フィカソトリア
母親が淹れたコーヒーに、生クリームもどきを足して飲んだ。
父親の釣りに付き合って、二時間ほど無駄な時間を過ごした。
サラスナが僕を小突く。クラマサってさ、どんなものが好きなのかな?
なにがさ。どんなものって。
たとえば、花の種類とかさ。
アサガオでいいんじゃないか。
なんでおまえが決めるんだよ。
決めてしまってさ、気持ちを込めてさ、贈ってしまえばいい。きっとみんな贈りものが好きだから。
ゴミを贈られていい気分の奴はいないだろう。
サラスナは笑った。彼はよく笑った。中性的な容姿に朗らかさを浮かべていた。
きいてみれば早い。僕は立ち上がった。慌ててサラスナが腕を引っ張る。ぐい、ぐい。服が伸びてしまうよ。
本人に言えるくらいなら、おまえに言ったりしない。
ひどいな。僕はクラマサ以下か。
ああ、クラマサ未満だ。当たり前だろ。馬鹿か。
僕を馬鹿にするときだって笑顔なんだ、こいつは。
フフクベが机にドンっと雑誌を広げた。いきなりだったので、眉を苛立ちに曲げてフフクベをにらむ。
見ろよ。新作だぜ。この女、やべえと思わねえか。
見ろと言われて見ていたら、目が腐っちまうよ。
だけど僕は視線をうっすら寄せていた。深い溝が確認できる。するすると触手が天へ昇る魔法の谷間に、理性を殴り散らして吸い込まれたくなる。いや、理性の神官は本能の戦士と結託して、一緒に鑑賞会をする。眉と鼻までもが噛みついてきそうだ。肌は枕を擬生化させて、溶かした砂糖を振りまいたよう。金色の蛇が腰まで絡みついて、刺激に捧げたくなった。なぜだろう、唇と瞳は思い出せない。無の筋に辿り着く旅を終える前に、急所が剣を構えそうになるが、ぼすんと拳をフフクベに突き出した。
やべえよ、てめえの無遠慮が。
まあまあ、目くじらを立てることはない。
サラスナは素直に楽しんでいるようだった。ぱらぱらページをめくって、口笛を吹く。おれはこの人が好きだなあ。
ホントかよ。僕も見て、納得する。本当だろうなあ。だって、だってさ……。
真夜中、外の空気は僕を迎え入れた。コートの保温性と相殺される気温。流星群の予報は期待をあおり、貧乏ゆすりを導いた。
どうして星は流れるんだろう。
質問に答えるのは、影だった。隣の樹と同じ高さで、僕と同じ太さで、父と同じ声で、友と同じ気安さで、魔法と同じ断言をする。
それが死ぬということだから。
あのときだ。僕が死について意識したのは。呪いを獲得したのは。
ジグソーパズルのピースは半分も揃わず、僕は過去の海から陸に上がった。
茫然自失となって、唇をなぞる。かくん、どしゃ、がくり、と膝を地面についた。土下座の準備をする格好になって、魂の欠片をふらつかせた。
ああ、ぁああああああ、あ。
心臓が痛い。唐辛子を噛み砕いたあとの舌のようだった。坊主が必死で鐘をついている。馬鹿みたいにうるさい。最も祝福すべき騒音、赤ん坊の泣き声に起こされた母のあやし。大丈夫、大丈夫。あなたは大丈夫。ダメだ。落ち着けない。崖に右手の五本の指だけでしがみついる状態で、カウントダウンをされている。指外し妖怪が近づいてきた。小指が外される。いっぽーん。続いて薬指。にほーん。にたりと嘲笑。中指への気配、しかし人差し指。さんぼーん。耐え切れるわけもなく、闇にさらば。
すうっと肩に触れられる。びくりと臆病な動物が反応した。
「どう、だった?」
哀れな表情を作っている。その自覚のまま顔を向けた。
魅殺される青い瞳。触れ殺される白い肌。撫で殺される金の髪。聴き殺される無色の声。
人間の女。
絶望の僕。
「死にたい」
それが最初の希望だった。
「ダメだよ、死んだら。あなたには責任を取って、もらわないと」
責任? 僕に責任なんかない。僕は無責任だ。
時間を止めていたのは、僕だけか、僕と女だけだったようだ。
