みちしるべ
※ 途中で視点がかわります。
二月中、頑張って課題プリントをこなした杏奈はどうにか卒業できそうで、俺はほっと胸をなでおろした。それなのに。
「よかったな」
そう言った俺に、杏奈は何とも言えない複雑な笑みを浮かべる。その苦しそうな表情をみた後で、俺は言ってはいけないことを言ってしまったと気づく。
『私の卒業と同時に離婚届を出すと言われたの……』
瞳を哀しげに揺らして語った杏奈を思い出して、胸が潰れる思いがした。
本当なら、卒業できることは喜ばしいことなのに、杏奈にとっての卒業は、家族がバラバラになることを意味している。
離婚を言い渡された時杏奈がどんな気持ちだったか、どうして学校に行けなくなってしまったのか、気づきもしない杏奈の両親がやりきれないほど恨めしく思う。
せめて、自分だけは杏奈を不安にはさせないようにしようと思ったのに、地雷を踏んでしまって、内心どうしようもなくてんぱる。
言葉に詰まっていると、肩を落として落ち込んだ声で話す杏奈。
「でも、卒業後の進路が決まっていなくて、どうしよう……」
声とはうらはらに、杏奈の口から出たのは前向きな発言で、俺は思わず杏奈の顔を凝視してしまう。
「浅葱君?」
そんな俺を不思議そうに首をかしげて見てくるから、俺はあわてて口を開く。
「あっ、ほら、これからでも試験受けられるとことかもあるし、ゆっくり探せば大丈夫だよ。杏奈はなにかやりたいことってある? 興味があることでもいいし」
「興味があること?」
あわてて言った言葉に、杏奈は大きな黒目を見開いてそれからなにかを考えるようにくるっと瞳を揺らす。
「そう。なんでもいいんだよ、大好きだーって思えるようなこと。俺はさ、泳ぐのが好きで、単純だけど大学でも水泳やりたいって思って体育学部にしたんだ。瑠花が言うには俺って教えるの下手らしくて、って自分でもうまいとは思ってないけど、体育教師になるのだけはやめろって言われたよ」
そう言って俺は苦笑する。
正直、大学に行った後のことはあまり考えていない。体育教師になるのはありえないし、プロを目指すかっていうとそこまでじゃない。漠然と考えるのは、子供向けのスポーツクラブのインストラクターとか。水泳って楽しいんだって教えられたらいいかなと思う。
ちょうど柳の出身大学でもある体育大学のスポーツ推薦枠があって、家からも近いからという理由だけで決めたんだが。
「浅葱君はやりたいことがあってすごいね」
そんなふうに言われて、俺は面食らう。
※
何事もなければ、平穏な高校生活を送って普通に卒業していた。それが、夏の終わりに告げられた両親の言葉によって“卒業”することが苦痛になってしまった。
学校で倒れて、教室に行けなくなって、挙句、部屋に引きこもって。
家にいることさえ苦痛になって、震える体を叱咤して学校に行って、出会ったのが浅葱君だった。
それまでは、このまま卒業できなくてもいいとか心のどこかで思っていたのに、浅葱君に会って学校に行くのが待ち遠しくなって、卒業した後には辛い両親の離婚が待ち受けていてもちゃんと卒業しようって思えるようになって、自由登校の間に課された課題も頑張れた。
ぜんぶ全部、浅葱君のおかげで。ひだまりのような笑顔で私を包み込んでくれるから、頑張れたの。
だけど、いざ卒業できるって担任に言われて、焦っている私がいた。
だって、無事卒業して、その後はどうするの――?
