起床、そして死体
起床すると吐瀉物が淡白に添い寝しており、ガンガン頭を打ち鳴らす時計よりも鮮やかに今日の自分を憑依させられた。気持ち悪さが決定的に違うが、朝食前にグレープフルーツジュースを飲むかのようだった。
死体は僕の右と左に一体ずつ、王家の棺桶のごとくそこにあった。僕に備わった死体発見機能、トラウマは正常に作動したらしい。わざわざ律儀に吐かなくてもいいのに、厄介な体になってしまったものだ。
フーリムの胸に突き立てられた剣は、銀の装飾が癖毛のように施された、宗教的俗刃だった。おみやげ物として売っていそうな安っぽさを感じる。およそ人を殺せそうな品位はないが、実際に殺傷している以上僕の感性のほうが誤っている。
口をもあんと開けて、出来のいい蝋人形みたいに固まっていた彼は、僕を驚かそうとしているのかもしれなかったが、止まっている脈を確かめても動き出さなかった。反省して溜めを大きくしているのだろうか。
もう一方のミミハウは、喉をかき切られていた。刃物は見当たらない。先にミミハウを殺し、フーリムにごしゅ。犯行の順序は想像できた。残された凶器は、指紋を検出しろとの挑戦状とも考えられる。
彼女は手をフーリムのほうへ伸ばそうとしていたなごりがあったが、僕の布団の横幅によって作られた距離には全然届いていなかった。もちろん僕は、その手が僕に向けられたものだとはまったく思わなかった。
さて、残念ながら僕は名探偵ではないし、犯人はこの中にいない。あるいは僕の寝相が破滅的に悪くてこうなった可能性もあるが、監視カメラや剣の心当たりがない以上、事件は迷宮入りの様相を呈している。
立ち上がって背骨を開放するように腕を広げる。余裕があるわけでもなかったが、朝起きたばかりというのはそうするべきものである気がした。
耳元にふっと息を吹きかけられ、ぞぞぞぞと悪寒が走る。
背後にはトカゲ男がいて、僕は下半身を脱力させた。
犯人はおまえか? もしくはおまえだ。この中にいなかったはずだが、いるものだね。世界は僕よりも早く進んで、いつだって置いてけぼりにされてしまう。
化け物は僕より二回りは大きい体格を窮屈そうにさせながら、威嚇と意外な愛嬌をたたえた瞳で僕を見ていた。うろうろとした表皮は高価なバッグになりそうだ。爪は一撃で僕の胃腸から微生物を召還できそうな鋭さ。
ファイティングポーズも構えられずに僕はずりずりと尻を擦らせて後退した。トカゲの丸焼きを食べていたら多少は耐性ができていただろうか。
どうしてこう脅威が襲ってくるんだ。
毒づきながら、きしゃあっと鳴いた化け物が近づく前に瞬発力の限り反転、クラウチングくずれっぽいスタート、ずるべたんといきそうな不安定ダッシュ。
玄関まで数秒だったが、体感時間もやはり数秒だった。永遠に浸るのは難しい。焦りで汗がぶわりと全身を覆い始める。それがひどく今更に思えた。適応している、とも言える。
どかん。魔力爆弾が落ちる音がする。
玄関のドアノブをひねり体当たり、して外に転げる。ふっふっふっと荒い息遣い。本気か。爬虫類はもっと仕留めるときにだけ本気出せよ。追ってくるときはなしだろ。
爪がズボンに引っかかった。
振り向きざま、僕は偶然に頼る。二〇万五七八分の一の確率。
消えろ!
トカゲの舌がちろちろと見えた。それが化け物の最後だった。空気ごとぽっかり僕の願いが成就する。
嘘だろ?
