序章 全てのはじまり
その日、私は絶望の淵に沈んでいた。
せっかく決まりかけていた就職がボツになってしまったからだ。
(どうしよう・・・)
とぼとぼと帰路につきながら、私は途方に暮れていた。
私の名前は長谷川愛莉。
大学卒業を間近に控えた22歳。
今まで特に幸運だった事も不幸だった事もなく、平々凡々に人生を歩んできた・・・はずだった。
それなのに、今日、恐らくは人生最大の不幸が襲い掛かったのだ。
そう、さっき挙げた、内定が直前でなくなってしまったことだ。
1時間ほど前、私は突然進路指導部に呼び出された。
間違いなく就職の事だろうと予想はしたが、内定云々の話ならば私の携帯に直接会社から連絡がくるはずなので用件が分からないまま進路指導室に入室した私を、担当の事務員が何ともいえない表情で迎えてくれた。
そのまま別室に通され、歯切れの悪い口調で内定取り消しの旨を伝えられたのだ。
混乱と絶望で硬直する私に、事務員は当たり障りのない言葉で説明してくれた。
オブラートに包まれ過ぎて非常に曖昧な表現だったが、簡単に言えば私よりも成績の良い人が他社を断ってこちらに来たから、したがって私の存在は必要なくなった、という事らしかった。
さすがに携帯で直接話すのは向こうの人事担当者も嫌だったのだろう。だからわざわざ大学の進路指導部に電話を入れたらしかった。
憤る事務員に、人事担当者はただ平謝りするのみだったそうだ。
でも、いくら平謝りされたからといって、私の内定がなくなってしまった事に変わりはない。
ここに的を絞っていたので、他に行く所はもうなかった。
愕然とする私を見て、事務員は気の毒そうな顔をして、
「まだ希望する職種に応募の空きがある会社を全力で探してあげるから」
と言ってくれたが、今は1月も終わりに差し掛かろうかという時期。
今更応募の空きなど、あるわけがない。
青白い顔のまま、私はふらふらと進路指導室を後にした。
(ひどい・・・内定は確実だよ、って、あの人事担当の人、言ってたのに・・・)
安心して連絡を待っていなさい、と言ってくれた人の良さそうなおじさんの顔を思い出しながら、私はとぼとぼと歩く。
きっとあの人が悪い訳じゃない。私の運が悪かっただけ・・・
そう言い聞かせても、絶望感は全くぬぐえない。
(もし・・・他社を蹴ってきた子さえいなければ・・・)
考えは悪い方向にしか傾かない。
ふと顔をあげれば、繁華街をたくさんの人が行き交っている。
その全ての人たちの表情が幸福そうに見えて、思わず奥歯を噛み締める。
(だめだ・・・早く帰ろう)
でも、帰ったところで一人暮らしの暗い部屋が待っているだけ。
だけど、この明るい空気にいるよりはましだ。
足を速めた時、ふと目の端に何かが映った。
「・・・・・・?」
そちらの方向に目をやると、小さな机に蝋燭をともし、黒いフードを目深に被って椅子に座る占い師らしき人がいた。
ざわざわとした人ごみと喧騒の中、なぜかそこだけ時間が止まっているように見えた。
思わず近づくと、占い師はふ、と軽く顔をあげた。
「いらっしゃい、こんばんは」
女性とも男性ともつかない声に、どきっとする。
「こ・・・こんばんは」
男性にしては顎のラインがほっそりしているけど、女性にしては指が長すぎるような・・・
挨拶はしたものの、そこからの行動に戸惑っていると、
「世界中が敵、みたいな顔をしているよ」
いきなり核心を突いた言葉を言われ、心臓が跳ね上がった。
「ど・・・どうして・・・」
分かるんですか、という語尾は宙に消えた。
「そりゃ、占い師だからね」
そう言って悪戯っぽく笑う占い師に、私は何となく恐怖心を覚えた。
