手をつないで side杏奈
「いつまでもここにいたら寒いだろ? 教室行こうぜ」
浅葱君の言葉に、無意識に体が震えだした。
頭では教室に行こうって思っているのに、体が拒絶するようにすくみ上る。
一歩を踏み出せずにいた私に、浅葱君はつないだ手を優しく握りしめるとゆっくりと歩き出す。
浅葱君が一歩踏み出すと、それに引かれるように自然と私の体が動き出す。自分で歩こうと意識した時は動けなかったのに、浅葱君が手を引いてくれていると、足がスムーズに動く。その不思議な感覚を感じながら、私は浅葱君の一歩後ろをついて昇降口に向かった。
「今日はすっげーいい天気だよなぁ~」
昇降口の手前で空を振り仰いだ浅葱君は、校舎越しに見える空を眩しそうに見つめて誰にとはなく呟くように言う。それから振り返った浅葱君は、にこにこふわふわの優しい笑顔を浮かべていて、胸にしみる。初めはひまに似てるって思ったけど、今はそういうのじゃなくて、ただ単純にこの笑顔を見ると安心する自分がいて。浅葱君の笑顔につられて私は笑っていた。
外履きから上履きに履き替えて時に一度離された手を再び浅葱君につながれて、教室へと続く階段を登り始める。一階から二階、二階から三階へと上がるごとに、足は動いているのに鉛でもつけているように体が重くなっていく。
階段を登りきって右に曲がったら教室というとこまで来て、体全部が鉛になってしまったみたいに感じた時、浅葱君は教室に向かう廊下へではなくさらに上へと続く階段を登り始めた。四階へ行く時はまだ体が強張って小刻みに震えて、その上の屋上へと続く階段を登りきる時には、体はだいぶ軽くなっていた。
教室から遠ざかったからっていうのもあるけど、何よりも、つないだ手から私の心が分かってしまったかのように、浅葱君が何度もつないだ手を握ってくれるから。「大丈夫だよ」そう言ってくれているように感じて、体中を渦巻いていた恐怖心が遠ざかっていった。
連れてこられた屋上は、初めて来る場所だった。
重い扉を押し開けた瞬間、室内に押し戻されるような強い風がふきこんできたけど、完全に外に出てしまえば、屋上は穏やかな風が時折吹くだけだった。
屋上を少し歩いた浅葱君はフェンスのそばに腰かけて、隣に座るように視線で促し、座ったのを確認してぽそっと漏らす。
「俺のとっておき」
そう言って私を見た浅葱君の笑顔はお日様みたいにすべてを包み込むような優しい笑顔で喉の奥がきゅーっと締め付けられた。
こんなふうに笑顔を見るだけで胸の奥が苦しくなる。それほど私は人の優しさとか温かさに飢えていたのかもしれない。
そのことに気づいて、溢れそうになる涙を誤魔化すように私は首を思いっきり後ろに傾けて、浅葱君が見ている空を仰ぎ見る。
久しぶりに見上げた空は手が届きそうなほど近くて、泣きたくなるほど青い。まだ登りきっていないお日様はすべてを見守っていてくれるような優しい温かさだった。
「俺さ、水泳部なんだけど、部のメンバーと終業式にクリスマス会やる予定なんだ」
そう話し始めた浅葱君を見た私の視線をとらえて、浅葱君はふっとやわらかい笑みを浮かべる。
「うちの部にさぁ、両思いなのに本人達だけ気づいていないヤツらがいてさ、その一人っていうのは俺の幼馴染なんだけど、見ててもどかしいっていうかなんとかしてやりたいなぁ~って思うんだ。それで……」
にこにこ笑顔で話す浅葱君に時々、頷き返し、浅葱君が話す水泳部のことを聞いていた。
浅葱君が水泳部っていうのはちょっと意外って思ったり、話を聞いてて幼馴染の人のことをすごい大切に思っていることが伝わってきて、いいなぁ……とか思ってしまったり。
他愛もない話なのに、私の胸は温かな気持ちで満たされていく。
それは、昔なくして、ずっと探していたひだまりの空間に似ていて、ふわふわしていて、優しく包まれているような感覚に安心して――
※
次に気がついた時、私はベッドに横たわっていた。
なんか夢を見ていた気がするけど、どんな内容だったかは霧がかかったようにおぼろげだけど、温かな光に包まれてぽかぽかする気持ちが胸に広がって、消えていった。
目の前に見えるのは、ありふれた天井と白いカーテンで、ここが保健室なんだとぼんやりする頭で考える。
どうして保健室に……?
