暴虐老人
なんとか逃げられないものかと体を動かしてみたが、腕まで悪魔が取り付いて自動操縦状態だった。
残念ながら死神ではなかった黒服たちは僕を四輪自動車に詰め込み、イージー・マスカットとやらに運び始めた。まるで荷物扱いだ。トランクに押し込められなかっただけでも憎悪を抑えるべきなのかもしれない。
幸いにも首は稼動できたので、移動中僕はずっと外の景色を見ていた。むなしい木々と歩行者、屋根を失った家、活躍するジャンクフード・ショップ。幼いころ、こんにちは、と挨拶すると、店員さんがにこっと笑って応えてくれたっけ。ああ、おにぎりが食べたいな、と切実に思った。
どかん、と大きな音がした。振動が伝わってくる。魔力爆弾がまたどこかに落とされたのだろう。
本当に魔力爆弾が落とされたところなんて見物できた試しはない。だから「どこか」なのだ。「誰か」とか、「どこか」とか、そういうもので世界はできている。
黒服を眺めて、死ね、と言ってみた。
しーん。
静けさが身に触れる。気温が一六度くらいまで低下したようだった。僕の人を傷つける言葉は彼らの強さに助けられて、ちょっとばかり空気を実感するだけの効果で済んだ。
「きみの呪的発声は効力を持ち得ない。少なくとも今は。よほどの偶然が起きない限り」
回りくどい語り口で黒服のひとりが言った。声は同じだったし、手首は隠れているし、さきほどの黒服と同じなのだろうか。僕は黒服が何人いるかも把握していなかった。いち、に、さん、たくさんだ。
偶然って?
今日の僕は質問ばかりしている気がした。もしかしていつもかもしれない。あまり自分のことを振り返らないものだから、よくわからない。
「魔力の波長がぴたりと合う爆弾が落とされれば、あるいはな。だが確率は低い。現在確認されている魔力パターンは二〇万五七八だ。爆発音を聞くたび二〇万五七八分の一に祈るのは得策ではない」
親切に教えてくれて、どうもありがとう。
二日ぶりにお礼を述べて、僕は眠った。二日前にお礼を言ったサラスナは僕が殺した。ちくしょう。
起こされると夕方になっていた。
到着先は堅牢でいちいち物々しい、ガトリングガンみたいな柵に囲まれた四角い建物だった。灰色の豆腐と説明されれば次からこの建物が思い出せるだろう。入り口はズボンのファスナーに似ていた。
もう「きて」とも「こい」とも言われず、血に乗ったまま中に案内される。介護されているみたいだ。
内部はきれいで、淡めのオレンジと緑を基調としたデザインだった。掃除用具でホッケーをしたらさぞ楽しいだろうなあ、と好感を抱く。
多くの人々が往来していて、虚ろな瞳をした者から輝かしく未来を発散している者まで様々だった。そいつらは嫌いになった。僕らしい人はいなかったから。僕は僕の不在に敏感なのだ。
黒服が受付の女性と会話している。女は茶髪で巨乳でデブだった。パイをぶつけたくなる顔をしている。マニュアルどおりに攻めれば陥落できそうだ。まず気持ちのよい挨拶をする。僕は挨拶が苦手だからこの時点で困難だ。次に一日三つ以上ほめる。そんな愚かな行為はやる前に痙攣を起こしてしまう。最後に接吻を可能な限り早めにかます。唇が腐るだろうが彼女はこれでモノにできる。ようするに僕は頼まれても彼女と付き合いたくはなかった。
「博士は地下にいるようだ」
黒服が黒服に伝えている。ひとり伝言ゲームのようで面白い。
地下に向かうエレベーターは、黒服と僕と血でぎゅうぎゅう詰めになった。いい加減この使い魔をどかしてもらいたくもあったが、自分で自分を動かす感覚を忘れているような気がして怖かったので、訴えるのはやめておいた。
みんな儀礼的無関心を発揮して静かだった。階数が表示されている電子板をじっと眺めている。ごほん、と誰かが咳をした。
チン、と殴りたくなる音がしてエレベーターは地下四階に止まった。
地下らしくないまぶしい廊下が続いている。滑稽なほど蛍光灯が並んでいた。黒服と血が行進し、カツコツペッチャと響く。途中、警報機の赤いボタンが「強く押す」と書かれた姿を晒していたので、僕は久しぶりに腕を上げようとした。がっちり固定されているのがわかった。
