死体、そして眠る
調子にも高級車にも乗っているカップルから、信号待ちの機会に試練を与え略奪をし、法廷速度を守っているつもりで走っていた。気がつけばもう夜だ。それとも、まだ夜なのか。僕の感覚は鈍くなっていた。
山を登っているのだろうか。建物を見かけなくなり、道路の脇にはひたすら木々草々が続く。人ごみはうんざりするのに、森に癒しを感じるのはなぜなのか。それを考えて僕は森が少し嫌いになった。こいつらも密集している点では、不快度が変わらない。
暗闇と意識がシンクロし、対向車のヘッドライトが目に入るときにわずかに揺り戻される。うつらうつらと、脳が休もうとしているのがわかった。
疲れているのは確かだ。なにより、フィカとの出会いが僕を衰弱させていた。純潔を汚され、精神を暴かれ、再会の呪いをかけられた。なにもかもが最悪直前だった。
ぐったりしながら、どこに向かっているのか尋ねる。
「魔力患者がいる家だ。我々が接触できている二人がそこにいる」
戦争を終わらせるには、僕を含めてもまだ七九九七人足りないってこと?
「博士は八〇〇〇人ほどと言っただけだ。正確な数がわかっているわけではない。魔力の強さによってはもっと少なくて済む。博士の計算によれば、現在確認されている最低能力で八〇〇〇人集まれば戦争加担人をすべて消失させることができる。つまり少なくとも八〇〇〇人を超えはしないはずだ」
確認されていない人たちが最低能力以下でない限りはね。
「そうならないことを祈ろう。ちなみに軍では二七四四人の魔力患者が保護されていると我々は把握している」
協力してもらえばいい。
「世界七不思議の一つは、持つ力と比較してあまりに軍が無能過ぎることだ。説明してわかってもらえるならそうしているが、どうせ利用を画策されるだけだろうな。戦争が終わったその後も考えなくてはならない」
博士もあんたも軍が好きじゃないようだね
「異方者や悪魔がもっと話のできる者たちであれば、軍を倒す手伝いをしたな」
あんただって悪魔を使っている。
「悪魔も色々いる。それにこいつは我々の一部、我々自身ですらある。……そろそろつくぞ」
二人が住む家にしては上々で、八〇〇〇人を押し込めるには狭い木造一軒家だった。一言で言うなら悪くない、二言で言うなら、まあ、悪くない。そんな家だ。悪くはないがよくもない。三角の屋根は特徴がなく、山に埋没している。一応周りの植物はある程度刈られていたが、半分一体化しているようなものだった。
「明かりがついていないな」
黒服の言うとおり、家から光は発せられていない。真っ暗だ。これで人がいるとしたら、ぐっすりお休み中か殺人事件が起こっている。もしくは光が苦手な人か。
鍵はかかっていなかった。やはり殺人事件か。
泥棒のように中に入る。ぷぅんと蝿が飛んでいる。うっとうしくて払う。どこかへ去った。と思ったら、戻ってくる。払う。去る。またぷぅん。ええい、ここに死体があるだろうから、そっちへ行けよ。
黒服はあっさり居間まで進み、電灯のスイッチを入れた。若干の震えを挟んで明かりがつく。
するとそこには、真っ赤な液体に染まった二つの人間の体があった。男と女。
あまりに予想通りの事態に、僕はむしろ驚いた。と同時に、吐き気を催さない自分を不思議に思う。
黒服が死体に近づく。脈を調べようと手を伸ばすと、
「わっ!」
死体だと思っていた人間は飛び起きて、黒服に大声を浴びせた。
眉を動かしもせず受け止められて、静寂に抱擁される。
「あれー、びっくりすると思ったんだけどな」
腹を赤くした男がとぼけて言った。
「もっと溜めるべきだったかしら」
頭を赤くした女がテーブルにあったタオルですでに赤い液体を拭い始めている。
狂言死体は茶番をなかったことにするがごとく、迅速な片づけを遂行した。僕が鬼の軍曹だったら地球を横断してこいと怒鳴りつけていただろう。事件の解決を名探偵なしでしてしまった。しかし死体がすぐにトリックをばらすというのも、なかなか新しいかもしれない。二秒くらい新しい。
「おっと、そちらは三人目のお仲間さんかな。俺はフーリム。よろしく」
雑巾片手に白い歯をししりと見せて、男が挨拶した。その歯に泥を塗りつけてやりたかった。
