悪の代理
桜井省吾という少年にとって、暴力は身近なものだった。物心つく頃には、生まれながらに授かった強靭な体を駆使して、気に食わない相手、自分に逆らう相手に暴力を振るっていた。ただ、少年には理性があり、分別があった。暴力とは許されない行為であり、明るみになれば追い立てられることを知っていた。だから桜井はいかに暴力を表ざたにしないかを意識して暴力行為を行った。
そのうち桜井は直接手を下す事をしなくなった。彼の持つ暴力という一種の力を信奉し、そのおこぼれに与ろうとする人間は少なくなかった。桜井は暴力という行為をまったく厭わなかった。桜井にとって暴力は正当な行為に過ぎなかった。自らを害する相手が居て、自分にはその相手を脅かす能力がある。ならばそれを行使しない手は無い。それは桜井にとって疑いようのない、当たり前すぎる事象だった。
やがて桜井は知る。膨れ上がった彼の「手足」達が、彼の名を借りて、彼自身を隠れ蓑にして、暴力行為が行うようになったことを。まったく身に覚えの無い恨みや憎しみをぶつけられて、初めてそこで彼は恐怖を覚える。今まで自分がして来たこと。それはもしかしたらとんでもない間違いだったのではないかと。
桜井は自分の暴力を信じることが出来なくなった。暴力という行為を段々と嫌悪することになる。それでも桜井の「手足」は止まらない。象徴としての彼を利用し、「狩り」と称して何の関係も無い人間にまで暴力を振るい、金銭を奪うような輩まで出てくるようになった。桜井は恐怖した。自らの意志に関係なく膨れ上がるそれは、得体の知れない怪物のように感じられた。そのじわじわと首を絞められていくような感触を、少しずつ呼吸が苦しくなっていくような感覚を、彼は知っていた。これは「悪」だ。
そうして桜井自身が彼を取り巻く環境に押し潰されそうになっていた時、彼は立花一成と出会った。
「……よう、お前が桜井か?」
桜井は顔を上げた。昼休みの中庭は桜井達がたむろする為に自然と誰も寄り付かない区画となっていた。親しげに話しかけてくる声の持ち主を確認すれば、そこに立っていたのは華奢な体格の少年だった。
上履きのラインの色からして、同級生なのだろう。ただ、顔を見かけた覚えは無い。
随分と特徴の無い男だな、と桜井は思う。桜井はこの高校においては所謂不良達のリーダーと言ってもいい立場だ。だからこそ、その人間の持つ「格」というものが、何となく分かるようになっていた。人の上に立つ人間と、人に使われる人間。それは役割に近いものであって、けれどそう簡単にひっくり返るものでは無いことを、桜井は知っていた。
目の前で微かに微笑む少年には、その「格」がまったく見えてこない。「手足」のように容易く扱える無力な少年にも見えるし、こちらを見て微笑むその瞳には、桜井と対等に話が出来る様な自信に満ち溢れているようにも見える。
そこまで考えて桜井は不機嫌になった。どうでも良い事だ。
不遜と言ってもいい態度の、突然の闖入者に桜井の手足達の雰囲気が俄かに変わった。それでも大半は面白がるような空気であり、目の前の少年を冷めた目で見ながらも、ニヤついている者もいた。
「……誰だ?お前」
桜井が口を開いたことに、少しだけ周囲が驚いた顔を見せる。近頃の桜井は昔にも増して周囲の人間に全てを任せるようになり、彼自身はまるで石のように、ただ静かに佇んでいる事がほとんどだったからだ。
「俺?あぁ、2年D組の立花一成って言う。お前、桜井で、合ってるよな?桜井省吾」
「……あぁ。……それで?」
「それでって何だ?」
「俺に、何か用か?」
桜井の取り巻き達は、一気に緊張する。桜井の様子が一変したからだ。口調も、表情も何も変わっては居ないのに、桜井の感情が、目の前の少年に敵意を放ったのが分かった。明らかに周囲の空気が、重い。気のせいではない。信じられない話だが、比喩では無く「空気が重くなっている」のだ。
「……へえ、ちょっとしたもんだな」
一成が独り言のように呟く。それはまるで、一変した場の空気が、桜井によってもたらされている事に気付いているような素振りだった。
「あぁ。俺はお前に用がある。……あのな、お前うちのクラスの新島さんって知ってるか?」
「……誰だ?」
「新島愛奈さん。知らないか?その子がな、お前に脅されてるって凄く怖がっている」
「……俺に?」
「そう。何でも、お前が一目見て、新島さんを気に入ったから、とにかく付き合えって、そういう話が彼女に来てるんだよ。彼女はお前の事、知ってたぜ。すげえ怖がってる」
