19
「風呂場に泥棒か?」
「人聞きの悪い。取り戻しに来ただけですわ。そう、か弱き小鳥、自由奔放に見えて言えても、それは私にとって大切なモノ」
取り戻す? おかしな事を言う乱入者は林檎に来た理由を曖昧に告げる。
「誰!?」
文香はどうやってここに入ってきた! と警戒した様子で浴槽から立ち上がり、その女性にこん棒を突きつける。いつもと違う、棘無しのこん棒を突きつけた。
「あら、貴女とは初めましてになるのかしら? 初めまして、世良文香。牛女って言った方がいいかしら?」
文香には劣るものの、平均以上の胸を持つその女性は文香を牛呼ばわりする。黒を基調とした服を身に纏った女性は帽子を脱ぎ、その帽子を胸に当て、深々と礼をした。帽子を脱ぐと、真っ赤なルージュ、鋭い瞳が見えてくる。
「あんたあの時のだよな」
「ダーリン知っているの?」
「あら、覚えていてくださり光栄ですわ。安達林檎。答えは出まして?」
「あの時の質問なら、今も変わらねーよ」
どうやって調べたのか、自分のフルネームを知っている女性に冷たく林檎。文香は気配を悟らせず現れた女性に敵意をむき出しにし、対峙している。
「あとあんた、何よりその人を見下したような口調、ムカつく」
林檎は思っていたことをその女性に告げ、女性を睨んだ。
「あら、下に見ていたことは本当ですわ。少なくとも貴方のような男よりは上にいるので」
その通り。と林檎の嫌みを軽く受け流し、肯定する女性。
「だって貴方は、ただの貧弱な人間ですもの」
「なっ!」
くすくすと手で口元を隠し笑っている女性。その言葉は明らかな挑発だが、林檎は乗ってしまった。
「ふざけんな! だいたい、あんた何不法――」
「ふざけてるのは、貴方ではなくて? それとちゃんと玄関から入りましてよ?」
林檎の言葉を遮り、その女性は一瞬にして林檎に近づくと、林檎の少し火照り赤みを帯びた首筋に長く先端を尖らせた爪を当て、それを下から上へ、なぞるように動かした。
「私がその気になれば人間の首なんて、大根やニンジンの様に刎ねてしまうことも出来てよ?」
「林檎君!」
女性がなぞるように触れた林檎の首から、うっすらと血がにじんできた。それを見た文香は、先ほどまでの婚約者のふりをした時の口調ではなく、素の口調で俺の名前を呼んだ。その姿はバスタオルではあるが、先ほどから握られていた棍棒を黒ずくめの女性に振るう。
「あらあら、天使の子どもが調子にのっちゃって……それにしても、母親よりは弱いのね。あの女なら現れた瞬間に攻撃を仕掛けてくるはずよ。甘ちゃん天使」
こん棒を軽く片手で受け止め、攻撃を防ぐ女性。
「私の正体まで……」
文香は自身の正体を知っている、特に母のことまで知っているその女性に、多少なりとも動揺している。
「知っているわよ。貴女の家系、代々と天使の中でも最高位、セラフィムに属しているんでしょう? ここでは世良文香さんとでもお呼びしたほうが良いかしら?」
「なっ!」
文香は驚きをあらわにした後、その女性を敵と判断したのか、バスタオルから、天使の羽を生やした鎧の姿へ変身をした。
「怖い怖い」
笑いながらそう言う女性、その余裕ぶった女性のしぐさが、文香の神経を逆なでした。
「とりあえず、人間界では不法侵入は罪なの。天界もだけど。その罪、償ってもらうわよ」
文香も臨戦態勢に入っており、天使の家に不法侵入してきた愚かな、だが油断はできない女性をに、再度棍棒で殴りかかろうとした。けれど女性は手の平を文香の前に突きつけ、「ストップ」と戦闘中断を提案する。
「黙れ!」
風呂場だから大振りはできずとも、文香は女性の忠告を聞かずに攻撃を開始する。しかしこん棒を振るために小さくテイクバックをするとこん棒に亀裂が入り、粉々に砕けてしまった。
驚く林檎と文香だが、女性は「安物ですわ」とだけ言い、突き出した右手を反転させ、禍々しい指輪を文香たちに見せた。
「ここではアレですわ」
その瞬間、視界が歪み、目の前が真っ暗になった林檎。この感覚に、林檎は覚えがある。ただ自分が知っているのはもっと、こう……不快感がない、どこか安心感のある暗転だったと思いながら、林檎の意識は深海に飲み込まれるように途切れていく。
――目を覚ますと、そこは先ほどまでの風呂場ではなく、あたり一面真っ赤、ところどころ黒いしみが散らばっている部屋だ。どことなく魚の腐ったような臭いや、かび臭い臭いがする。