気がつくと戦闘音は激しさを増している。ちくわことガラハロンドル・ナックトイテと黒服が三メートルほど跳躍して、昼食のサンドウィッチ程度の空中戦を行なった。腕と腕との交錯。ガラハロンドルはそのものを警棒のようにして、黒服は血液悪魔を有効にするための布石の鞭として使ったようだった。速度で上回るガラハロンドルと手段で上回る黒服。打ち勝ったのはガラハロンドルだったが、勝者は黒服だった。
頭をひどくぶっ叩かれ、どしゃりと格好悪く地面に落ちた黒服と、鞭を涼やかに受け、着地は見事だが血液をびしゃりと大量に浴びたガラハロンドル。降参のポーズをしたのは後者。
「肺に侵入を許しては、さすがのぼくもお手上げだ」
銃声と悲鳴が聞こえた。洗脳子が追い詰められている。特別な能力がない異方者らしき連中は軒並み昏倒していたが、数で劣るはずの革命者が洗脳子を圧倒していた。
「あと一一時間三〇分経てば貴様らなぞ……!」
負け惜しみを少年が言う。一一時間三〇分経っていない以上どうしようもないじゃないか。彼らはやはり子供に思えた。黒服は彼らのそばにもついていたが、守るというよりは無茶を止める役割を担っているように見えた。少なくとも革命者に対し積極的行動はしていない。
「彼らを殺すつもりはない。もちろん、一一時間三〇分後には定かじゃないが。ぼくらの憶測では、戦争加担人になる確率が極めて高いからな。洗脳子が完成すれば」
ガラハロンドルが肩をすくめる。立ち上がった黒服は、ぱたぱたとごみを払った。
「我々もきみを殺す意図はない。革命者は先見的だが、不撤回決定は慎重だとも理解している」
「そう、それにきみらが味方をしている以上、不利なのはこちらだ。絶対共同体を屈服させる手段は、まだ開発されていない。まあ、それゆえの絶対なのだろうな」
「洗脳子を殺されるわけにはいかない。革命者のカウンターになる。バランスを大事にしなければ、悲劇が訪れる」
もしかして膠着状態になったのか。誰も動こうとしない。いや、女が僕の頭を遠慮の砂粒もなくぽんぽんとしてきた。不可解にもほどがある。
「あたしこの人をどうにかしたいんだけど、いい?」
どうにかってなんだ。
即座に黒服とガラハロンドルが答える。
「ダメだ」
「どういうイレギュラーかの判断が先だな」
僕は意見を出す気力を持っていなかった。ただ理不尽が通り過ぎるのをじっと、留守番する家の中で、淋しさを誤魔化すおもちゃを一生懸命に模索する四歳児の心境を再現していた。
女が僕を捉える。しゃがんで目線を合わせ、赤子に諭すように名乗った。
「あたしはフィカソトリア・ジェクピアート。フィカって呼んで、いいよ」
フィカ。
忌まわしき名前をこぼすと、満足げに彼女はうなずいた。
「もっと呼んでよ、もっと」
油を差し忘れて数年間を経たポンコツになって、僕はぎぎ、ぎっと首を不器用にひねった。拒否がうまくできない。
「戯れている場合じゃないぞ。その男、どうやら重要な客のようだ」
ガラハロンドルがじろりと、黒服と僕を見た。今度は黒服が肩をすくめる。すかした態度が得意な連中だ。
「その女は新顔だな」
「つい最近因子に目覚めたばかりだ。ぼくもよく知らん」
「人材不足らしいな」
「革命の同志であれば、選ばないさ」
ふと、黒服が動いた。一気に短距離走。右足が小さい一歩、左足が大きく前進、右足がとても大きな三歩目。詰まった間隔に、なぜか僕は息が止まった。フィカソトリアを突き飛ばし、あ、と言う間に僕を抱えて建物を飛び出した。
「待って、待って!」
フィカの声が聞こえる。むしゃくしゃするイノセント。
「会いに行くから。また、会おうね!」
一方的な約束に、黒服の肩に当たった腹が躍動するのを感じた。
初めてだったんだぞ……。
遠くなっていく彼女の姿。
悔しくて、痛ましくて、涙が出てくる。僕は泣き虫だった。知らなかった。彼女が知る機会を得る要素だったことに、どうしようもないやるせなさがある。快楽と不快のミキサーの中で、徐々に憎悪が満ちた。虚無に地震、全能に雷。価値観や冷静のテーブルをかき乱す。
「あなたの名前を聞き忘れた! 今度、教えてね!」
初めてだったんだぞ!
僕は絶叫した。