「私はミミハウ」
ウィンクしてきた女には、左ジャブからのハイキックを決められたら、どれだけ爽快だったろう。博士の言葉に従って、この魔力患者どもの中心になるのは、四三度のお湯に体を沈めるのに似ている気がした。早く出たい。第一印象から極悪だった。
次に黒服は信じられないことを口にする。
「アガリ、きみにはこの二人と一緒にここに住んでもらう」
馬鹿か。そしてアガイだよ。
「すばらしい! 仲良くやっていこうじゃないか。いや、俺よりミミと仲良くしてもらっては困るけどな!」
「あら、フーとの友情に目覚められたら、私のほうが困るわ」
ははは、うふふ、と笑う元死体もどきに対し、僕はすねを蹴った。
「いたっ! なにをするんだボーイ!?」
「もうドメスティックバイオレンスなの? そうなの!?」
頼む、喋らないでくれ。大規模な雪崩に巻き込まれてくれ。砂漠でサボテンと同化してくれ。パラシュートなしで飛行機から落ちてくれ。時速二〇〇キロメートル以上出した車に乗って壁に衝突してくれ。
「うーん、遠回しじゃないか。俺と君の仲だろう。もっとはっきり言ってくれ」
まあなんというか、本物の死体になってくれないか。僕は他人に言った。
「やだ、もう殺し文句だなんて、ちょっと性急ね坊や」
ちょん、と人差し指を額に当てられて、僕は苦笑いした。生まれて初めての苦笑だった。笑っちゃう、苦く、笑っちゃう。フィカよりはるかにマシだが、こんなことで初めてを消費して、横隔膜が痙攣しそうだ。
ああ、いやだ。
そう言い残し、僕は家を出た。
足元に迫る血の使い魔に気づかず、絡まれてこける。衝撃は柔らかい土で吸収されたが、鼻をぶつけてうんざりした。僕は弱っている。
「待て。おまえの気持ちはわからなくもない」
というか、わかれよ。
相手が黒服なのか悪魔なのかどうでもいいまま舌打ちした。
「我々が用意できる潜伏場所は多くない。ここが一番安全だ」
僕にとって危険なんだ。
「落ち着け。深呼吸だ。とりあえず今日はここで眠れ。さすがに睡眠中は煩わされないはずだ。体力を回復しなければ行動は起こせない」
足と腕を掴まれて、狩られた豚のように連れ戻された。
「おう、おかえりアギイ」
「アギイ、布団ひいておいたからね」
アガイだよ。力なく伝える。本当に疲れているんだ。さっきのはなかったことになっているみたいで、ご機嫌な鼻歌が聞こえた。
黒服はどこかへ行ってしまった。自分だけこの場からいなくなるとは卑怯だ。僕はもう逃げる気力と体力を失してしまった。がくりと燃え尽きる一ラウンド前だ。
布団を見る。三セットあった。けしてふかふかではない、下等でもない、布団布団した布団がある。問題はつながっている形で並べられていることだ。端と端が合せられ、連結させられている。このキングサイズになった布団にひとりで寝ていいということだろうか。
「アギイは疲れているみたいだから、俺たちも早めに休むとしようか!」
「そうねフー。これから家族同然の付き合いになるんですもの。親睦を深めるに越したことはないわね」
いそいそと着替えもせず、二人は布団に座った。僕から見て右にフーリム、左にミミハウ。中央の布団を空けて、さあどうぞとばかりに手で示している。
なぜだ。
頭痛がしてくる。眠気以外にも脳みそが闘うものが増え、もうどうでもよくなってふらふらと布団に倒れこんだ。
「なあなあ、好きな子とかいるのか?」
「そういうのは先に自分から言わないといけないわ」
「じゃあ俺が教えたら、アギイも教えろよ。……俺は三組のミミハウちゃんが好きなんだよ」
「えっ。フーリムくん……」
「ああっ、き、聞いていたのかいミミハウちゃん?」
蝿より蚊より就寝時にそばにいてほしくないやつらが、ここにいる。寝相の悪いフリをして裏拳をお見舞いし、無理やり静かにさせた。腕力はないほうだったが、こいつらは暴力に弱いようだった。
が、すぐに復活する。
「そっち、行ってもいい?」
「え、でも、みんなに気づかれちゃうよう」
どうして僕を間に挟んで演劇をやるんだ……。
一時間ほどのちに、ぼこぼこの二人と困憊の僕は気絶するように眠った。