やがてたどり着いた世界の果て、「第二絶対研究室」とプレートが掲げられた黄色い扉は、僕らを歓迎するように自動で開いた。と思ったら入る前に閉じた。センサーが不具合を起こしている。もう一度開いた隙に黒服が体を滑り込ませて閉じるのを阻止した。
部屋の中は書類と観葉植物にあふれて溺れそうだった。泳ぐように紙と葉を掻き分けて黒服列車が通過する。線路はどこまでもは続かず、あっさり終点まで導かれた。
「博士、例の者を連れてきました」
博士と呼ばれた人物は期待どおりの老人で、刻まれたしわにいくつコインを挟めるかを競うゲームで遊べそうだった。丸い眼鏡は知性を司る小道具に見える。腰は曲がっていないが、脚が悪いのか人を叩くのに便利なのか頑丈そうな杖をついていた。ぷるぷるする指先で僕を差し、目を凝らしてかろうじて確認できるくらいに唇の端を歪ませた。
「きみがアライくん、か。待ち望んでいたよ。さあ、きみとわたしの関係をスタートさせよう。まずは座って体を休めてくれたまえ」
アガイだよ、と訂正する。あと、なんだか気持ち悪いおじいさんだな、と文句を言った。
「血液悪魔が邪魔だね」
博士の言葉に黒服がうなずき、血の使い魔が僕からはがれる。時間を巻き戻るように手首へ帰還した。
肩をぐるりと回してみる。特に問題はなかった。むしろ調子がいい。血液悪魔健康法なんてメディアで特集されていただろうか。
「さて、さて。まずは確かめたいことがある。口を開けてくれないか」
いやだ。
五分で終わる歯の検査を口を開けたくないという理由で九時間かけたこの僕が、そんな言葉に大人しく従う道理はなかった。
ところが、いやだ、の「や」と「だ」の間くらいで、僕の口には杖がねじ込まれていた。
ほごっ! 僕はスローモーションで再生してほしい声をあげた。
すさまじい勢いがあったのに喉まで貫通していないのが不思議で、杖は僕の口を開ける目的を遂げるのにちょうどよくはまっていた。
「はい、じっとしていて」
じたばたしようとするのを黒服に押さえつけられ、じっとさせられた僕は、唾液がぼたぼたとこぼれる労力に意識を集中した。じわじわ、ぼた、ぼた。人間の七割は水分でできているらしいのに、こんなに失われていいのだろうか。補給が急務に思えた。もし僕が天上人だったらこの唾液の一滴一滴が地上の恵みに違いない。ヒラタが言っていたよ、雨こそが僕らの真にあがめるべき対象なのだと。確かあのときは外でマラソンをさせられそうになっていたんだ。中止になってよかった。五キロも走ったら死んでしまう。走らなくても死んでしまった。
「ふーむ、検査薬はどこへやったかな」
博士こと杖の魔術師、もしくは暴虐老人が、僕の口に突っ込んだ杖を持ったまま、紙束をどけてなにかを探す。
あが、があ、あぐ。
「あ、これだ」
次の瞬間、僕は口に一枚の紙をぶちこまれ、杖を引き抜かれた。
が、べっ、べっ!
すぐさま吐いた。なんで一日にこれほど吐くって動作をしなくちゃいけないのか、泣きそうだった。
「おお、素晴らしい。変色具合が完璧だ」
青い紙を拾い上げて暴虐老人が感心したようにうなずく。今このじじいを叩きのめせたら、三時間ほど寿命が縮んでもいい。
「魔力痕がこれほど鮮やかに残っているのであれば、成功確率はもはや一〇〇パーセントとして差し支えない。だが、数の圧倒的不足を解消するにはひたすらに時間が必要だ。魔力爆弾が軍の管轄にあるのが問題だ。まったく、とりあえず使っておけばなんとかなるという短絡的思考が、そもそもの原因であることに気づかないのか」
ぶつぶつとつぶやく暴虐老人。僕は黒服にとにかく水、できれば麦茶かオレンジジュースかスポーツドリンクを持ってくるように頼んで、紙のベッドに倒れこんでいた。
「そうとなれば、さっそく行動しなければならない。きみ、寝ている場合じゃないぞ」
暴虐老人が僕を揺さぶった。年寄りに優しく接してきた僕の過去にさよならを告げて、彼の眼鏡を割りたかった。
しかしそれよりは先に水分が必要だ。口内の小人たちが飢餓に苦しみ、神に祈っていた。祈るとはそういうことなのだ、と唐突に理解した。
「さあ、共に戦争を終わらせようじゃないか」
たわごとをBGMにしながら、ペットボトルを持ってきた黒服に抱きつく寸前の僕がいた。