「ここは?」
あたりを見渡すと、ここが文香の出すフィールドに似ていると思う林檎であるが、まがまがしいこの場所。床は石造り。壁は見えず、あたり一面不気味に無限に広がっているように見える。
「てやっ! たぁっ!」
誰かの叫び声が聞こえてくる。林檎はいつの間にか着ていた黒いローブを不思議に思うも、その音の方へ視線を寄せる。するとその視線の先には羽を生やした女性が、棘のついた棍棒を振りまわしている。
「文香?」
この不愉快な世界に相応しくない、六枚の白鳥のような真っ白な翼、所々青のアクセントが施された純白な鎧姿の戦乙女が、美しく舞っている。
「ふふふ、怖いわ―」
「ふざけるな!」
声を荒げる文香と対照的に、文香を軽くあしらい、ワルツを踊るようにヒラヒラと避け、時にその打撃をご自慢の五爪で迎え撃っている女性。文香の猛攻に口では「このままではまずいわー」と言っているが、足取り軽やかに、兜割り、横薙ぎ、足払い。様々な手段で攻撃を繰り返す文香をひらりひらり、まるで興奮しきった猛牛を相手にする闘牛士のように、華麗に避けていく。そして攻撃に失敗し隙を生じた文香を突き刺そうと鋭く腕を伸ばした。しかし文香は転がり、その攻撃を紙一重で躱した。なおも軽やかに、時おり文香のこん棒を受け止めては、「鋭い一撃ねー」と褒める。しかし、明らかにその褒め方が大人が幼児を褒めるときの口調に似ているため、文香の怒りはますます燃え盛る。。
「たく、避けんな!」
ブンブンと棍棒を振る文香、けれどその攻撃もダンスをするように華麗に避けられ、棍棒が空を切る音だけがこの空間に響き渡る。
「文香……」
林檎の声が聞こえた文香は攻撃を一瞬止め退治する女性と距離をとり、林檎の方へ振り向いた。
「林檎! 意識が戻ったのね!」
嬉しそうな文香の声、けれど、林檎はその文香の声に、返事をすることはできなかった。その女性は林檎が目覚めたことで喜んでいる文香の一瞬のすきを逃さなかったからだ。
「ふみ、危ない!」
笑みを浮かべていた女性は、その口角をさらに引き上げ、歪な笑みを浮かべながら長く尖らせた鋭利な爪を、文香の胸に、鎧ごと貫き通した。
「うふふ、良い色」
貫かれた文香の胸。そして文香の背から伸びる研く澄まされた爪は文香の血で真っ赤に染まり、その爪先からは熟れたトマトが地に落ちるかのように、ぽとぽとと雫が滴り落ちていた。
「りん……ご、だいじょう……ぶ?」
林檎が無事なのを確認する前に自分を確認しろ。そう言いたくても、文香が、文香が刺された衝撃で口が、目の前の出来事を認識したくないためか、パクパクと口は動かせるも声が出ない。けれどそんな林檎を見て、文香は力なく微笑んだ。
「だいじょ……」
「あらあら、コレで終わり?」
女性はゆっくりその手を、文香の血が付いた手を文香の体からゆっくりと引き抜いた。その手についた血を蛇が這うかの如く舐めながら、狙いを変え林檎を見ている。それと同時に支えられることのなくなった文香は力なくその場に倒れこんでしまう。
「文香!」
その瞬間、やっと出た林檎の声がこの何もない空間に響き渡った。
「あらあら、そんなにこのお嬢さんが大事なの?」
笑いながら蟻を踏みつけるように胸から血を流す文香をいたぶる女性に、林檎の怒りは隠しきれなかった。
「お前に何が分かる!」
声を荒げ文香に駆け寄る林檎を見て、女性は不思議そうな顔をしている。けれど彼女には触れさせないと、林檎の腹に蹴りを入れた。
「貴方にはこの子がいるでしょ? なのになぜ、天使なんて欲しがるのかしら?」
「この子?」
女性がそう言うと、女性の後ろからカツカツと石畳を鳴らし、聞き覚えのある音をたてて小さな少女が現れる。
「お前……」
その後ろから申し訳なさそうに出てきたのは綺麗に整えられた少し濡れた髪の、先ほどまで一緒に入浴をしていた、ローブを着た少女。
「咲……」
「ママ……どうして」
「ママって……どういういことなんだよ!」
怒鳴る林檎に体を竦める咲。すると咲を庇うように前に立ったママ、メフィストフェレスが林檎を冷たく見下ろした。
「あら、実はこれ、咲のためにやったのよ。あと申し遅れました。私、咲の母親のメフィストフェレスにございます」
遅い自己紹介をしたメフィストフェレスは、咲に「お母さん頑張っちゃった」と微笑んでいる。
「私、こんなの……望んでないよ?」
