どうもしない
僕は埋没する顔の一人になって、途方に暮れていた。
病人だらけの部屋では、誰もが祈っているような眠っているような、それともただ生きているだけのような姿で過ごしていた。営みという風は感じず、そこに「ある」置物として存在している。人形と人間の狭間で、ぼんやり糸を眺めている。
胸くそが悪くなって、僕はスペースを探した。魔力患者で占められた部屋にはどこにも居場所なんてなかった。必死でパーソナルを確保しようとする。個人を維持しようとする。息苦しさでまいってしまう前に。
意識はあるのか、縫って動く僕に視線を当てる者はたくさんいた。だけど誰も話してはこない。席を譲るわけもないだろうが、動きやすいように詰めてくれる気配もない。
広間の限界は近く、扉とは正反対の壁にたどり着く。だからどうしたこともなく、僕はずるずると座り込んだ。
とにかく数が憂鬱なのだ、と考える。人は許容以上に集まったときからごみになる。ごみは捨てられなければならない。
消えろ、きえろ、キエロ。
呪いを吐いてみても、人々の数はいっこうに減らなかった。
こいつらは、常に神話性現実化をしているのか……?
確かに魔力は供給されているようだった。悪魔に招待された部屋ほどではないが、それを感じる。この最近身につけた魔力感知は僕にとって便利だったが、もしかして元々あったもので、魔力爆弾による取り込みが雀の涙だったのではないか、と思った。なぜなら、今の状態のほうが、自然であると確信が持てたからだ。体がおぼえている僕のありのままに従うとするならば。
じっと、眼球に力を入れる。可視化できないだろうか。ようやっとこの病に向き合う機会ができたと、強引にこの事態に対する僕の心持ちを片付けて、前向きに捉えるとしよう。そう、ここにはフィカソトリアもいないし、命も狙われていない。別の不快さが横たわっているが、それだけだ。問題は小さくなっているじゃないか。
いくら目を凝らしても、なにも見えてこない。魔力の欠片すら。ちっ、と舌打ち。
ゼルバは一日ここにいろと言った。あるいは僕次第で伸びる可能性も。なにか解決するべきものがあるということだ。あるいは、自力で抜け出してみろとの挑戦状か。一日で解けるパズルだが、きみはどうかな? とでも投げかけられているのか。
ヒントがあるとすれば、魔力がここに供給されていること。神話性現実化病患者でこの部屋が埋め尽くされていること。僕自身に備わった諸々。
どれだ? すべてか?
魔力が流れてくる穴がある可能性。神話性現実化の方向性を揃える可能性。僕が八〇〇〇倍強くなる可能性。
ありえそうで、ありえない。ありえなさそうで、ありえる。これは選択なのかもしれない。武器を取れと言われているのかもしれない。なんだか億劫な話だった。
僕になにができるっていうんだ。
今更のつぶやきを漏らし、周囲のやつらを蹴っ飛ばして、僕はごろんと横になった。
眠りは訪れない。魔力がカフェインの代わりでもしているらしい。
「こんばんは」
まさかの声で僕は眉を跳ね上げた。僧侶のような白い衣服をまとった女性が、顔の前にしゃがみ込んでいる。
軍の人か、と勘で尋ねる。すると彼女は素直にうなずいた。
「ええ、そしてわたしも魔力患者です。あなたのお手伝いをするように言われました」
手伝い? 軍のやつがここに入れたんだぞ。
「必要だからですよ。あなたはここでしなければならないことがある」
なんとなくはわかる。でも、なんとなくしかわからない。
これが悪魔の用意した魔力を得る方法だとしたら、「使わなければならないとき」が迫っているとしたら、面倒なときが迫っている。しかし、この程度の魔力でいいのか?
わずかずつ満ちてはいるようだが、締りの悪い蛇口でしかなかった。ぽちゃん、ぽちゃん。
「ここで普通の神話性現実化はできません。あなたは、普通でなくならなければ」
普通ってなんだよ。もうとても普通とは呼べない。ここにいるやつらも、僕も。
「いいえ、数が生まれ、平均が生まれ、感覚が育ち、差別が育ち、自分が自分であると固執したら、もう普通はそこにあります。牢獄はあっけなく、瞬きする間に作られるのですよ」
魔力患者が動き、彼女の背中を押す形になった。しかし彼女は揺らがない。ここの連中は空間を占めているくせに、まるでいないかのように、ただ占めているだけのように、気味が悪かった。
それが物質の本質?
