ごはんおいしい
あのカエルの医者が学校に革命者がいたと言ったとき、僕は気づくべきだった。
……いや、違う。僕は気づいていた。気づかないふりをしていただけだ。忘れたつもりでふたをした。コップについ手の甲を当ててしまい、テーブルから落としそうになる。反射的に掴むが、水がわずかにこぼれた。水は記憶だった。びくりと身がすくむ。おぼえていない、おぼえていない。僕はなにもおぼえていない。
「わたしが追いつめているような気分になるね。ようするに連鎖性を察するのだな。直接精神に攻撃として言葉をぶつけたわけではないが、自らが対象に対して与えた影響のドミノ的広がりを表情や仕草から判断する。この場合、つまり今のきみだが、影響は固有性に左右されているので責任はきみにあるはずだ。しかしわたしは己に責任があるように感じる」
僕の様子を見た博士が言った。冷静な分析なのか謝る前段階なのか。
僕の中の複数の僕が、あーだこーだと喚きたてている。思い出せ、思い出せと机をばんばん叩く立派な僕。なにを言っているのか。忘却にもそれなりに理由がある。わざわざ忘れたものを取り戻してどうする、と煙草をふかしながら気取る僕。それよりごはんが食べたいよ。いつ食事をしたのか、そっちを思い出したほうがいい。お腹が減った僕。ここは牢屋だ。息苦しくて、自由がない。いっそ死刑を望むよ。囚人の僕。翼はなくても、精神は飛べるのさ。少しおかしくなった僕。
一番強いのは、空腹だった。なにか食えるものはないか?
「コンビニで買ったおにぎりがある」
黒服にビニール袋を差し出された僕は喝采を上げた。ペットボトルのお茶まである。昨日はなにも食べていなかったんじゃないか? 朝は摂取したような気もする。どうだったかな。
具材は鮭と梅干。ツナマヨがあればストライクだったが、最高の調味料がたっぷり準備されている現状なら十分だ。若干変形しているおにぎりに付属の海苔を巻き付け、ぱりぱりとした触感からのもちっとをいただく。うまい。今なら大嫌いなピーマンでもおいしいかもしれないのに、米を食せる喜び。
こほん、と博士が咳をした。風邪かな。移さないでほしいものだ。
「わたしの話を聞いていたかね?」
聞いてた聞いてた。僕はすらりとおにぎりを平らげ、お茶をぐきゅぐきゅ飲んだ。ぷはっと口を離すと、フィカソトリアが凝視していたのでびっくりする。ペットボトルがぶんどられ、飲まれた。一口で返され、唇の端がにゅいっと曲がる。
「間接、キス」
喜びが虚偽のようにしぼみ、ぐったりする。磔にされた善人を救えない傍観者の気持ちだ。
「詳細なレスポンスがほしい……」
博士がエアルービックキューブをしていじけていたので、本題に戻ってあげることにした。
僕がおぼえているのは、五人だけだ。一六人だか一五人だか、そんなにたくさんはいなかったはずだよ。
「だが、クラスメイトはあそこに全員いたのだろう? なにせ授業中だ。休んだ人間はいなかったと報告書には書いていたが」
クラスメイト。クラスメイト……。
ぴり。電流が通ったような軽いショック。僕はクラスメイトが四人しか思い浮かばなかった。ようやく自分が変なことに気がつく。だまし絵でずっと坂を登る輪に組まれたシルクハットの人物になったかのようだった。
妙だ。
「妙だね」
「博士、妙です」
黒服が言った瞬間、衝撃が車を襲った。
横転しなかったのは、幸運か不運か。天使の采配か悪魔の悪戯か。とにかく自動車は走るのをやめなかった。暴虐な王に負けず、親友の信頼に報いようとしているのかもしれない。
「誰だ、移動中に仕掛けてくるとは。親の顔が見てみたいな」
親より先に本人の面を拝もうよ。
「違いない。しかし困ったな。遠距離から狙われていたら対抗手段がないぞ」
博士は全然困っていなさそうだったが、とりあえず考え中とばかりに腕を組んだ。
「というか、ヘリコプターですね」
黒服が窓から手を出し、人差し指を上へ向けた。天国への階段を示すジェスチャー。上空には音もなくヘリコプターが飛んでいた。人が乗り出して、おそらく銃器を構えているであろう姿がかろうじて見える。
「無音ということは軍の新型か。厄介な発明ばかりしおってからに。交通事故を起こしたらどうするんだ」
「どうします。やれないこともないですが」
黒服が幾人か臨戦態勢に入る。といっても、窓から身を乗り出す程度だが。ところてんみたい。
「いくらおまえたちでも、あれほど離れていては難しいだろう」
車とヘリコプターの間は、りんご五〇〇〇個分はありそうだった。血も涙も届きそうにはない。
「革命者よ、おまえさんはどうだ?」
「無理」
塩ひとつまみを鍋いっぱいに溶かしたスープの返事。役立たずが!