「……覚えが、無いな」
桜井には覚えが無い。彼には分かっていた。きっとまた、自分の名を騙り、その力を利用して自らの願望をかなえようとしている何者かがいるのだろう。
「……あ、そうなの?まぁ、知ってたけどな」
「何だと?」
「いや、見て分かったよ。お前、従えてるように見えて、本当は担ぎ上げられて降りれなくなってるんだろう?」
「……」
「なぁ。俺は、お前の願望をかなえてやれるぞ」
「……?」
桜井が口を開きかけた瞬間だった。桜井の傍らに居た桜井の仲間が、突然一成に襲いかかったのだった。
「……はっは!!!思ったより!!根性あるなあ!!!随分我慢したじゃねえか、ああ!?」
目の前の光景に理解が追い付かない。
「……どうした!!お前ら!!」
中庭でたむろしていたのは桜井も含めて8人。桜井を除く全ての仲間が、突然一成に向かって襲いかかっている。
桜井は絶句した。その様子はまるで正気には思えない。一切の加減は見られず、一切の知性が見つからない。雄叫びに近いような声を発しながら、襲いかかる。
一成はその場からほとんど動く様子は無かった。無事では済まない。桜井はそう考えた。そう考えた時には、体が動いていた。そこに思考は無かった。ただ、長い間忘れていた、懐かしい何かを感じた。
「やめろ!!!」
桜井は一成に襲いかかる仲間達を後ろから弾き飛ばした。それでも無事だった4人が一成に向かって拳を振るう。全身をしならせる様にして撃たれた、がむしゃらな拳だ。
一成はその場からほとんど動くことなく、それを全て避けた。桜井には、半身をずらして一歩退いただけに見えた。それだけで全ての拳が空を切った。
「ほら、やっぱりな!!俺の思った通りだ!!」
叫びながら一成が、消える。しゃがみながら4人の間に滑りこみ、次々と拳を叩き込んだ。
冗談のような勢いで、4人がバラバラの方向に吹っ飛んでいく。
呆気にとられた桜井の目の前で、立ち上がった残りの3人をあっという間に叩き伏せると一成は息ひとつ乱さずに、桜井の方を見て笑った。
「何が……お前、今何をした……?」
桜井は、自らの声が震えているのを感じた。桜井は怯えていた。自分自身が何かに怯えていて、でも何故怯えているのかが分からない。その事実に怯えていた。
「なぁ、桜井。お前は『悪』か?」
一成の口から発せられた、突然の質問に、桜井は口を閉ざした。少しの沈黙の後に、桜井が答える。
「あぁ。俺は『悪』だ」
「そうか。俺は『正義の味方』だ」
桜井は一成を見つめた。
「そうか。……『正義の味方』か。……いいな」
羨ましい。桜井は心の中で呟く。
「……おいおい、自分で言っといて何だけど、そんなリアクションでいいのかよ」
「……」
「いるわけないだろ、そんなもんとか。ふざけるな!!とかいって今度こそお前が襲ってくるとか」
「……」
桜井は落ち着いていた。今まで、ずっと、自分の存在に疑問を持つことは無かった。信じていただけだ。これが正しい事だと。後悔もしていない。ただ、自分の信じるものをひたすら信じ続けただけだ。その結果が自らの破滅なのだとしても、それは仕方のないことだった。
「倒せ」
桜井は呟いた。一成を見つめる。桜井はふと、今自分はどんな顔をしているのだろう、と考えた。
「『正義の味方』は『悪』を倒すんだろう?やってくれ」
目の前の少年が自分をどうするつもりなのか。自分が果たしてどうなってしまうのか、見当も付かなかったが桜井は落ち着いていた。
「……なぁ、桜井」
一成が、口を開く。優しい声色だった。
「俺は、『悪』を挑発する。俺が目の前に居れば、『悪』は間違いなく攻撃に移る。そうせざるを得ない。そういう仕組みになってんだよ。だからな、桜井。お前は俺と満足に話も出来ないはずなんだ」
桜井はぼんやりと一成を見つめた。桜井は自分が何故だかひどく疲れていることに気付いた。自然と、膝をつく態勢になる。
「なぁ、桜井。もう一度聞かせてくれ」
お前は、『悪』か?
桜井は自らの顔を両手で塞いでいた。目の前の少年に、今の自分の顔は見られたくなかった。嗚咽を噛み殺しながら、必死で言葉を発していく。
「……俺は……『悪』だ」
暫くの間、静寂が続いた。
「そうだな、お前は『悪』だ。……なぁ、桜井。お前に頼みがある」
一成は桜井と同じ様に地面に膝を付くと、彼の肩を掴みながら囁いた。
お前のその立場を、俺にくれ。