僕は首を振った。本質を巡る戦いは、いつだって間違っているんだ。
僕に試せと言うのか。超越的にでもなれと。
「さあ? わたしは手伝うだけです。神から人になって失われたものを取り戻す病に、祈りを捧げるだけです」
病は病だ。なにも取り返しはしない。
「違いますよ。手に入れたから、失ったのです。病は不健康を手にします。我々は健康を手にしていた。健康を否定して、病にかかれば、不健康を取り戻せる」
神は不健康? そうかもしれない。
僕には神様の話なんてうんざりするもの以外の何物でもなかったが、それはちょっと面白かった。
「神話性、つまり超越的想像は、本来現実化してはならない。できないではなく、してはならない。禁止です。大変ですからね。世界より大きい巨人が出現でもしたら、対処は不可能です。ところが、分散によって可能になった。神話性の分散、役割の細分化、分類。矮小にすることで、現実化してもよいと許可が出るほどに、神話性は薄まりました。分子になるほどに。その最小単位が魔力です」
一番理解できたのが、「禁止です。大変ですからね」だ。博士の説明はまだましだった。だけど、わかるような気もした。僕の身体、精神にしっとり染み入る部分がある。彼女の話術による錯覚だろうか。うまいとも思えないが、催眠術かなにかにかけられているかもしれない。
「……まだ、わたしのことがわかりませんか?」
ふいに女はそう言った。会ったばかりで、わかるわけがない。
「確かに会ったばかりです。でもあなたはわたしのことを知っているはずでしょう」
僕は彼女の顔を見た。初めて、いや、前にどこかで、見たな。見たよ。
ああ、ここまで出ている。鼻の奥あたりで止まっている。上あごがかゆい。もどかしい。
んっ! ぽんと、膝を打つ。
クラマサか。
え、クラマサか?
殺したはずのクラスメイト。記憶を掘り起こして、もはや重機を使わなければ届かない領域まで進み、ようやく掴む。それでもあやふやな思い出しか浮かばない。消しゴムを拾ってくれたのは、きみだったかい?
「いいえ、わたしではありません。そもそも、あなたは消しゴムを落としていない」
落としたよ。肘がぶつかってさ、机からころころと。
「あなたの記憶じゃない。おそらくサラスナかヒラタかフフクベか、他の人の可能性もあるけど、とにかくあなたの記憶ではない。誰かの記憶です」
なにを、言っているのか、わからないな。
「あなたは教室で生まれました。一二人の魔力患者によって」
生まれた、あそこで。
待ってくれ。あ、待たなくてもいい。ん、やっぱり待とう。
「革命者だったサラスナがあなたを始末しようとした。いえ、違いますね。サラスナは革命者の因子に過剰に動かされてしまったのでしょう。このあたりはわたしの想像です。サラスナがすべてを予測してあの場にいたとは思えない」
サラスナは僕の友人だった。
「それはヒラタの記憶? 彼はサラスナの正体に気づかなかったけれど、仲はよかった」
ヒラタはお調子者で……。先が続かない。ヒラタについて、僕はそれ以上知らない。明るいやつだった。だから?
「フフクベは気づいていたかもしれない。彼は見て見ぬフリばかりでした。最後まで」
フフクベは嫌いで、僕は。すぐ殴るんだ。殴られたおぼえはない。性質だけスクラップして持っている。
「あなたのおぼえていない一一人は、サラスナとヒラタとフフクベの記憶を材料の一つにした。混線して、わたしを含めた一二人自身の記憶も含まれたでしょうね」
きみは、誰だ。
「クラマサです。そこは正しい」
正しいだって? 意味のない言葉だ。
なによりおかしいのは、彼女の言うことを僕が納得していることだ。ぷつん、ぷつんと古い糸は断たれ、より古い糸がつながれる。そっちのほうが丈夫で、懐かしくて、真実をまとっていた。
僕は、誰だ。
「魔力患者一二人のうちの一人、アマガイと置き換わる形で誕生した、神話性の結晶。意思感染による多重魔力患者。その存在を高めないようへりくだり、わたしたちはあくまで紛い物であるとして、そしてアマガイを残す者として、マガイと名付けました」
僕は、アガイだよ。
「そうですね」
あっさり答える彼女に、僕は。
どうもしなかった。