「アゲイくん、魔力が回復したと言っていたな」
でも、使ってしまったよ。アガイだしな。
「ものは試しだ。呪的発声をしてみてくれたまえ」
窓から顔をのぞかせ、消えろ、と言ってみる。しーん。風にまみれてドップラー。なにも現実化しない。夏休みの宿題、一行日記を最後の日に蝉の歌を聞きながらカリカリ鉛筆を躍らせる。あの寂しさよ。
「まあ、魔力が残っていてもここからではな」
じゃあ、やらすなよ。
「ものは試しだと言ったろう。さて、どうするか」
と、第二撃。今度はクリティカルヒットした。ぼうんと嫌な音。
「退避!」
フィカソトリア以外のメンバーを抱えて、黒服が時速八〇キロメートルくらいからの急減速より、道路に着地しようとした。咄嗟には血液悪魔も間に合わず、黒服の肉体がクッションになる。がっ、どっ、ごろごろごろごろ。黒服のカバーは広かったが、痛みが臀部にくる。コントロールを失った車が脇へ突っ込んだ。
よろよろ起きると、複数のアナクロ軍用ジープがやかましく僕らを取り囲んだ。ヘリのハイテクさに比べて、なんと無骨なのだろう。同じくらい無骨な装備をした兵士たちがぞろぞろ現れる。量産型の印象を受けた。
「ここは俺にまかせろ!」
威勢よくフーリムが拳を握った。ああ、いたんだ。
「いたたた……。おお、いたのかねフーリム。きみも魔力患者だったな」
黒服を下敷きに寝転がったまま、博士。
「私も私も」
ミミハウが跳ねる。うさぎ、いやバネだ。階段から落としてみたい。
「いくぞ、ミミ」
「オーケー、フー」
なにも期待できないが、とりあえず眺める。無為に時間を過ごすことを認めるわけだが、今までずっとそんなようなものだったから、これくらいで後悔もないだろう。諦めですらない。はっと顔を上げると時計の針が思っていたより三〇倍のスピードで進んでいる。その連続なのだから。
「俺たちは概的感情、心の動きが現実化する! さあ喰らえ、俺たちの楽しい気持ちっ」
「あんまりひどいめには合わないから大丈夫よ!」
相手が大丈夫だったらこっちが大丈夫じゃないんだが。
僕の霧雨は彼らの肌を濡らさない。きらりと兵士と僕らの間が光った。
ことり。鉢植えの花が置かれる。
「あれ、派手さに欠けるなあ」
「死体のフリをするのに魔力を使ったからかしらねえ」
軍の代表が近づいてきた。なぜわかったか。偉そうな雰囲気をしていたからさ。周りが道を空けて、大股で、肩幅がでかい。装備は軽めだが装甲は分厚い。
「投降しろ。軍はおまえたちを殲滅、拘束する権利がある」
そんな権利は誰にもないよ。それらしい権威を振りかざしているだけだ。と言ったら撃たれるだろうか。
僕はいち早く降参の合図を出した。お手上げだ。黒服は応戦体制。フィカソトリアの姿がない。この際いなくなってくれたほうが……と思っているうちに爆発音がした。見ると、ヘリコプターが墜落している。さすがにそうした音は消せないのか。
炎を背景にしたフィカソトリアは、指でブイサインを作りながら戻ってきた。
「勝利」
ほっぺにぎゅうぎゅうブイの字を押しつけられ、僕はデブのモノマネのようにやめろよう、ともごもご言った。
「と……」
代表が口を開いて止まる。ヘリの残骸を、かっぽじらないまでもまぶたぱつんぱつんで確かめる。
と? フィカソトリアにも投降しろと宣言するつもりだったのだろうか。できるなら僕がしたいよ。