先ほどまでの談笑や、文香の胸を見て羨ましがっていた様子は失せ、負い目があるように林檎から目を反らす少女――そう、咲だ。じゃあここはやっぱり魔界か。と林檎はこの異様な空間の正体を推測した。
「いいえ、コレはあなたの望んだことよ、かわいいかわいい私の娘」
震える咲を優しそうに撫で、頬ずりをするる女性。けれどその足元には息も絶え絶えな文香がいる。
「お前が、メフィストフェレスか」
改めて確認し名前を呼ぶ林檎。文香を痛めつけた女性は咲の母親。ならば前に咲が言っていた……
「咲を狂わせた母親ってわけか」
「まあ、狂わせただなんて人聞きの悪い。ここにいるかわいい娘、咲を守る慈愛の母、メフィストフェレスにございます」
白々しくそう告げると、咲に同意を求めた。咲はおろおろとどうすれば良いかわからず。震えている。
「……お前、こうなることを望んでいたのか……」
「林檎……」
「じゃあその口元は何だ!!」
咲ははっとした様子で口元を手で隠した。そして自分のある心に気付く。父から貰った人間の心では文香が傷つき倒れた事を心配する自分がいる。それと同時に――ジャマモノガイナクナッタ。文香が、恋敵が倒れ喜ぶ悪魔の自分がいることに。
咲は申し訳なさそうに、ばつの悪そうに視線を林檎からそらしながらも、居間の奥友絵美は違う。「話を聞いて」と小さく林檎の名を呼んだ。
「お前が……文香を殺した……」
「ち、違う……違うの」
俯きながら呟く咲のそんな姿が、先ほどの笑みを浮かべた咲を見た林檎には責任逃れをしているようにしか見えず、怒りを隠せなかった。
「咲! お前、お前はコレが狙いだったのか」
「り、りんご……ダー――」
名を呼ぼうとするも、林檎が怒っていることを、今まで見せたこともないような、憎しみに満ちた目で咲を睨む姿を見て、思わず尻込みしてしまう咲。
「あの時の笑顔も、仲良くデパートへ行ったことも、帰りに皆でデパ地下で買い物をしたことも、全部演技だったのかよ!!」
咲は体を叱られた子供のようにビクッと体を震わせた。
「文香の家に来たことも、夜中、楽しそうに魔界のことを話したことや、皆で行った百貨店で団子や大福を食べて楽しんでいたことも、全部演技。文香を殺すためだったのか?」
「違う、違うの……信じて、うん、お願い、り――」
「気安く名前呼ぶな、この糞死神女!!」
林檎に拒絶された咲は泣きそうな顔で「それでも……それでも」と林檎の名前を呼ぶ。けれどこの現状、なにが違うと言うのか。お前の、お前の何を信じろというのか。林檎は聞く耳を持たない。
「もういい、文香!」
咲の言い訳なんて知るか。俺は、咲の言葉なんかより文香の様態の方が心配なんだ。と倒れた文香の元へ再度駆け寄ると、文香の瞳は眠ったように閉じており、胸に空いた穴からはいまだ血を流している。
「文香、文香!」
文香の体に触れ、意識、体温があるかを確認しようと名を呼び触れてみたが、文香の返事は無かった。あのセーターから感じられた温もりも、鎧越し、出血多量のためか冷たくなっている。
「息、息はしているか?」
彼女の口元に耳を寄せた。幸い、喘息の様に呼吸は荒いが、息はあった。
「文香、文香ぁ」
女々しく文香を呼ぶ林檎、その姿を見て「男らしくない。本当に女々しい野郎ですこと」と嘲ている。林檎はメフィストの挑発には耳もかさず、文香を見つめ、手を握り、目には止めどなく涙があふれ、大粒の涙は文香の頬にぽとり、ぽとりと零れ落ちていく。
――つまらない三文芝居ですわ。
メフィストは二人の様子を、出来の悪い芝居と評価し、見下している。すると林檎はメフィストを殺してやる。とでも言うように、獣のように睨みつけた。
「愛すべきものを殺された次は復讐。ますますありきたり」
欠伸をする動作をとり、メフィストは「ここにこんなに可愛いヒロインがいてよ」と咲の頭を撫でている。
――憎い、この女が、殺したいほどに憎い。そして咲、咲だけではない。無力な、守れたばかりか、迷惑をかけてばかりの無力な自分自身も許せない。と憎しみの炎を身体中に巡らせる林檎。
「よくも、よくも……文香を」
恨みを込めた憎しみの目で女性を睨む林檎に、咲はひたすら謝っている。けれど時折り自分では抑えきれないのか、無意識に笑みを浮かべる咲に激昂する林檎は文香が使用していた棍棒を拾い、フラフラと、だがその目は鋭く、咲へと近寄った。