口元しか見えないけれど、だからか余計に不信感が募る。
(この人・・・フードで私の顔なんか見えないはずなのに・・・)
「どうして顔が見えるのかって言いたげだね」
またしても考えを読まれたかのような言葉に、逃げ出したくなる衝動に駆られた。
「・・・・・・」
「君の魂が、僕にそう告げるのさ」
「た・・・魂?」
何言ってるんだろう、この人。
魂なんて・・・見えるわけないのに。
「もちろん、全ての人間の魂が見えるわけじゃないよ」
そう言って口の端だけで笑う占い師に、そこはかとない恐怖を感じた私は、足早にこの場から立ち去ろうとした。
「ちょっと待ちなよ」
足を一歩後ろに踏み出した時、少し声のトーンを落として呼び止められた。
どきりとして固まる。
「君の魂は危険だよ。この先きっと良くない事が起こる」
その言葉に、カッと顔が紅潮するのが分かった。
「良くない事なんて、今さっき体験してきた所です!これ以上の不幸なんてもうないわ!」
思わず占い師に向かって当り散らす。
「私が悪いわけじゃないのに、どうして内定を取り消されなきゃいけないの!?大学だってもうすぐ卒業だっていうのに、これから先、どうやって生きてけば良いのよ!!」
ああ、馬鹿だ私。
この人に八つ当たりしたところで何も始まらないのに。
だけど、一度堰を切った黒い心はそう簡単に引いてくれない。
「ここまで頑張ってきた私の気持ちはどうなるの!もう嫌だ・・・!」
言葉と一緒に涙も溢れてくる。
そんな私を、占い師はただ静かに見つめていた。
その静けさに、私は少し落ち着きを取り戻す。
「ご、ごめんなさい・・・」
涙を拭きながら謝る私を見ながら、
「・・・この世界に未練はあまりなさそうだね」
と、ぽつりとつぶやいた。
「・・・・・・え?」
よく聞き取れなかったので思わず聞き返すと、
「なんでもないよ」
と、例の薄笑いを浮かべてはぐらかされてしまった。
「僕の事が見えている時点で君は特殊、ってことさ」
「・・・・・・??」
言っている意味がいまいちよく理解出来ない。
見えているって・・・だってここにいるのに。
「ま、帰り道には気をつけなよ。今日は星の位置が悪いから、引っ張られるよ」
「・・・・・・気をつけます」
他に言うべき言葉が見つからなかったので、棒読みで告げると私はそそくさと帰路についた。
その後ろ姿を、新しいおもちゃを見つけた子供のような笑みを浮かべた占い師に見送られているとも知らずに。
駅のホームで電車待ちをしている間も、占い師の言った言葉が頭から離れなかった。
『ー世界中が敵、みたいな顔をしているよ』
『ー今日は星の位置が悪いから、引っ張られるよ』
(・・・何だか・・・気味が悪い)
今日は本当に全てがうまくいかない。
早く自分の部屋に帰って、布団に潜り込んでしまいたかった。
(それに・・・引っ張られるって、どこに?)
考えながら、ふと足元の線路に目が落ちた。
(・・・・・・引っ張られる・・・・・・)
背筋が寒くなり、今の位置から思わず数歩後ずさった。
そして頭を軽く左右に振る。
(何怯えてるんだろ、私・・・周りには誰もいないのに)
・・・・・・誰も、いない?
「・・・え・・・?」
そう、このホームには私以外、誰の姿も見当たらなかった。
いつもなら大勢の人が家路につく為に電車待ちをしている時間帯。
それなのに、いくら辺りを見回しても、視界には乗客どころか駅員の姿さえも捉えられなかった。
(ぐ・・・偶然、だよね?)
今日は平日だけど・・・たまたま、何かの偶然が重なってるだけで、きっと電車にはたくさん人が乗ってるはず・・・
(お願い・・・早く来て・・・!)