いなくなったトカゲ男に申し訳ないくらいの奇跡を起こし、一生分の運を使ったか、これまでの運のなさでチャラか、悩みながら冷えた地面に大の字で寝そべった。太陽の光を浴びて朝を確信する。
「なにをしている」
大変だったのさ。
黒服を見上げる。ビニール袋を持って、後光が差していた。仏には程遠いが、ふわふわとろとろのオムレツが食べたくなる光景だった。
ああ、そうだ。あいつら死んだよ。
一応の報告をする。見たほうが早いし、黒服が心構えをする必要があるとは思えなかったが、義務があるような気がした。義務。なんて親しみの湧かない言葉だろう。これからは無視することにした。トイレに閉じ込めて上からバケツで水をぶっかける。上履きを隠そう。机にはビッチと落書きを。
「死んだ? ああ、そうか」
あっさり返事をして黒服は家に入っていく。僕は地面のベッドでもう一眠りしてもいい気分だった。
しばらくして、くぐもった「わっ!」という声が聞こえる。
……まさかな。
信じたいものを信じる決意を固めて、恒星の恵みを享受しようと目を閉じたら、家を蜂の巣にする銃声が響いた。
ダダダガガガとマシンガンだかなんだか知らないが、火器さんが役割を果たそうと頑張っている。フレフレと応援団長バズーカも放たれた。ちゅぎゃん。一瞬で木造一軒家は壊滅打撃を受ける。
帽子を押さえるみたいに頭を抱え、衝撃をやり過ごした。
止んだら今度はさっきのトカゲによく似たやつ、影がソリッドになったようなやつ、ムキムキの犬、が跡地に飛び込んでいった。そんなに急いでも、待っているのは焼けたにおいだけじゃないかい。
そうでもなかったようで、返り討ちにあった連中、おや、犬だけだ。きゃんきゃんと逃げ帰ってきた。
英雄か殺人マシーンか、焼土から現れたる黒服は、フーリムとミミハウを血の使い魔で持ちながら、悪魔どもを串刺しにしていた。やっているほうもやられているほうも悪魔なのでややこしい。
ムキムキの犬は悪魔なのか判断がつかない。ただのやばそうな犬であっても驚きはしない。ところで僕に犬の矛先が向けられたようでまずい。
ポチはよだれを垂らして僕に駆ける。迷惑千万僕も生きれば犬に当たるわけだが、実際に当たる前に軌道が変わった。空中演舞、一回転半ひねりを加えて大地にバウンドする。
横からワンワンを蹴ったフィカソトリアの登場に僕は斜線じみた表情を浮かべた。
「また、会えたね」
にこっと笑う彼女に僕は射程の足りない唾を投げた。
……どうしてここに。
「うーん鼻を、使って?」
僕はあらゆる意味で問うたのだが、フィカソトリアは方法だけ答えた。少なからずショックを受ける。僕はそんなにくさいのか。シャツに顔半分を突っ込む。昨日風呂に入っていないのは確かだし、あれがそれでああなのかもしれないのも事実だ。しかし人間に嗅ぎつけられるなんて、いいのか。大丈夫か。
「あたし革命者、だから」
こちらの動揺を察したのか、フォローされた。だけどそれだけの説明で納得できるのであれば、テストで赤点を取ったりしない。生きていることに疑問を抱かない。奴隷か支配者か議論にならない。真夜中に急に走り出さない。最後のはやってない。
「革命者は同盟を破棄するのか!」
ありったけの賭け金をつぎ込んだかのようなでかい声が、さきほどの銃声の先から聞こえた。
「そういうわけじゃ、ありませーん」
相手に対してまったく配慮しないふつうの調子でフィカソトリアが言った。たぶん、聞こえていない。
「あと三〇秒以内に返答がない場合、敵対したとみなす!」
その制限時間はどこから出てきたのだろう。その因果関係と恣意性を考える。カップラーメンはできるまでに三分だ。三〇秒だと六分の一しかできない。カップラーメン六分の一。昼食のメニューに載せるにしては貧弱。あまりに胃袋を満たす訴求力が薄い。広告には、あなたはこれで満たせますか、と無垢な目をしたタンクトップボロボロ短パンの子供が手のひらを差し出している。満たせませんとポスターをびりびりにしたところで、フィカソトリアが跳躍した。
「面倒、だなあ」
僕と襲撃者の間に降り立ったフィカソトリアの言葉を拾う。
「えー、これは、あたし独自の行動、であります。革命者全体の意思ではなくて、同盟は関係ない、のです」
「そんないい加減な話があるか!」
まことにそのとおりであると襲撃者に同意。異方者と革命者の同盟の内容など知らないが、フィカソトリアが間違っていることは僕が保証する。僕がどれだけ間違っていたって、彼女より間違っていることはありえない。
「いい加減、いい加減……」
山びこのように徐々に小さく反復するフィカソトリア。ぎりっと歯軋りをしたような気がした。気のせいだろう。病は気から。僕の防御も気から。
「初恋がいい加減であるものか!」
世の中にあるもので恋はそれなりにいい加減な部類だよ、フィカ。僕は力なくつぶやいた。