいいもんね」

 文香は自身にそう言い放つと、口元を歪ませ、湯船に浸かる。少し温いがスグに温まるだろう。文香は気にせず入浴する。

「はぁ、なんだか疲れちゃった。どうしてだろ」

 乳白色の入浴剤を入れ、湯を楽しむ。肩まで浸かり、温泉気分とお風呂を楽しむが、普段は長風呂で林檎に寝ているのでは? と心配されたこともある文香だったが、今日の入浴はあまり楽しくないなと思ってしまう。

「どうしてだろ。この入浴剤匂いも気に行ってるのにな」

 お湯が温まりはじめ、体を温めれば温めるほどに、文香の心は穴が開いたように寒くなる。結局、朝に入りなおそうと電源を切り、湯船から上がってしまう文香だった。

 入浴を終えた文香は花柄のパジャマに着替えた。

「そうだ、大福余ってるんだった。なに食べようかな……でも、太っちゃうかも」

 くすくすと笑いながら、自身のおなかと相談する。林檎たちのことを考えないように、文香は二人といた記憶にカギをかけた。

「よし、じゃあお茶入れないとね。はぁ、それにしても買いすぎだよねえ。――一人で食べるには」

 歩きながらぶつぶつと「お茶は何にしよう、大福だし、紅茶より番茶がいいかな? それとも甘いものには甘いもの、ココアが良いかも」など鼻歌交じりに台所へ向かった。結局いつも通り番茶を急須にいれ、大福を二つお皿に乗せて炬燵へと戻る。

「炬燵ってこんなに広かったけ? まあいいや」

 独り言を呟きながら、湯のみにアツアツの番茶を注ぐ。

「んー、美味しい。お茶の苦みと大福の甘さが最高!! でももういいや、寝よう」

 文香は大福を一口だけ食べ、皿に戻した。ラップもせずに、片付けは明日にしよう。とそのまま部屋に戻り布団に入る。道中和室の前を通り「お休みなさい」と言おうとして、文香は途中で言い留まった。

「誰もいないのに、言う必要ないよね……でもおやすみなさい」

 しかしどうもしまりが悪いと、文香は一人小さく呟いた。その夜、なかなか寝付けずに、「部屋が寒い」「布団が寒い」と一人文香はイライラして、部屋のストーブをつけてなお「寒い」と不満を漏らし、眠れぬ夜を過ごした。その寒さが孤独によるものとは、文香はまだ気が付かない。





 一方そのころ、魔界では咲が愛する者と一緒になれて、幸せそうに過ごしていた。

「林檎、アレ食べたい。あーん」

 真っ赤な部屋、少し少女趣味の混じったようなフリル付きのカーテンのある部屋。そこにはひな鳥の様に口を開け、目の前にある果物を要求している咲がいた。

「……」

 無言で金属製のフォークに兎の形をしたリンゴを咲の口へ運ぶ。咲は「そうじゃないでしょ?」とそれを更に戻し、唇をつきだす。林檎はリンゴをフォークから取り、自身の唇で咥えた。そしてそれを咲は反対側から咥え、シャリシャリと食べている。

 それを口に含むと、嬉しそうに頬に手をあて咀嚼している。その間も林檎は一口もリンゴを食べずに咥えたまま。そして咲は礼を言い、林檎が咥えていた部分を手に取り自分の口へ運び嬉しそうに食べている。林檎は幸せそうな咲の頭を優しく撫でる。自然に頭を撫でる林檎だが、それがペットとして飼われている林檎の義務だからだ。

「んふふ」

 傍から見ればカップルの様だが、男の首にはその場には相応しくない金属製の首輪が巻かれており、女の方は左手でその首輪の先に繋がっている太い金属製のチェーンを握っている。

「嬉しそうだ、ですね」

 言い直す林檎。ペットだから対等な口を聞くな。と命令があるからである。

「だって林檎が一緒だもん。林檎も食べる?」

「俺は遠慮す、します」

「そう……」

 リンゴを食べ終えると、咲は林檎の膝に寝転がってきた。

 地獄に来てから1週間、林檎の体は不本意ながらも地獄に適応してきた。

 最初は吐き気を催すほどの匂いだったが、しだいに鼻は慣れ、幸いにも咲の部屋や共有スペースである居間は臭くなかったのが幸いだった。

「林檎は今日何食べたい? 最近何も食べてないでしょ? もしよかったら」

 寝ながら林檎の痩せこけた頬を撫で、精気を失いかけている林檎の目を見つめる。人間界にいた時のような、覇気のある目を失った林檎に悲しそうな表情を咲は見せた。

「何か食べたいものはない?」

 遠目に見れば妻が病弱な旦那に好きな食べ物を聞いているようだが、けれど、残念ながら咲の要求は俺に届くことは無い。

「こらこら、それはペット、だめよ。咲、食事の時はペットは連れちゃあダメよ」

「ママ!?」

 咲は驚き体を起こすと、勝手に部屋に入ってきた母メフィストの方へ振り向いた。

「こらこら、食事は家族みんなで、ペットで玩具なそいつは置いておきなさい。それが『飼う』条件でしょ?」

 咲の手から首輪の手綱を奪い、メフィストはその手綱を無理やりひき、咲の部屋から林檎を出した。

「さ、ご飯にしましょ」

 メフィストはもう片方の手で咲を引っぱり、食卓へ向かう。咲は林檎の方を見て「いい子にしててね」と少し頭を撫で、連れられて行った。林檎はといえば、咲の部屋の前の廊下に胡坐をかき待機していた監視役のゴリアテに鎖を掴まれ、逃げられないようになっている。

 動ける範囲は半径1メートル以内。本当にペットになった気分だ。林檎はだがこ鎖につながれた生活に徐々に慣れる自分に、人間の尊厳が失われていく恐怖を感じる。

 咲はと言えば、その間家族団欒の食事。父も母もいる。けれどその中に林檎の姿は無い。母が雇っている腰の曲がった鷲鼻のゴブリンが、咲たちの前に熟成骨付き肉のステーキを運ぶ。そして動物や人間の血で育てた真っ赤で鉄分豊富な魔界のラディッシュサラダや野菜スティック、スープを次々にテーブルに運んでくる。

「ねえ、林檎も連れてきちゃ……」

 食事は大勢、好きな人もいるとなお美味しい。それに、林檎も……。

「約束を守れないなら、こっちもそれなりの行動をとらなきゃね」

 メフィストの一言に咲は「そ、そうだよね、うん」と黙ってしまう。

 あの日以来、林檎は笑わなくなった。建前で笑うふりはするけど、偽物の笑顔なのがすぐ分かった。それに母の手前、林檎を助けるためとはいえ、咲は林檎をペットのように扱ってしまった。咲はそれが林檎の唯一の助かるすべだと知っているものの、罪悪感で胸を締め付けられる。ただそれと同時に生まれる独占欲を、必死に抑える。

 大切な人を無碍に扱うのは、一番いけないこと。だが現実は無情だ。咲は思う。ペットや玩具同然の林檎の食事は当然酷い物が多い。一口程度の余り物、魔界の住人でも、ゾンビぐらいしか食べない大量の腐ったなま物、果ては嫌がらせの様に飲み物だけの時がある。

 林檎の様子が気になり食事に集中できない咲を見たファウストはサラダを食べていたフォークを置き、咲の方へ向き直った。

「咲はあの子に夢中なのかな? 好きなのかい?」

 ファウストは帰ってきてから様子がおかしい娘に、ペットとしてやってきた男について質問を投げかけた。


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