この時ほど、電車が到着するのを強く願った事はなかった。
願いが通じたのか、程なくして電車のライトが近付いて来るのが見えた。
その力強い光量にホッとして、私は息を吐いた。
するすると音もなく電車がホームに入ってくる。
「・・・・・・!?」
目の前を減速しながら通り過ぎていく車両には、誰の姿も見えなかった。
車内には、誰一人として乗車していなかった。
(う・・・うそでしょ・・・)
言いようのない恐怖が、私の足を震わせる。
そして、完全に停車した車両の扉が、ゆっくりと開いた。
「・・・・・・」
私は乗るのを躊躇う。
この電車に乗ってはいけない、なぜか強くそう思った。
(見送って・・・次の電車に乗ろう・・・)
そう決めてその場に立ったまま、扉が閉まるのを待った。
・・・なのに、待てど暮らせど扉が閉まる気配がない。
いつもなら数秒で閉じてしまうのに、数十秒待っても発車を知らせるアラームすら鳴らなかった。
まるで、私が乗るのを待っているかのように。
(だめ・・・絶対に乗ってはいけない・・・)
占い師の言葉が頭の中で何度も繰り返される。
『引っ張られるよ・・・』
だけど、意思とは反対に、足は電車に向かって踏み出していた。
「ど・・・どうして・・・」
頭でいくら止まれと命じても、まるで誰かに操られているように、一歩一歩、足を踏み出す。
そして私が車両に乗り込んだと同時に、何の前触れもなく、扉が閉まった。
私は車内の座席に座って落ち着きなく窓から外を見つめていた。
流れる景色は毎日飽きる程見ている町並みと全く変わらない。
私の他に乗客が誰一人いない以外は、いつもと同じ帰宅風景だった。
私がいる車両はちょうど真ん中あたりになる為、ここからでは運転士も車掌も見る事は出来ない。
家がある駅まではわずか数駅。
いつもはあっという間なのに、今日は妙に長く感じた。
私は窓から目を離し、車内に目をやる。
何度見渡しても、人の気配は全く感じられなかった。
(どうして誰もいないんだろう・・・)
いくら考えても納得のいく答えは出てこない。
そうしているうち、次の駅に到着する。
すると開いた扉から、一人の男性が乗り込んできた。
久しぶりに見た人の姿に、私は安堵のため息を漏らした。
(良かった・・・他の人が乗ってきた)
よく見ると、他の車両にもちらほら人の姿が見える。
やっぱり偶然だったんだ、と思ったら気が緩んだ。
そして数秒で扉が閉まり、電車は再び動き出した。
(馬鹿みたい・・・占い師の言葉に敏感になり過ぎてたんだ。まったくもう・・・)
柄にもなくおどおどしていた自分を思い出し、一人苦笑する。
精神的に参ってる時って、ちょっとの事も大げさに捉えちゃうんだな。
(今日は早く寝ちゃおう・・・)
そう思いながら、向かいに座った男性を見るともなく見る。
そして、どきりと心臓が跳ね上がった。
漆黒の短い髪、陶器のように真っ白な肌。
そして吸い込まれそうな深い緑色の双眸が、まっすぐに私を見ている。
その眼力に、一瞬呼吸するのを忘れ、硬直した。
な・・・なんでそんな見られてるんだろう・・・何か変なのかな・・・
思わず自分を見下ろす。
取り立てておかしな所はみつからない。
再び顔を上げても、変わらず男性は私を凝視している。
「あ、あの・・・何か付いてますか?」
勇気を出して男性に話しかける。
するとー
「引っ張られるよって、忠告したのに。」
無表情だった顔が、にぃっと笑みの形に歪んだ。
「!?」
この声・・・あの占い師!?
「あ・・・あなた・・・」
絞り出した声が掠れる。
「せっかく逃げ道をあげたのに、しょうがないなぁ」
歪んだ笑みをたたえたまま、男性はゆっくりと立ち上がる。
「忠告したのに、君はここに入ってしまった。・・・ようこそ、というべきなのかな」
一歩、また一歩、ゆっくりと私に近付いてくる。
動いているはずの電車内で、揺られることなく真っ直ぐに。
私はそんな占い師を、ただ見つめるしか出来なかった。
あまりの恐怖に、身体が金縛りのようにいう事を聞かなくなっていたからだ。
(逃げ、ないと・・・この人、おかしい・・・)
必死に椅子から立ち上がろうとしても、足が震えてうまくいかない。
それなのに視線は占い師から全く離せず、その歪んだ笑顔に恐怖が増幅する。
そしてついに、占い師は私のすぐ前に立った。
「・・・あ・・・」
悲鳴をあげようとした喉は、押しつぶした声を辛うじて紡ぐに過ぎなかった。
「君を必要としている世界がある」
唐突に占い師がそう囁いた。
「私はその世界の案内人」
囁きながら、私の頬に手を乗せる。
「君が君として存在出来ない世界へ誘ってあげる」
その言葉が一切理解出来ないまま、恐怖で硬直した私の目に両手をかざされる。
ひやっとした感覚を最後に、私の意識は闇に落ちた・・・