その先の道が見えていなくて、途方もない絶望感に襲われる。少しでも浅葱君と一緒にいられたら幸せで、でも、卒業したら浅葱君とはもう一緒にいれない。浅葱君はスポーツ推薦で大学進学が決まっていて、私は卒業後の進路すら決まっていない。
すぐ目の前に分かれ道が迫って、どうしようもなく焦っていたら、浅葱君が自分のことを例にしてアドバイスをしてくれた。
「あっ、ほら、これからでも試験受けられるとことかもあるし、ゆっくり探せば大丈夫だよ。杏奈はなにかやりたいことってある? 興味があることでもいいし」
「興味があること?」
問い返した私に、浅葱君はゆっくりと話してくれる。
「そう。なんでもいいんだよ、大好きだーって思えるようなこと。俺はさ、泳ぐのが好きで、単純だけど大学でも水泳やりたいって思って体育学部にしたんだ。瑠花が言うには俺って教えるの下手らしくて、って自分でもうまいとは思ってないけど、体育教師になるのだけはやめろって言われたよ」
なんでもいいんだよ――そんな言葉が胸にしみていく。
それに、これが好きって堂々と言える浅葱君が素敵だし、夢をちゃんと見つめて向上心に満ち溢れている浅葱君がまぶしかった。
「浅葱君はやりたいことがあってすごいね」
気がついたらそう言っていた。
本当にそう思ったのだけど、浅葱君はちょっと面食らったように目を見開いて戸惑っている。
「いや……、俺は別にそんなすごくないけど……」
歯切れ悪く喋る浅葱君の耳まで赤くなっていることに気づいて、照れた表情さえ愛おしくて仕方がなかった。
「それで、なにか思い浮かばない? 大好きだーってこと」
改めて問われて、私は自分の胸の中にあるふわふわした気持ちを、戸惑いながらゆっくりと言葉にする。
「あの……、犬とか、ペットの介護……」
去年亡くなったひま。家に来た時に四、五歳だったと考えれば長寿をまっとうしての老死だったのだろう。それでも、もし自分がひまの些細な変化に気づいていれば、どうにかできたのではないかという後悔の念が胸にわだかまっている。
亡くなった命は、もう戻らないことは分かっている。それならば、自分と同じように苦しむ人の手助けができればいいと思う。
漠然としているけど、好きなものは何かって聞かれて、一番に思い浮かぶのはふわふわの毛のひまを抱きしめた時のこと。
「動物介護か? んー、それなら専門とかかな」
私の言葉に浅葱君がうんうん頷きながら、がたんっと椅子から立ち上がると、いつの間に掴んだのか私の手を引いて歩き出す。
「さっそく、進路相談室に行ってみよう」
言うが早いか、そう言って浅葱君は私の手をつかんで廊下を歩き出した。
こうやっていつも、私の足元を照らして、進むべき道を示してくれる。
言葉にしても足りないくらい救われているし、包んでくれるその強さにいつも守られている。つないだ手から優しさとひたむきさが伝わってくる。
そんな浅葱君と一緒にいてもいいように、私はちゃんと自分の将来を考えようと思った。
進路相談室でいろいろ資料を見て、担任の先生にも相談して、動物介護の専門学校でこれからでもまだ受験に間に合うとこを見つけた私は、親を説得する。
久しぶりに話す両親は、なんだか老けたように思う。
自分の考えを伝えられるか、ちゃんと聞いてくれるか心配だったけど、両親はじっと黙って私の話を聞いてくれた。
「杏奈がそう決めたらな、そうしなさい」
そう言った時、久しぶりにの母の笑顔を見た気がした。
※
杏奈が受けた専門学校の合格発表の日、俺は杏奈と一緒に専門学校の校舎の前に立っていた。
都心の地下鉄の駅を降りて大通りを少し行った角地、見上げると首が痛くなるくらい高くて、なんというかイマドキな白い建物が、杏奈の受けた専門学校の校舎だった。
校門とか、校門から校舎に続く並木道なんてのはなくて、敷地いっぱいにでんっと校舎が建っている。
つないだ手の先に視線を向けると、隣では緊張で泣きそうにしている杏奈がいて、笑っちゃいない雰囲気だって分かってるけど、あまりに可愛すぎて、笑みがこぼれてしまう。
俺は杏奈を安心させるようにぎゅっとつないだ手に力を込めて、杏奈の顔を見る。
重なった視線の先で、杏奈は目の端に涙をためて不安そうに俺を見つめてくる。
「大丈夫だよ」
そう言って一歩踏み出し、校舎の中へと入る。正面玄関の先には、「合格発表の掲示はこちらです」というような案内板があり、それを頼りに広い校舎を進んでいく。
「でも、もし落ちたら……、私は無職です……」
本気で心配している杏奈の言葉に、思わず俺は噴き出してしまった。
「無職って……」
間違ってはいないけど、未成年なんだから親を頼って浪人するっていう方法もあるのにな……
そこまで考えて、杏奈が言っていたことを思いだす。
『私は、卒業したら一人暮らしするつもりです。昔みたいに温かな家庭には戻れないと分かっていても、私にとって、お母さんはお母さんだし、お父さんはお父さんだから。どちらかについていくって選択はできない……』
杏奈の一人暮らしは認められ、親権者は父親に決まったらしい。
月々仕送りはしてくれるらしいが、杏奈は授業料はお願いするけど、生活費は自分でどうにかしたいと言っていた。バイトもしたことがないからしてみたいし、と付け加えた杏奈の表情は、どこか腫物が落ちたようにすっきりしていたっけな。
それでも、きっと杏奈の中に浪人という考えはないのだろう。
専門学校は大学受験と違って、滅多なことでは落ちないと聞くけど、もしも不合格だったら――




