正義は身を潜める
塩島加恋にとって、「今」という時間は不十分な存在だった。
「今」見えているものが必ずしも真実で無いと、彼女には分かっていたからだ。
あどけなく笑う道行く少年も、穏やかに微笑んでいるベンチに座る老人も、彼女にとっては等しく『悪』に見えた。
加恋には分かっている。友達と笑い合い、健やかに育っているように見える少年が、いずれ罪を犯す事を。加恋には見えてしまう。静かに佇む、穏やかな老人が決して他人には言えないような罪を背負っている事を。
彼女には等しく『悪』が見える。
加恋は知っている。自らの能力が存在する理由を、知る術が自分には無いことを。
そして加恋は知っている。理由は分からずとも、その意義を。
これは『正義』というものだ。
「……塩島さん。もう体調は、大丈夫なの……?」
加恋が教室に現れると、少しだけ視線を感じたが、それもすぐに他へと移っていく。そんな中で躊躇いがちにこちらに話しかけてきた少年を一瞥すると、加恋は無言で頷いた。
加恋は、月に一度か二度のペースで学校を休んでいる。加恋自身、学生の本分が学業だということはよく理解しているから、学校には真面目に通っていた。それでも休日を利用しただけでは、余りにも日数が足りない。正式な診断書を添えて、体が弱い事を理由に加恋は定期的に学校を休む事にしている。
体が弱い。余りにも薄っぺらい、彼女自身が笑い出しそうになる嘘だ。
でもだからこそ、目の前にいる善良な少年は加恋の事を心配している。
「……大丈夫。ありがとう」
加恋は必要最低限の事しか話さない。友人と呼べる存在も居ない。それはとても孤独だったが、加恋にとっては生きる為に必要な術だった。本来の彼女は、とても社交的だ。加恋に、人の善悪を見通す力が無ければ。目の前で微笑むこの誠実な少年が、いずれ罪を犯す『悪』であると分かっていなければ。
「……そう、僕に出来ることがあったら、何でも言ってよ」
穏やかにそう言いながら微笑むと、彼はゆっくりと席を離れようとする。クラス委員長として、担任から頼まれでもしているのだろう。彼はよく加恋に話しかけてくる。そして、きっと最近はそれだけが理由ではないのだろう。彼の視線に、熱っぽいものを感じるようになったことは加恋の勘違いでは無いはずだ。
何も見えていないのだろうと、加恋は思う。「今」ばかり見ているから、全てを見失うのだ。
「今」が全てなら、この世界はもっと良い物になっているはずだ。でも止まることは出来ない。流れ続ける中で、確かだったはずのものも、いずれ意味と形を無くしていく。
あの善良な少年は、善良な人生を決して送らないのだと加恋は知っている。
加恋にとっての『正義』は、流れを変えることだ。もちろん加恋にも限界はある。それはきっと違う言葉にするのなら、『運命』だとか『宿命』だとか呼ばれるものなのだ。大きな川の流れを、堰き止めることなど出来はしない。
それでも加恋は小さな流れのうちに方向を変え、いずれ辿り着く先を変える事を諦めない。
それはとても難しい事だ。加恋自身が、直接手を下し、『悪』を断つような行動を取れるのは、面識のない人間に限られた。加恋は自分の持つ『正義』が異常である事を理解している。異常であることが周囲からどう受け止められるかも知っている。日常の中で加恋の『正義』を振りかざせば、まともには取り扱われずに、加恋自身を不幸にすることも知っていた。そして、それだけでは済まないということも。彼女は排除されるだろう。徹底的に。もしかしたら、『正義』を掲げられて。
それは加恋にとって不都合だった。『正義』は為されなければならない。『悪』を許すことは出来ない。
特別な力を持たないただの人間として生きるには、ひたすら孤独に生き、隠れたまま『正義』を行使するしかないのだ。
加恋は思う。『正義』とはそういうものだと。誰にも知られてはいけない。関係が近い相手であればあるほど、相手の『悪』を裁くことが出来ない。そんな矛盾を抱えながらも、加恋は今日も自らの『正義』を信じて目の前の『悪』をじっと眺めている。
「……笹原君」
席を離れかけた少年に、加恋は話しかける。自らの席に戻ろうとしていた少年は、驚いて振り返る。加恋が自ら声を掛けてくることは、ほとんどなかったからだ。
「な、何!?」
彼自身驚く位声がひっくり返っていた。それは彼の内情を良く表していた。まさに天地がひっくり返った心持ちだったのだ。
加恋は心の中で呟く。あなたはこの先、そう遠くない未来に、ほんの僅かな瞬間、今の自分自身を全て、手放したくなる気分を味わう。そしてあなたは、本当に手を離してしまう。そしてそれは、今のあなたが死んでしまうことと同じ。
私にとって、あなたは死人と同じ。
「……いつもありがとう」
加恋が呟くと、目の前の少年は僅かに身じろぎもせず、加恋を見つめながら固まっていた。そのうちあっという間に少年の顔は耳まで真っ赤に染まり、彼は素早く視線を下げると逃げるようにその場を離れていく。
加恋はその背中をじっと見つめていた。彼の辿り着く先を見つめていた。加恋は思わずにはいられない。自らの傍にいるからこそ、満足に救うことも出来ない人達の事を。彼らがいるからこそ、加恋は『正義』を掲げる事を止めることは出来ないという事を。