そんな疑問を抱えながら、とりあえず肘で体を支えながら上半身を起こそうとして思って、自分の右手が何かに包まれていることに気づいて視線を手に向けると、浅葱君がベッドに顔を伏せて寝ていて、左手は私の右手をしっかりと握りしめていた。
起きた時に感じた胸の温かみの正体に気づいて、私は無意識に微笑んでいた。
穏やかな寝息を立てて眠る浅葱君の寝顔を見つめどれくらい経った頃だろうか。もしかしたらそんなに時間は経っていなかったかもしれないけど、ベッドを囲っていた白いカーテンが遠慮がちに少し開いて、保健医の荒井先生が顔をのぞかせた。
「あら、気がついていたのね」
そう言って微笑むと、僅かに開いたカーテンの隙間に体を滑り込ませ、後ろ手でカーテンを閉めると、私の側へと近づいてきた。
「うーん、熱はないみたいね。気分はどう?」
額に手を当てながら荒井先生に尋ねられて、私はぼそっとかすれた小さな声で返事をする。
「大丈夫です。あの……、私、どうして保健室に……?」
恐る恐る感じていた疑問を口にすると、荒井先生はわずかに眉尻を下げてなんともいいがたい苦笑をもらす。
「ホームルームが始まる直前くらいかしら、桃原君が露雪さんを抱えて保健室に来たのよ。彼が言うには、屋上で話している途中で寝てしまったそうよ」
「えっ……」
「昨日もあまり眠れていないんじゃない?」
事情を知っている荒井先生に気づわしげに問いかけられて、私は小さく首を縦に振る。
学校にも行けないけど、家にも私の居場所はなくて。家にいても落ち着かなくて、特に夜は、いつ両親の怒鳴り声が聞こえてくるかと思うとなかなか眠ることができなかった。
「緊張の糸が切れて寝てしまった、ってところかしら?」
そう言った荒井先生は、茶目っけたっぷりの笑みを浮かべてふふふっと笑った。
浅葱君と一緒にいたところを知っているはずないのに、そんなことを言われて私の心臓が大きく跳ねる。
「えっと……」
なんて答えていいか困っていると。
「露雪さんをベッドに寝かせたら、桃原君にはすぐに教室に戻りなさいって言ったのよ。そうしたら彼、なんて言ったと思う?」
相変わらずお茶目な笑みを浮かべた荒井先生は首をかしげながら聞いてくる。だけどそんなことを聞かれても私には分かるはずなくて、黙っていると、特に返事を期待していなかったように先生は笑みを深くして話を続ける。
「『授業はいいので、露雪さんの側にいます』ですって」
そう言った荒井先生は、瞳を細めてふふふっと笑う。
「『桃原君の気持ちも分かるけど、授業には出ないとだめよ』って言ったら、『どっちにしろ出れないんです』って言うから不思議に思ったら、彼は左手を顔の前にかざして見せたのよ。あなたがしっかりと握りしめた手をね」
ウインクする荒井先生に、驚きと恥ずかしさで顔がどんどん赤くなっていくのが自分でも分かって俯く。
わっ、私が浅葱君の手をつかんで離さなかったのぉ――!?
穴があったら入って埋まってしまいたい……
というか、このまま布団をかぶってしまうのもいいかも……
恥ずかしさに顔をあげることも出来なくて縮こまっていると、ぽんっと頭を優しく撫でられて、恐る恐る顔を上げる。
「だから桃原君には一時間だけねって言って許可したんだけど、彼も一緒になって寝ちゃったのね」
浅葱君を見て苦笑する荒井先生と視線が合って、私もつられて笑ってしまう。
「露雪さん、がんばっているものね」
なんとはなしにかけられた荒井先生の言葉が胸にしみて、泣きたくなる。今日はほんとうに泣いてばっかりのようなきがする。




